──星は常に夜空に浮かび続け、少なくとも二晩に一度、一つは墜ち続ける。
『なんで人間は、この高貴な俺様の美しさが分からないんだっつーの!』
分かるか馬鹿! 今のオマエは不吉なドス黒い赤になっているだろう! ・・・という突っ込みは、いつも通りに飲み込んだ。カタカタとなる銀の桶から轟く罵声の大きさに、飲み込まずとも聞こえることはないだろうと分かっていたけれど、それでもどうにか、飲み込んだ。もしかして、僕は知らず知らずのうちに、星拾いとして大きく成長しつつあるのかもしれない、なんて本当は欠片も思ってない事を思ってみながら、ひたすら歩く。勿論、湶に向かって。
今夜墜ちたのは、蠍座の鋏星だった。
一昨日までは尾星に付きっきりだったけど、三日目までの経過がいつも通りだったので、あとはもうひたすら水につけておくだけで良くなり、今夜はまた、新たに墜ちた星を拾う作業から始めた。代わりにお師匠様は、昨日、拾ってきた星の面倒を見ているけど、流石に僕と違って、とても落ち着いていた。つまり落ち着いて、星達の暴言を聞き流していた、という事だけど。
昔話に出てくる仙人のようだ、と思ったのは一度や二度じゃない。あのまま星より高い空、雲の向こうとかに浮かんでいってもちっとも違和感を感じない空気を醸し出しているお師匠様を、偉大な仙人のように尊敬しているけど、地面から足が常に数センチは浮いていそうな人の後釜としての心構えは、その広大で偉大な空気感を目の当たりにする度に、構えようとする端から崩れ落ちていく。それはもう、ぼろぼろと。景気良く、ばりばりと。
・・・無理、真面目に自信がない。だって僕、まだぴちぴちの十八才だもん。仙人には遠すぎるって。
仙人みたいに悟りを得るどころか、一般的な人生経験すら浅い自分がどうして仙人の後釜なんだろう、なんて何度目か数えることすら飽きてくる疑問を再び抱いたところで、湶に到着。広大な湶の向こう岸には、どれほど距離があろうとその偉大な空気が伝わるお師匠様が居て、そのお師匠様と僕の間に広がる湶の底では、落ち着きを取り戻した星々と、まだぐちぐちと愚痴を吐き続けている星が一つ、それに僕の手元、桶の中には、その湶の中で垂れ流されている愚痴なんて比べものにならない程でかい雄叫びが上がっている。耳より、振動の所為で手が痛いくらいの絶叫が。
これに寛大な態度を取れるお師匠様は、やっぱり人の領域を完全に突破しているだろう。凄いと思う。本当に尊敬する。・・・けど、正直な話、僕はその域まで到達したいとは思えない。まだまだ人間である事に未練が大有りだからだ。
自分の今後と現在と、現在の自分と今後の自分、似ているようで多少違う複数の事を考えながら、手はそろそろ慣れ始めている作業を勝手に進めている。傍に置かれる柄杓、地面に着く膝、差し出す両手。出来る限り湶に向かって伸ばし、それから静かに沈む桶と、桶の淵から湶の底へと沈んでいく鋏星。もう少し丁寧に扱え、敬いの精神が足りない・・・、等々の罵倒に耐えるのも、そろそろ慣れ始めている自分が少し悲しい。
水を通して聞こえているとは思えないほど景気の良い罵倒は、今は心清らかな星に戻りつつある尾星を軽く越える。ついでに聞こえてくる罵倒のバリエーションも遙かに多い。まぁ、それも当然と言えば当然なのかもしれないと、取ってきた星履歴を眺めながら思う。なんせ、この鋏星の前回の記録の文字は、あまりにも見慣れた・・・、僕の字なのだから。
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『蠍座、第一鋏星』
十二月八日、落下確認
落下数、通算八十三回目
色、赤黒
状態、自己顕示欲過多・プライド過剰
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またオマエかよ、と墜ちてきている姿を発見した際、口にしなかった僕はお師匠様ほどではないけど、相当忍耐力がついてきたと思う。だって、本当に『また』なのだ。通算八十三回目って、本当に有り得ないだろう。ってか、有り得たらいけないだろう。つーか、有り得ないでくれ、なんて最早祈りの域に達した思いを胸に抱きながら握るペンは、力が入りすぎて掌に喰い込んでいる。こんな事ばかりしているから、ペンだこなんて欠片も出来る気配がないのに、ペンが喰い込んだ痕だけは掌に徐々に刻まれつつあったりするのが、とても嫌だ。
「はぁ・・・、」
『なに、溜息ついてるんだよっ、この野郎!』
「・・・あ、すみ、ません」
『すまんで済むか、阿呆! 謝って済むなら、警察なんか要らねーんだよっ!』
耐えきれずに溜息を漏らしてしまった僕が悪いんだとは思う。ただ、それは怒り狂う鋏星に対しての気持ちではなく、僕自身へ対する慰めの気持ちから発した後悔で、湖面を波立たせて暴れている、懲りるという概念が一切ない鋏星に対して抱く善良な気持ちは雨一滴の恵みほどもない。土砂降りの雨の如く、恨みがましい気持ちならダムを満杯にするほどあるけど。
大体、どうして墜ちてきた星の愚痴や暴言は人間の、しかも腹立たしいタイプの人間の愚痴や暴言とよく似ているのだろう? 毎晩毎晩、何処かで聞いたような罵詈雑言が耳に押し寄せてくる度に抱く現実逃避めいた疑問を、今夜も全力で思う。そう、全力でだ。そんな事ぐらい思ってないと、もうやっていられないぐらいの心境なのだ。鋏星の口が今晩閉ざされる事なんて絶対ないし、今夜を乗り切って、明日も過ぎ去って、その後の数日が過ぎ去って夜空に還ったとしても、絶対また墜ちてくると確信してしまうから、遣り切れない。
だって、二度あった程度の事ですら、次回があるのだ。八十三回繰り返してしまった以上、八十四回目がないなんて、それこそ有り得ない。しかも絶対、拾うの僕だよ、僕!
『おいっ! 聞いているのかよっ、人間!』
「・・・聞いてますよ、勿論」
聞きたくなくても、聞こえてます・・・、という後半部分の感情的な台詞は飲み込んで返した、平坦な声での返事。でもその平坦さは気にならないのか、あるいは自分の感情以外には気が向かないのか、鋏星は僕がとりあえずは話を聞いている、という一点だけに焦点を当て、一瞬の沈黙、いわゆる『溜め』を蓄えた後、一気にその力を解放した。勿論、唯一の標的である、僕に向かってだ。
『いいかっ? 人間はな、もっと俺を見るべきなんだよっ! この美しい俺が夜空に浮かんでやってるんだぞ? 毎晩悦びの溜息吐き散らしながら朝がくるまで見てるべきだろ?』
・・・いや、それだとその人、寝不足で最悪死んじゃうんで、無理ですけど。
『それなのに、どいつもこいつも、俺を見ずに自分のくっだらない事情愚痴ったり、大して美しくもない面、眺めやがって!』
・・・いや、それ、人間だろうとなんだろうと、誰だって自分が一番大事だから、仕方ないと思うんですけど。
『大体なっ、他の星達が、自分の方が美しいみたいな顔して澄ましてるのも気にいらねーんだよ! 俺が一番だろっ、俺が!』
・・・いや、他の周りの星と大きさも輝きも、大差ないんですけど。
『人間も星も、どいつもこいつも見る目がない馬鹿ばっかりで、生きているのが嫌になるわっ!』
・・・いや、それ、どいつもこいつも我が侭ばっかり言う星で、嫌気が差している僕の方が言いたい台詞なんですけど。
『おっ、れっ、がっ! 俺が一番なんだっ、俺が!』
だからもっと俺を評価しろっ! 俺に注目しろ! 俺を褒め称えろっ!
『俺をっ、俺をっ、俺をー・・・!』
・・・最早、最後の方は何の雄叫びを上げているのか、意味不明となっていた。とにかく『俺』という単語を繰り返すばかりで、他の細かな主張が消し飛ぶほどのインパクトだ。それでいて、つまりは何を主張したがっているのかだけはしっかり伝わってくる叫びとも言える。要は、誰よりも何よりも自分を評価しろ、自分を好きになれ、という主張。この上ない傲慢な主張。
こんな主張を八十三回も繰り返し、おそらく八十四回目も繰り返すのだろう星に、何を言えると言うのか? というか、一言だって言いたい事はないけど・・・、つーか、言っても聞いてもらないどころか罵倒が返ってくるだけだから、もう全てを諦めるしかないけど。
溜息を飲み込むのは、一体今夜で何回目だろう? しかも僕は溜息と共に諸々の感情を飲み込んだはずなのに、そのすぐ後にも『つーか、どうしてアイツの方が注目されてるんだよっ!』とか、『あんな奴、ただの八等星じゃねーかっ!』とか、聞くに堪えない台詞が出るわ、出るわ、出まくるわ、我慢して諸々を飲み込んでいる自分が馬鹿に思えてくるというか、空しくなってくるというか、とにかく、色んな意味でガッカリする状態。がっつりガッカリする状態、なんて自分で自分にくだらない冗談でも言わないとやっていられない状態。
これ以上持っていると自分で自分をうっかり突き刺してしまいそうな予感に、力が入りすぎている手をそっと開き、ペンを置いて開いていた星履歴もそっと閉じる。それから絶え間なく聞こえる暴言をバックミュージックに、そっと見上げた夜空は雲一つなく、嫌みなくらいの数の星々が浮かび、競うように輝いている。
浮かぶ星は綺麗だと、今でも純粋に思うのだ。ただ、聞こえてくるバックミュージックの所為で感じる虚しさで、どうしてもその美しさを素直に受け入れる事が出来なくなっているだけで。そして、その広がる星々を女王のように従え、優雅に君臨する月を見る度に、どうして僕はあの月に傅くのではなく、暴言を巻き散らかす星に傅く羽目になっているのだろうと、もう振り返っても手遅れな人生を再び、振り返ってしまう。
でも本当に、気がつけば不毛な人生になっているのは、一体何故なんだろう?
『だからっ、おーれーを、みろぉー!』
・・・だから、夜空に浮かんで綺麗に輝いてくれるなら、見るってば。
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通算八十三回目の落下を経験した星ですら、いつもの流れはいつも通り流れていく。こればっかりは、あの力強い罵詈雑言の力をもってしても逆らえないらしい。その事実を目の当たりにする度に、湶の偉大さをまざまざと思い知る。ついでに言えば、人類の傍に広がり続けてくれる湶に対する感謝の念が、尽きることのない水源のように湧き出す瞬間でもある。
時々思うが、この湶が存在していなかったら、人類は暴言を巻き散らかす星を相手に、一体どうやって生活していたのだろうか? 墜ちた星を再び夜空に還すことが出来ず、星が転がったままの地面で、しかもその数を夜ごと増やし、代わりに徐々に星が失われていく夜空の下で、突き上げるような暴言に晒されながら、本当に、どうやって・・・、もしもそんな世の中になっていたら、人間は生活を破綻させずに生きていく事が出来たのだろうか?
・・・たぶん、無理。少なくとも、僕には無理だな。
『俺、早く戻ってやらないと駄目だよな』
ぼんやりと浮かべた仮定未来に対する、酷くあっさり出た結論。初めから分かりきっていたその結論を、そうと知りながらじっくり噛み締めていると、つい少し前まで沈黙していて、その更に前には暴言を吐き散らかしていた鋏星が、唐突に何かに気づいたかのように、そっと呟いた。それはまるで、自分の中に大切に溜めていた、何か、綺麗で柔らかでか弱いモノを、掌に包み込むようにして差し出す、そんな仕草をイメージさせる穏やかさだった。
きっと、今まで八十二回繰り返している流れ。八十一回分は知らないが、少なくとも僕は二回目になる流れに、分かっていながらそっと湶の底を見下ろせば、そこにはつい少し前までの不吉な暗色を脱ぎしてて、鮮やかな赤を燃やしている鋏星がいた。蠍座の、蠍座たる象徴、大鋏の一員を成すに相応しい、艶やかな赤い星が。
夜空の深い藍色に殊更映えるその赤は、今、湶の底で輝きを取り戻しつつあった。同時に、墜ちるまではそうであっただろう、他者を攻撃するものではない自信も取り戻しつつあって。
『ほら、俺ってば、あの目立つ鋏の中でも、一番目立つ鋏星だろ? だからさ、欠けてると鋏としての形が成り立たないって言うか・・・、みっともない形になるんだよな。そうなると、他の星達も可哀想だろう? 俺ほど目立ってなくてもさ、みっともないってのは駄目だと思うんだよ。だから一刻も早く、戻ってやらないとなぁ・・・』
・・・あぁ、そうですか、としか言えない。もし、何かを言うとしたら、だけど。自分の事より、他の星の事を思い遣っています、みたいな台詞になっているけど、少し前までは逆だったはず。それなのにどうしてこう、湶の水に晒された途端、都合良く態度が切り替わるのか。この凄まじいまでの態度の変わりようだけは、何度経験しても慣れない。というか、慣れて堪るか、という感じもする。
でも湶の上から僕が投げかけている白い目線に全く気づかない、もしくは全く気にしてないらしい鋏星は、取り戻し始めている自分の優しさに悦に入っているとしか思えない態度で更に台詞を続ける。尾星やその他の星と同様、僕一人に見せる為の舞台に立っているかの如く、少々演技かかった台詞を。
『それにさ、思い出したんだけど、実は俺の、っていうか蠍座の観察するって言ってた子供がいたんだよな。学校の宿題で、何か好きな星を数日間観察してきなさいってヤツらしいんだけど、その対象に、蠍座を選んだセンスのある子供がいてさ、確かあの時、来週からやろうとか何とか言っていたと思うんだよなぁ・・・、だから、そろそろ戻ってやらないとだろ? 俺がいなかったら鋏が完成しないし、鋏が完成してなかったら蠍座じゃないもんなっ!』
・・・あぁ、そうですか、としか言えない。もう、本当にソレしか言えない。勿論、もし何かを言うとしたら、だけど。つまりは、結局のところ何も言えずに黙っているしかないわけだけど。ただ、僕の目はいっそう白さを増す。鋭さも増す。強さも増す。攻撃性を備え、不服を覚え、怒りを感じ、今すぐにでも視線でオマエを貫いてやる、いや、視線じゃなくてこの手で円いその身を絞ってやる、ぐらいの気持ちを抱いている。やってやるぜっ、くらいの気炎を上げている。
まぁ、それも勿論、最終的に僕の外へ放出される事がない諸々だけど。
幾度となく持った、僕は間もなく内側から容量オーバーで爆発するな、という危惧を、今晩も決まり事のように抱いて、そっと、そっと、息だけを吐き出した。そうしてふと対岸を見ればいつも通り、お師匠様の穏やかな姿がある。全てを受け入れ、受け流し、泰然としてそこに在り続けるお師匠様の姿が。
その姿を見つめながら、一体お師匠様はいつからあんなに泰然と出来るようになったのか、それとも初めから仙人みたいな人だったのだろうかと、今まで一度も口にした事のない、どうしても口に出来ない疑問をこっそり、これもまたいつも通り、水草の影に隠した。
*******
──僕にとって、唯一、特別な星が今夜、墜ちてきた。五回目、だった。
『・・・ご免なさい』
「えっ、いや、その、全然大丈夫だよっ! ほら、前も言ったけど・・・、これが、僕の仕事だし!」
『でも・・・、私、また、墜ちてしまって・・・、』
「いいんだよ! 気にしないで、またじっくり湶で休めばいいよ!」
他の星達とは違い、柄杓で細心の注意を払いながら掬い、同じく細心の注意を払いながら桶に入れたその星は、本当に、本当に申し訳なさそうに僕に何度も、何度も謝った。銀の桶の中で、いっそ消えてしまいたいと言いたげなか細い声で、小さく震えて、何度も、何度も。僕が星拾いの仕事を始めてから、五回も同じ星を拾った事は、この星以外にはいない。つまりそれだけの頻度で墜ちてきているわけだけど、この星の事だけはどうしても責める気にならなかった。
だってこの星は長い年月の中で、たった五回しか墜ちてきてないのだ。つまり僕が拾った五回以外は墜ちた事がないし、他人を責めたり激しい自己主張をしたりするような、困った星でもないのだ。とても善良な星で、墜ちる度にこんなにも申し訳なさそうにしている。そんな星を責めたりなんて出来る訳がない。
そもそも最初に墜ちてきた時だって、他の星の巻き添えで墜ちてきてしまったくらいなのに。
「気にしないでいいんだからね?」
もう謝ることも出来ない、とでも言いたげな態度で黙り込んでしまった星に、念押しのようにかける台詞は、自分でも笑ってしまうほどセンスがなかった。
天秤座の秤星が最初に墜ちてきたのは、今から半年ほど前、丁度、僕がこの星拾いの仕事をするようになったばかりの頃だった。
地面に墜ちたその姿が、今でも忘れられなかった。一つにはその姿が他の墜ちた星の姿とも、その時、秤星を押し潰すように転がっていた星の姿とも違っていたからだけど、もう一つ、理由があって、それは・・・、のし掛かっていた黒っぽい灰色の星とは違い、とても、とても綺麗な真っ白だったからだ。それこそ夜空に浮かぶ星、そのままの姿で、とても墜ちてきた星には見えなかった。
そして、僕のその印象はとても、とても正しかった。少なくとも、その時の状況にとっては、正しかった。何故なら墜ちてきた秤星は、すぐ隣の、秤と秤の真ん中に位置する支柱星が落下する際、暴れた支柱星の巻き添えとして墜ちてきてしまったのだ。・・・迷惑すぎな支柱星だった。支柱なのに、何にも支えてない状態だし。
まぁ、つまり、秤星は何も悪くなかった。でも、その時ですら・・・、謝っていた。もうそんなに謝らないでいいと言いたくなるくらい、何度も何度も、可哀想なくらい謝っていた。今と、同じように。その前と、同じように。
・・・いや、同じように、ではないのかもしれない。だって、今回も前回も、巻き添えで墜ちてきたわけじゃない。辺りには、秤星以外に墜ちている星はないから、最初の時のように自分以外の理由で墜ちてきているわけじゃないのだ。第一、見た目からして最初の時とは違う。最初の、あの、夜空に浮かんでいるそのままの姿、真っ白な星の姿じゃない。秤星は、自分が理由で墜ちてきた時から、その姿を変えていた。勿論、最後に空に戻す時には真っ白に戻っているけれど、その前までは・・・、今は・・・、
乳白色に、薄い黄色や桃色を混ぜた色、
白のベース自体が違っているし、一瞬ごとに黄色が強まったり、桃色が強まったり、二つの色が丁度混ざり合ったりして、まるで何かのおとぎ話のように綺麗だった。それは芸術的で、夢見るような柔らかな、穏やかな美しさで、見ていると思わず和むというか、優しさを思い出させてくれるというか、そんな色。このまま夜空に還しても、あの藍色の夜空に良く映えるに違いない色。
でも、それなのに墜ちてくる。墜ちて、しまう。
銀の桶の中で微かに揺れる秤星は、本当に綺麗で、夜空だけではなく、桶の銀にすら良く映えていた。おまけに他の星とは違い、愚痴も言わず、罵詈雑言も巻き散らかさず、代わりに零すのは謝罪と謝罪と謝罪、それに、小さな声でのお礼の一言。震えるようなその小さな声が、気恥ずかしそうなその震えが、可愛らしいとすら思える星。
だからこの秤星は僕の中で唯一特別で、墜ちてきても溜息一つ零さないですむ星だった。・・・そう、溜息なんか零れない。迷惑になんて思ってない。ただ、何も思っていないわけじゃない。思う事は、あるのだ。でもそれはこの秤星に対する悪い感情じゃなくて、純粋な疑問と、好意と言ってもいいような気持ちから発生するもの。
──どうして、この星は墜ちてしまうのか?
繰り返される謝罪と、小さなお礼の言葉以外を発さない秤星。色だって、夜空に浮かぶ時とは違う色になってしまっているけれど、とても綺麗で、他の星のような墜ちる理由が見当たらない。でも、見当たらなくても墜ちているのだから、理由はあるはず。それにいくら綺麗だといっても、白以外の色を滲ませている以上、やっぱり理由になってしまうものはあるのだ。こんなに、綺麗な色でも。
どうして、墜ちてしまうのだろう? 何が、理由なのだろう?
軽やかに夜空に浮いているべき星が、墜ちてしまう理由。重さを持たないはずの星が、重くなって浮かんでいられなくなってしまった理由。さり気なく、何度も聞いているけれど、今まで秤星がその点を答えた事は一度もない。尋ねる度に、ただ謝るだけだ。申し訳なさそうに、震える声で謝罪を重ねるだけ。その何回も重ねられる声を聞く度に、聞いてしまったことを申し訳なく感じてしまい、僕も結局、何も言えなくなる。話したくないことを聞いてごめんね、と謝り返す事しか出来なくなる。
──僕はただ、この秤星の力になってやりたいと思うだけなのに。
まるで腹立たしい人間のように罵詈雑言を繰り返す星達に対して、そんな感情を持つ事なんてない。早く夜空に還れ、とは確かに思うけど、それはただ煩いから、腹立たしいからという僕の精神状態の向上に必要だから思っているだけで、相手の事を思っての事じゃない。でもこの秤星だけは別なのだ。罵詈雑言なんて一切口にする事なく、一言だって愚痴を漏らさず、僕の手間を増やしている事に対する謝罪を重ね、僕は払った労力に対するお礼を小さく口にする。
何て言うか、とても可愛らしいというか、いじらしいというか・・・、正直、なんとしても力になってやりたい、と思わせるのだ。墜ちてくるという事は、抱える感情が重くなってしまったという事。不満や怒り、悩みといった強い感情が溜まってしまったという事。勿論、湶の水で晒せば溜まったモノは流れ、また軽やかな姿に戻り、夜空に還る事は出来る。その為の湶だし、その為の星拾いだ。
でも、繰り返しているのだ、この秤星は。それはつまり、いくら溜まった重みを流しても、また溜まるという事。原因となるモノが解決されない限り、繰り返すしかない、という事。・・・解決、してあげたかった。たとえそれが完全には無理だとしても、力になってやりたいし、他の星達のように溜まっているものを自分の言葉で吐き出せば、それだけでも多少は違うだろうし・・・、勿論、他の星達は洗い流しても吐き出しても、何度でも繰り返している。アイツ等の抱えているものは、溜まる重みは、解決出来るようなものでもないのだ。ただの際限のない、不満だし。
でもきっと違うのだ、この秤星は。もし他の星みたいに際限のない不満や愚痴が重みとして積み重なるような星なら、もっと以前に何度でも墜ちてきているはず。長い年月、そうならなかった星が今、いきなり他の星のようになるとは思えない。巻き添えで墜ちてきた最初の時、あのたった一回からこんなに頻繁に墜ちてくるようになったのだから、これはもう、何か他に確固とした原因があるとしか思えないし、きっちりした原因があるなら、解決だって出来るかもしれない。そう思うから、理由を聞かせてほしいのに。
黄色や桃色を滲ませた乳白色の秤星は、今日も謝罪するばかり。
だから今日も僕は僕個人としては何も出来ないまま、星拾いとして出来る事をとりあえず行う。到着した湶にいつもの何倍も丁寧に桶を浸し、そっとそっと、沈めていく。少しでも秤星が嫌な思いをしたりしないよう、気をつけて、そっとそっと、息すら止めて、そっとそっと。徐々に沈んでいく秤星の姿は、その色と相まって、澄んだ湶の中で夢のように綺麗だった。湶の深い藍色の中、優しく輝く、秤星。
湶の底に辿り着き、静かにその場で輝く星は、僕に小さく『ごめんなさい』と『ありがとう』を告げる。水を通している所為か、震える囁きのように聞こえるその声は、優しい笛の音に似て、耳に心地好い。この声なら、歌でも歌ってくれればさぞかし綺麗だろうと、今は全く関係ない想像をしてしまうのは、僕が夢心地だからかもしれない。星拾いの仕事をするようになってから、一度として眠った事のない夜。もしこの秤星の輝きと歌で眠れたなら、きっと夜の楽園の夢を見られるのに。
でも、僕は眠ることが許されない。だからそんな夢を、目を開けたまま見ていた。
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『天秤座、第七秤星』
十二月十五日、落下確認
落下数、通算五回目
色、乳白色に、時折黄色、桃色が混ざる
状態・・・、謝罪ばかり繰り返す
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星履歴の秤星の欄に記載を追加しながら、『状態』の欄で相当、迷った。現象としては迷った末に毎回書く通りなのだが、仕方なくその表現を書いている間にも、何か釈然としない気持ちで胸がざわめく。謝罪ばかり繰り返す、確かにその通りだ。でも、だから、つまり・・・、その理由は一体何なのか?
記載されている文章が、僕の文字だけの『天秤座、第七秤星』の欄。その自分の字を見る度に、考えずにはいられない。どうして、何故、という疑問と、もう一つ・・・、もしかして、という疑問。疑いは、二度目の時には既に出ていて、でも直接的な表現で聞くのは少し怖くて、ずっと遠回しに原因を聞いているけど、本当は疑っている。秤星が墜ちる、原因。不満も愚痴も吐き出さないのに、何度でも墜ちてしまう理由。何度聞いても、その理由を僕に教えてくれない理由。
もしかして、最初に夜空に還した時に、僕が何か失敗してしまったんじゃないか、という疑い。
可能性は、あると思う。丁度あの時は星拾いの仕事をし始めた頃で、実は秤星は、星を夜空に還す、という最終作業を初めて一人で行った星だった。それまでは、沈めて記録を書いて、愚痴や不満をぶつけられるのをひたすら耐える、という作業ばかりで、それに少しだけ慣れ、お師匠様に教わりながら星を幾つか夜空に還して、今日はそろそろ一人でやってご覧と託されて、緊張しながら還した初めての星。
緊張のあまり硬い顔をしていたら、秤星が心配そうな気配で僕の様子を窺っていた事を、よく覚えている。その秤星の様子に、これじゃあいけないと気合いを入れて、強張る顔を何とか笑顔の形にし、必死で口にした自分の台詞も覚えている。
『大丈夫、僕がちゃんと夜空に還してあげるから』と、何の自信もないままに、どうにか口にしたのだ。
あの時、自信なんて一つもないままに、それでも何度かお師匠様に付き添われてやったのだから、と自分で自分に言い聞かせながら必死で夜空に還した秤星。今、振り返って思い出してみても、特に何か失敗したとか、気になるような事があったわけじゃないけど・・・、むしろ意外なくらいすんなり還せたと思うけど、その後も墜ちてしまう秤星の姿に、やっぱり何か失敗してしまっていたんじゃないかと心配になる。
そしてだから秤星は何度聞いても黙っているんじゃないかと。あの優しい星は、失敗を指摘して、僕が傷つくのを畏れて黙っていてくれているんじゃないか、と。
広げていた星履歴を閉じ、そっと伺う湶は遠くから複数の声が聞こえているものの、基本的には静かだった。本当なら今晩、一番騒がしいはずの星が、静かに、静かに湶の底に沈んでいる所為で、あの大音量の罵詈雑言を聞かないで済んでいる。それは勿論、有り難い。有り難いけど、でも、僕は・・・、星拾いで。どうしてなってしまっているのかとか、これから本当にちゃんとやっていけるのかとか、やっていきたいのかとか、色々思う事はあるわけだけど、今はとりあえず、星拾いで、あの星は、最初から僕が拾って、夜空に還している星で、たぶん、今回も同じように僕が還すわけで、きっと何も悪くない星で、あんなに綺麗で、墜ちてきても綺麗で、でも何を聞いても答えてくれなくて・・・、
答えてくれないけど、時々、何かを訴えるような沈黙がある事に、気づいているのに、
他の星の台詞は全部聞き流しているけど、キミが話すなら、ちゃんと聞くよ、僕に出来る事なら力になるよ、何とかしてやりたいんだよ、そんな言葉の数々を口に出来ないまま、僕は今日も静かすぎるほど静かで、でも何かとても強い訴えを内包している気がする沈黙を、ただじっと見守っている事しか出来ないでいた。
秤星は、静かな、静かな沈黙の淵に、沈んだままでいる。