──黄色い、熔けそうな甘い月が、零れ落ちるほど円く満ちた夜。
蜂蜜よりもっと甘そうで、どうか一滴でいいから落ちてこないだろうかと願わずにはいられない、そんな夜に僕は生まれたらしい。
甘い、甘い、甘い、月。
たぷたぷと、あと少しで零れそうな音すら聞こえたと後に語った母は、どこか夢見がちな瞳をして夜空を見上げていて、僕の誕生を語っているのか、甘い月の思い出を語っているのか、どちらが主題なのか分からない口調で、ただ、舐めたこともない月の甘さに酔った笑みを浮かべていた。
それはそれは、とても甘く、幸せそうな笑み。
今は亡き母の思い出は、その笑みでほぼ全てだったけれど、それが幼すぎた頃に喪われた母の思い出の少なさに起因しているのか、それともあまりに母のその笑みが印象的過ぎて、他の出来事を全て駆逐してしまったのか、どちらなのかも分からない。でも・・・、どちらでも良かった。だって、母はその、幸せな笑みをもたらした月の思い出を、生まれた僕の名前として贈ってくれたのだから。
母から子へ、それは祝いであり・・・、同時に、ある種の楔となった。
贈られた名を疎ましく思った事はないけれど、僕はその名の引力で、毎晩、夜空を見上げる人間に育ってしまったのだ。母が見たという、甘い月を探す夜を繰り返す人間になってしまった。でも、何度、夜空を探しても、話に聞く月は見当たらない。見当たらないけれど、諦める事も出来ず、毎晩、毎晩、月を見上げ、月を願い、月を目指して、気がつけば、僕は・・・、
次代の『星拾い』になるべく、奮闘する日々を送っていた。
*******
──空に浮かぶ星は無口だ。何故なら黙っていられなくなった星は、感情に耐えきれなくなって墜ちてくるから。
「蜜夜、海蛇の尾の一つが墜ちたようだから、行ってきなさい」
「はい、分かりました。お師匠様、拾ったら、そのまま湶へ向かえば宜しいですか?」
「そうだね。うん、そうしなさい。私は先に向かっているから」
「え? 見ていなくていいんですか?」
「一晩に、そう何個も墜ちてくる事はないよ。それに夜空の様子も落ち着いているからね。もう、今夜は他の星が墜ちる事はないだろう」
では、行ってきなさい・・・、お師匠様はそう言うと、僕が動き出す前に、さっさと湶に向かって歩き出してしまった。もうお役目を引退されると決めている方とは思えないほど機敏な動きに、まだまだ見習いとさえ言えないほどの実力不足を実感している身としては、是非、引退宣言を撤回して、長年このお役目を果たしてきた大先輩として、今後も色々教えてほしいと願わずにはいられない。
・・・というか、僕が一人前になれる日なんてくるのかな? 一人前になりたいのかどうかも良く分からないけど。
金属で出来た銀色の桶と、その中に同じ素材で作られた柄杓を入れると、それを左手に持って歩き出す。お師匠様が歩き出したのとは、丁度反対方向。先ほど、お師匠様が見上げていた夜空の方角。海蛇座はそんなに遠くはないから、たぶん、尾星の一つが墜ちている地点も、歩いて数十分程度だろう。遠くなくて良かった、そんな他愛ない感想を抱えながらも、つい口の中で零すのは愚痴に近いもの。この星拾いの仕事を習い始めてすぐに零れるようになった、毎度お馴染みの呟き。
だって、そもそも何故星拾いを目指してしまったのか、どういう経緯でこんな状態になっているのか、自分が歩いてきた道を振り返って見てみると、誰に強要されたわけでもない道なのに、さっぱり訳が分からなくなっているのだ。
月を、望んでいたはずだった。
それは間違いない。今だって、夜空を見上げれば最初に目が探すのは月の姿。でもそれなのに、今、夜空を見上げて細心の注意を払って探さなくてはいけないのは星の姿。このギャップは、一体どうして生まれてしまったのか? もう幾度となく考えているのに、分かってはいるけど納得が出来ないギャップで、納得は出来ないけど自分で生んでしまったギャップだから、今更誰の所為に出来るものでもなかった。
いくら望んでいても、月に関われるような手段はどこにもなかったから。そんな職種はなかったのだ。だから、それなら月の傍にいられる、毎晩月を眺められるような職種はないだろうかと探して辿り着いたのが・・・、
「あ、スターだっ!」
ぼんやり歩いていた背中に覆い被ってきた、一人の子供の叫び声と、その声に触発されたかのように巻き起こる、複数の子供の笑い声。罪なき子供の、他愛ない笑い声だと分かっているのに、聞こえてきた瞬間、酷く居たたまれない気持ちになる。そして沸き起こる気持ちに比例して、足取りも心持ち、早くなって。
手にしている桶と柄杓が、金属特有の耳障りな音を立ててその存在を主張している気もして、身体で隠すように両手で持ち、胸の前に抱えて歩いた。そうしてそっと澄ませた耳に、まだ聞こえてくる笑い声。いや、もしかしたら気にしすぎで、もう聞こえていないのかもしれない。そうでなくとも、笑っていたのは僕の事じゃなかったのかもしれないし、たとえ僕のことを笑っていたのだとしても、僕が気にするような、馬鹿にした意味で笑ったわけじゃないのかもしれない。
確かめてないから、分からない。居たたまれなくて、気恥ずかしくて、振り向くことすら出来なかったから、子供達の表情すら確かめられなかったし・・・、たぶん、今から振り返っても、もう子供達はいないだろうし。居たとしても、子供の興味なんてもう別の方向を向いてしまっているだろうし。
「・・・名称が悪いんだよ、そもそもの。どうして拾う方をメインの名前なんてつけたんだろう?」
今度の愚痴は、さっきと違って声になって零れた。でも、仕方ない。だって居たたまれなくて仕方がないのだ。『スター』と呼ばれる度に、笑い声が聞こえる度に、まるで馬鹿にされているようで・・・、一応、色んな微妙な思いがあったとしても、毎晩真面目に仕事をしているのに、どうしてこんな居たたまれない気持ちにならなくてはいけないのだろう。
胸元から、僕のそんな不満に同調するように、少し耳につく音が続く。毎晩頑張っているのに、と唇を尖らせる子供の姿がイメージされるのはどうしてなのだろうと、どうでも良い事をその時、少しだけ思った。
『星拾い』に『スター』という別称がついたのがいつからなのかは、もう誰も知らない。
ただ、正式名称である『星拾い』という名そのものが、少々からかいの対象になりやすいものだった。それが『スター』という別称までからかいの対象になるそもそもの原因だった事だけは確かだと思う。
『星拾い』・・・、本当に、どうして『拾い』なんてつけてしまったのか? 『拾い』じゃなくて、『掬い』とか、『助け』とか・・・、まぁ、それもどうかと思うけど、でも他にいくらでもつけようはあったと思うのに、どうしてよりによって『拾い』なのか?
まるで『塵拾い』みたい、と最初にそんな酷い台詞を口にしたのは、誰だったのだろう?
本来なら夜空できらきら輝くはずなのに、地上に墜ちてきてしまった星。地面に転がる星は本来の輝きを失っていて、それは夜空で輝く星とはあまりにもかけ離れた姿だ。そんな星達を拾い歩く僕達についた名称が『星拾い』なのだから、まるで塵を拾い歩く人のようだと笑われても、無理はないと思う。毎晩、毎晩、墜ちてしまった星を探して、拾って歩く。とぼとぼと、拾った星を持って、湶まで歩く。
本当は、墜ちてしまった星をもう一度、輝く星として夜空に還す、立派な仕事のはずなのに。
『スター』は勿論、拾っている対象である星を指しているわけだけど、同じだけ、塵拾いをしているかのような僕達の姿を揶揄する名称だった。拾っているものは星なのに、拾っている姿は塵拾いの人と同じ。塵拾いだって立派な行いのはずなのに、僕は胸を張るような度胸が持てなくて、星拾いは立派な仕事なんだからという意識やプライドも持てず、結局、あの別称が聞こえる度に、俯いて逃げるように早足にその場から離れるばかり。
そんな姿や行動こそがみっともないと、冷静な脳裏の一部では思っているのに。
「・・・この辺、かなぁ?」
不毛で惨めな考え事の果てに到着した落下予測地点に立ち止まり、完全なる独り言を洩らしながら辺りを見渡していると、斜め前方の辺りから、激しく何かがざわめく音がしていた。夜露に濡れる、柔らかな草木を激しく打ち鳴らしているかのような音に自然と零れる溜息は、あまりにも響く物音に恐れをなして、後方へ転がっていく。
素直な気持ちがその溜息を追ってこの場を離れたがるのを繋ぎ止める労力が、一体どれほどのものなのか、きっと今、あの場所で煩くざわついている存在の理解を得る事は生涯、ないだろう。まぁ、なくてもいいけど。いい、けど・・・、出来れば墜ちてくるのは止めてほしい。
口にすら出せない切なる願いを込め、嫌がる足を叱咤してざわめきの発生源へと近づけば、草木のざわつきの他にもはっきりとした音が聞こえてくる。いや、音、というか・・・、
『恋人に振られただの何だの、俺が知るかってんだっ! バーカ!』
・・・声だった。それも、あの小ささでよくそんなに出るなと感心するほど盛大で、夜空に浮かんでいる時はあんなにも綺麗なはずなのにと悲しくなるほど粗暴な罵詈雑言だ。毎夜の事とはいえ、本当に、本当に悲しい。相手はお星様なのに。
胸一杯の悲しみを抱えながらそれでも止めなかった足は、やがてその罵詈雑言の発生地点へと辿り着く。夜露で艶やかに撓る細長い草の間、夜が照らし、頭上で尾の星を一つ欠いた海蛇座が見守る場所。驚かさないように、踏みつけないように、気をつけて覗き込む、その場所に・・・、いつも通り盛大な罵詈雑言と化した愚痴を撒き散らす、青黒い色をした星が転がり墜ちていた。
*******
星が夜空から墜ちるのは、塩分過多に伴う重量オーバーの所為だった。本来なら夜空に静かに浮かび、人々を沈黙で持って見下ろすはずの星が、何らかの強い感情を抱きすぎてしまい、それが塩分という形で蓄積され、やがて空に浮かびきれない程の重さとなって墜ちてくる。しかも墜ちてくるほど強い感情というのは例外なく鬱憤という形で溜まっていて、溜まりに溜まったその鬱憤で墜ちた星はほぼ例外なく、皆、煩い、という訳。
まぁ、その溜まってしまう感情の主な原因が、夜空を見上げる人間達の無責任な言動に対するストレスなのだから、同じ人間として、あまり文句も言えないかもしれない。ただ、それでもあと少しぐらい我慢出来ないのかよ! とつい思ってしまうのは、星履歴を確認した際、落下回数が二桁を越えている事実を見つけてしまった時だったりする。それも十何回とかならともかく、三十何回とか四十何回とか、五十回を突破しましたとかだと、真面目にイラッとする。
浮かんでるのが本職のくせに、こんな簡単に墜ちてくんなっ、この、不良品! とか。
・・・いけない、いけない。ついうっかり暴言が零れそうになってしまう。
危うく口から零れそうになった暴言を飲み込みつつ、柄杓で桶に掬った青黒い星の喚き声と、自分の足音を聞きながら歩く事、十数分。見えてきた湶の深い群青色の輝きと、その輝きを囲う深緑の木々の雄大さに、零れなかった暴言の代わりに安堵の吐息が零れた。聞こえてくる暴言は次第に音量を増していくけれど、とりあえず湶まで辿り着ければ、そしてあの湶の中に突っ込んでしまえば、最初の作業は完了だからだ。
尤も、湶に突っ込んだ後に更に続くだろう暴言を聞くという作業が、今度は発生するわけだが。
『湶』が一体何時から存在するのかは、何処にも記述がなく、誰も知らないらしい。
人が生まれる遙か以前から夜空に浮かぶ星々ですら始まりを知らないあの湶は、けれどその効力だけはいつの間にか、星々にも、人々にも知られるようになった。星を沈め、その水に晒す事によって星から重みを洗い流し、星を再び夜空へ還してくれる湶。どこかの偉い学者が水を持ち帰り、何度も解析したけれど、その効力は解明されなかったとか、同じような立地条件の場所にあの湶の水を注いだけれど、同じ効力は発しなかったとか、水が流れ込んでいるわけでもないのに、雨が何日も降らない日々が続いても水位が減らないとか、解明されない謎ばかりが堆積されていく湶。
『湶』と呼ぶばかりで誰もが名をつけないのは、その神秘的すぎる現実に畏怖と敬意を抱いているからかもしれない。
──地に墜ちたモノを、再び夜空に還す、そんな力を持つ湶に。
「早かったね」
「墜ちた場所が近かったので」
あまりに神秘的過ぎる為、いつの間にか星拾い以外は不可侵という暗黙のルールが出来てしまった湶には、その生まれてしまったルール通り、お師匠様以外、人間は誰もいなかった。
大きな木の根に腰を下ろしていたお師匠様は、桶を片手に近づく僕に静かに笑いかける。小柄なお師匠様が軽く腰を曲げて大きな木の根に腰を下ろし、穏やかな笑みで迎えてくれる姿は、いつだって荒みそうになる気持ちを宥めて和らげてくれる。まるで孫の頭を撫でるかのような雰囲気に、仕事を教えてもらっているという立場すらうっかり忘れそうになるのは、仕方がない事だと思う。
「じゃあ、沈めますね」
「そうだね、お願いするよ」
目を細めて僕の行動を見守るお師匠様の様子に、孫気分はいっそう高まる。本当の祖父なんて物心つく前に亡くなっていて、孫気分なんて味わった覚えは一度としてないのに、今現在のこの気恥ずかしいほどの孫気分は、一体どうしたものか? 嫌なわけではないけど、むしろ結構嬉しいけど、これは仕事なんだという義務感と、その仕事がいまだに自信が持てない星拾いである事実と、振り払えない気恥ずかしさが混ざりに混ざり合って、毎晩、一度は叫び出したくなる。しかも顔を覆って、身悶えして。
沸き上がってくるその衝動を何とか抑えて、小さく深呼吸。物凄く優しく見守ってくる視線を意識しながら、ようやく慣れてきた手順を辿る。湶の淵に両膝をついて、水面を覗き込む。あまりに深い青なので、じっと目を凝らさないとその深みを見ることは出来ないけれど、逆に、風ひとつない水面は僅かの波すらなく、深すぎる青は不純物を一切受け入れないと誓いを立てているかのように透き通っているので、目を凝らせば何処までも見通せた。その、底までも。
深くはない。僕が立っても、腰より少し低いくらいの水深しかない湶の底をじっと見つめて、近くに何もない事を確認する。それからそっと周りを確認すれば、少しだけ離れた位置に沈んでいる星が見えた。一昨日沈めた星。他の星が近くにあれば、沈めた際にぶつかってしまう可能性がある。そうなれば、痛いだの乱暴だの、馬鹿だの阿呆だの罵詈雑言が飛び出すのは目に見えているので、凝らす目は真剣で。
痛むほど見つめる先には、何度眺め回しても一昨日沈めた星より近くに沈んでいる星は何もない。断言出来るぐらいじっくり見渡した後、足下に柄杓を置き、両手で桶を持ってそっと湶に浸していく。静かに、静かに、ほんの僅かの振動も生まれないように両手に全神経を集めて桶を湶に浸していって・・・、やがて銀の桶の縁から耐えかねたように水が入り始める。水の圧力の分、腕に重みを感じ始めるけれど、なんとか耐えながら尚も静かに浸していくと、桶は水で満たされていき、その水の中に、桶の底に転がっていたはずの星が浮かんで、いつの間にか生まれた静かな流れに沿うように桶の中を何周か回り、何回目かの回転の後、既に肘の辺りまで沈めていた桶から転がり出る。
ふうわりと、銀の淵から浮かぶように転がり、静かに、静かに沈む星。
それほど深くはない底。それなのに水の青さが果てしない深みを予感させる湶の底に沈んでいく、青黒い星。自身の重みによって沈んでいく時だけは、何故かどの星も酷く静かだ。まるで自分の重みに感じ入っているかのような厚みのあるその沈黙が、僕は意外と好きだった。背筋を思わず伸ばすようなその沈黙を感じる時だけは、この星拾いという仕事を立派な仕事だと感じられるから。
『痛ってぇな! もう少し丁寧に沈めろよっ、この下手くそ!』
・・・ただ残念な事に、それは浅めの底に辿り着いた星が沈黙を突き破るまでの、本当に些細な幸福の時ではあった。夢より早い、つかの間の幸せ。
湶の底に着いた途端に暴言の暴徒と化した星は、絶対大して痛くないくせに、必ずと言っていいほど、どの星も罵倒の嵐を巻き起こす。そしてそのお決まりの暴言を好きなだけ言い終えると、いよいよ本番に入るのだ。もう何度も経験した、お決まりの流れ。だからこそまだ僕に対する暴言を気持ち良く喚いている星を余所に、そっと後ろを振り返る。
僕の星沈めを見ていたお師匠様は、振り返った僕に向かって、にっこりと微笑んで一つ、頷いてくれた。なかなか上手になったね、という合図。星をただ湶に沈めるだけではあるけど、振動一つ立てないように重みのある湶の中で星を沈める作業は、意外なほど難しい。当然、お師匠様はそれを分かっているから、笑顔で頷いてくれるのだ。たとえどれだけ静かに沈めてもクレーマーと化す、星達の暴言が響き渡っている最中でも。
「蜜夜、私は回ってくるから、ここは頼めるかな?」
「・・・はい、大丈夫です」
「うん、頼んだよ」
そうして笑顔で立ち上がったお師匠様は、ここ数日前から告げられるようになった台詞を今日も穏やかに告げて、ゆっくりと歩き出す。湶の淵にそって、右回りに静かに、静かに。足を一歩進めては止まり、止まっては進むという緩やかな歩みは、湶に沈められている他の星々の様子を確認しているから。じっと水面に注がれる眼差しはプロのもので、そのプロの眼差しを持つ人に一つの場所を任されるようになったという事実は誇らしいのだが・・・、同時に、いまだに星の、特に沈めたばかりのフルパワーで暴言を吐くような星の罵詈雑言を聞き流すだけの技量がない僕には、大分辛いものもあって。
「はぁ・・・、」
溜息が零れる。それも止める事が不可能なほど、はっきりとした、重い、暗い溜息。我ながら哀れみを誘うようなその溜息に、しかし優しい心なんて忘れ果てている星は、当然、僕に優しさを持って接してくれるはずもなく。
『辛気くさい溜息なんかついてんじゃねーよ! このっ、バーカ! 溜息つけば頭良く見えるとでも思ってるのかよ!』
バーカ! バーカ! バーカ! ・・・と、静かなはずの湶を波立たせるほど繰り返される連打的『バーカ!』を、穏やかな笑みと心で受け止める、もしくは受け流すほどの技量がない我が身が、本当に口惜しい。今は片手で持っている桶が、ことりかたりと震えるほど、腹立たしい。勿論、いくら腹立たしくても怒鳴り返すことは出来ないけど。
深呼吸を、数回。それから目を瞑って、数秒の暗闇。暗闇の向こうからは、まだ僕を罵倒する声が聞こえてくるけれど、お師匠様の姿と声を必死で呼び起こして、我慢、我慢。どうにか自分を抑えつけて目を開くと、ゆっくりと立ち上がり、踵を返す。すぐ傍の、星拾いの小屋に向かう為に。小屋の中から、星履歴と筆記用具を取ってくる為に。
背後から、阿呆、という単語が混じり始めた暴言に追い立てられながら。
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『海蛇座、第三尾星』
十二月三日、落下確認
落下数、通算三十五回目
色、青黒
状態、怒り・不満
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青黒い尾星を沈めた淵に座り、取ってきた星履歴を膝に広げながら『海蛇座、第三尾星』の欄に、今回の履歴を記載する。墜ちたばかりの星を湶に沈めて、塩分を抜き始めながらその星の履歴を記載するのも、僕が殆ど完全に任されるようになった仕事の一つだった。湶に晒し始めたばかりの星はまだ限界まで感情が塩分として詰まった状態なので、目を離すと暴力的に周りの星に不満をぶつけてしまう事がある。
その為、どうしてもひと晩はつきっきりになるし、その間の初期の様子を観察し、記載する事にもなる。つまり、それが最近、僕が任せられるようになったメインの仕事と言ってもいい。お師匠様はその間、他の星々を確認したりしているが、もうお年になるので、一通り見て回ったら小屋に戻って明け方、星の戻りまで仮眠を取られる。僕は勿論、徹夜というわけ。
お師匠様は仮眠を取るのに、僕は徹夜。でも、別にその事には不満はない。だってお師匠様のお年を考えたら当然の事だし、それなのに明け方の星の戻りには起きてお役目を行って下さるのだから、責任感あるその行動は尊敬に値するし、僕が目指すべき姿だとも思う。・・・僕が、本当に星拾いという役目に納得しているかどうかはまた別としてだけど。
だから、そう、不満はない。星拾いという役目を本当に引き継げるのか、引き継ぎたいのかを二の次にすれば、お師匠様の存在自体は尊敬するものだし、敬うべきだし、僕に出来る事は是非するべきだし、だから、そう、だから・・・、不満はない、ほぼない、たぶんない、はず、で・・・、そう、つまり、僕はひたむきに僕が出来る事を果たしていくべきであって、そういう、わけであって、不満は、ない、はずで・・・、
『大体、振られたから死んでやるとか、殺してやるとか、出来るもんならやってみろってんだ、マジ、馬鹿にしやがって!』
ひと晩、眠らずにその姿を見守っているだけなら、本当に何の不満もなかったとは思う。でも実際はきらきらと輝かんばかりに放たれる罵詈雑言、悪態を聞き流しながらひと晩を耐えしのぐので、不満を漏らすことはなくとも、眉間に皺がよった状態にはなっていた。そもそも存在自体が物凄く目を引くものがそういった姿を晒すのは殊の外堪えるのだが、そんな事、当然のようにお構いなしだ。
星拾いの仕事さえしていなければ、星のこんな姿に接する事はなかったのに。誰に話しても実際に目にしなければ信じてくれそうにない姿を目前にしながらも、今日も今日とて、左手をさらさら動かしていく。墜ちた星の履歴なんかつけてどうするんだろうとか、回数が増えていく様に落胆するばかりなのにとか、色々思うところはあるが、これが仕事だから仕方がない。そんな諦めを必死で言い聞かせて、どうにかさらさら、動かし続ける。
・・・が、勿論その間も、青黒い尾星の力強い罵倒は続く。
『大体な、オマエ等、人間は丸一日休みなんて日もあるわ、好きな時に好きな事が出来て、好きな場所に行けて、好きな所で立ち止まれるくせに、夜空見上げちゃ、愚痴だの不満だの垂れやがって! 毎晩、聞きたくもねーのにそんな愚痴聞かされている俺の身になってみろってんだ!』
・・・いや、今まさにその聞きたくもない愚痴を聞かされる身になってみてますが、なんて愚痴、当然我慢だ、我慢。
『おまけに愚痴る時も酒片手に愚痴りやがって! 自分は気持ち良くリフレッシュしながら他のヤツに不愉快な思いを押しつけるなんて、みっともないと思わねーのかよっ!』
・・・うん、是非思ってほしいです、今すぐに、なんて愚痴も、当然舌で喉の奥に押し戻す。
『ってか、夜は寝ろ! 何もせずに寝ろ! 一言だって喋るんじゃねー!』
・・・あ、物凄い同感、是非今すぐ沈黙してほしいです、なんて愚痴も、心頭滅却して頭の隅に追いやる。
『ったく、どいつもこいつもっ、人間ときたら・・・、』
──恋人に振られたとか、アイツの方が美人でムカツクとか、俺が知るかっつーの!
『恋愛ごとで騒ぐなら、修羅場話にしろってんだ!』
・・・いやいや、そういう下世話な雄叫びはたとえ思っていても声に出さずに飲み込もうよ、なんて注意も、左手に持ったペンを限界まで握り締めて耐え抜いて。
青黒い尾星は、それからも延々と雄叫びを上げていた。一応、その雄叫びも大筋は記載していたけれど、徐々に記載しておくには流石にあんまりな内容になり始めて、前回の記述と同じレベルの雄叫びを書き留めたところで、ペンをそっと手放した。勿論、僕がペンを手放しても雄叫びが止むわけじゃない。そして僕がこの場を離れられるわけでもない。湶が星の塩分を、重みを抜いてくれるまで・・・、いや、少なくとも星が活動出来なくなる明け方が訪れるまでは、ここで星を見守るしかない。見守って、星の雄叫びを聞き続けるしかない。
・・・早く朝にならないかなぁ。
そっと見上げた夜空には、無数の星とその星に傅かれるように中央に君臨する、月の姿。母が語った姿ではなく、半分までしか満ちていない姿だけど、墜ちることなく夜空に君臨し続ける姿に、洩れる溜息は感嘆の色。あの月の尤も甘く、美しい姿に近づきたくて、気がつけば微妙に納得がいかない星拾いになったのに、今は毎晩、夜明けを願う日々だ。
世の中、理不尽な事が多すぎる。ついでに言えば、当事者なのに経緯がさっぱり分からない、分かっているのに飲み込めない事も多すぎる。誰か僕に説明プリーズ、なんて胸の内だけでの呟きは、一体何度目になった事か。いつか胸の中が疑問符で埋め尽くされるんじゃないかという心配をこっそりしながら、今日も今日とて、星が自身を重くしている原因を吐き出すのを、ただひたすら見守っていた。
──湶へ晒し始めてからの星の変移は、不思議なくらい皆、同じだ。
まず、最初の晩はひたすら罵詈雑言。他は一切ない。でも、たぶんそのひと晩の間に溜め込んだ重みの基本的な部分を吐き出してしまうのだと思う。そのおかげで、変化はふた晩目から劇的に訪れる。物凄い勢いだったはずの罵詈雑言は勢いを失い、惰性のような動きで吐き出される愚痴に変わって、夜の半分くらいはそのまま低速飛行を行う。でも、それも夜半を半分くらい過ぎたところで、再び変化が訪れる。続いていた惰性が突如、消え去るのだ。
つまり、沈黙。全くの、沈黙。
水面は波一つ立たず、沈められた星は一切の意思表示を放棄する。覗き込めば、先にそこに沈んでいた星の写しのように沈黙している星は、拾った当初に纏っている暗色が必ず、薄れている。そして夜が完全に去るまでの間に始まったその色の変化はどんどん進んでいき、あと少しで透明感を取り戻せるというところで、二回目の夜は終わりを迎えるのだ。
そして、三度目の夜。
訪れる三度目の夜は、始まりの夜になる。もう何回目かの、始まりに。
『・・・そういや、あの喧嘩していた夫婦、どうなったのかな?』
続いていた沈黙を破った三度目の夜、星はまるで目が覚めたみたいに、ふと呟いた。聞こえてきた声にそっと湶を見下ろせば、青黒かった星はいつの間にか纏っていた暗色を完全に脱ぎ捨てて、清らかな深みのある青一色に変わっていた。否、戻っていた。夜空に同化しそうでありながら、はっきりと見分けがつく青。失っていた輝きを思い出した青。
声にもあの攻撃的な刺々しさが消え、円い星に相応しい丸みが戻っている。上から人を見守る存在に相応しい声に。人の眠りを輝かすのに相応しい、穏やかさに。『本当はさ、凄い仲が良い夫婦なのに、ちょっとした事で喧嘩して・・・、でもあれって、もしかしてじゃれ合っているだけなのかな?』小さな含み笑いを滲ませた声は、子供の他愛なさを微笑む大人の包容力を感じさせた。
実際、大人なのだ、星は。少なくとも、人の命なんて瞬くほどだと感じる程度は長く存在しているはず。だから今のこの姿こそ相応しいとは思うけど・・・、毎度の事ながら、少し前までの荒ぶる姿とのギャップが激しすぎて、結構な脱力感を覚える。夫婦喧嘩をやるならいっそ殴り合え、まで言い放っていたというのに、この変わりよう。
本当に、毎回の事とはいえ、同じ星の言葉だとは思えない。ちょっと水に晒しただけで、よくもここまで変われるものだと思う。・・・いや、逆か? ちょっと水に晒しただけで元に戻ると感心するより、人間のちょっとした愚痴程度で、よくもあそこまで粗暴な姿に変われるものだと呆れるべきなのだろうか? 聞き流せよそれくらい、と突っ込むべきなのか?
『人間の言葉で、喧嘩するほど仲が良いって言うもんなぁ・・・、良いな、夫婦ってさ。喧嘩してても、それすら微笑ましくなるよ』
・・・嘘つけ! と星に突っ込む事は、人間には許されないのだろうか? もしその突っ込みが許されないのだとしたら、他の全ての人に許さなくてもいいから、星拾いにだけは許してほしいと思う。だって、あんな、散々星拾いを振り回しておいて、まるでハッピーエンドかのような微笑ましい口調で総括されたって、納得なんかいくわけがない。大体、殴り合え、まで言い放っていたくせに、自分の気分が治ってきたからってよく平気で真逆の事を言えるもんだと思う。
心の底からの、全力の突っ込み。迸りそうになっていたそれを必死で飲み込み、深呼吸を繰り返しているうちに、ふと、これと同じような体験をした事があるような気がした。理不尽さを目の当たりにし、必死で飲み込んだかつての記憶。頭の真後ろに貼りついているかのような記憶の残り香を必死で呼び寄せると、数ヶ月前まで通っていた学校生活が広がり始めた。
あの、理不尽な、感情のまま言動が一瞬ごとに変わる、女子達の甲高い声。
似ているのは、あの声だった。僕自身はあの声に直接振り回されたわけではなかったけど、振り回されている同級の男を良く見かけたのを覚えている。虫の居所が悪いと突然些細な事を切っ掛けに、まるで犯罪者のように責め立てられ、そうかと思えば舌の根も乾かぬうちに笑い出す。掌を簡単に変えるかのような機嫌や態度の変化を、ひと欠片だって悪びれない。自分の当然の権利かのように、行使する。
機嫌が悪いと他者を攻撃し、機嫌が良いと祝福する、その言動の変化がよく似ていた。
『早く夜空に戻って・・・、空からあの夫婦に、喧嘩なんか止めなよ、って言ってあげたいな』
思い出に埋もれている僕の耳に届くのは、慈悲深い神にも似た、星の声。下々に許しを与えるのも、祝福を与えるのも自分だけだと言わんばかりの穏やかで優しげな傲慢さに、空を見上げる気力すら失せそうだ。かといって、湶の底を見下ろす気力もない。あるのは零れる溜息を口の中に抑え込む程度の気力だけ。
そうして、言いたい事も言えない、半強制的な無口状態にさせられる度に、思わずにはいられないのだ。
──機嫌が直ったなら、とりあえずもう黙れ、と。