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──長く、長い地下通路だった。

前後左右の何処を見渡しても、何処かに続いているようだった。
ただ、見渡す限り続く先に何が在るのか、それだけが分からない。

少しだけ、歩き疲れていたようだ。
だから二段の上り階段より、三段の下り階段を選ぶ。
その三つあるはずの段差を二歩で降りると、通路は突然、広さを増して白さを増して、奥行きを増して広がった。
二人しか歩いていないのに、どうしてこれほどの道幅が必要なのだろう?
どれだけ照らしても先が見えないほど長いのに、こんなにもこの場を照らすどんな必要があるのだろう?
小さな疑問が、白い床に耐え難い一点の染みにのように落ちて、こすりつけるように踏みつけた足で更に先に進む。
すると意識の外で確かに捉えていたもう一人の『誰か』が、すぐ目の前まで近づいてきていた。

『如何です? 最近は』

すぐ目の前まで迫ったその人は、白いブラウスに白いスカート、紺色のカーデガンを羽織っていて、品の良さ以外何の特徴も見出せない。
静かに立ち止まり、その身振りと同じく静かな笑みを浮かべている様は、顔形が分からないほど、平坦だ。
問いかけてくる、その、声すらも。

「そうですね、行き先が定まらないというか・・・、どうも、決断力に欠けるようで」

穏やかな声に誘われて口にした答えは、言葉にした途端、酷く軽い悩みに変わる。
空間の広さに、言葉が拡散してしまうからだろう。
そして、つるつるとした表面に滑り去ってしまうのだ。
先も見えない、この、先に。

『まぁ、決断なんてしなくても、どうにか生きていける世の中ですもの』
「そう・・・、ですかね」
『えぇ、そうですわ。ですから、ご心配には及びません』

どうぞお気に病まれませんように・・・、彼女はそう告げて、形の見えない笑みを浮かべて軽く頭を下げると、擦れ違って行った。
立ち止まったまま傾けた耳には、足音が聞こえない。
振り返ってみると、真っ白な空間だけが佇んでいた。

微かに曲線を描く通路は、先が見通し辛くなっていた。
その曲線に沿って歩き続けていると、曲がった通路の端を磨く清掃員がいる。
灰色の何の個性もない作業服を着た人は、初老の域に入った男性だ。
ただ、作業服と同色の、目深に被った帽子の所為で、顔は見えない。
俯いたその顔を、帽子の鍔が影で覆うからだ。
影と同じ容貌をしている可能性もあるのだが。

『落ちなければいいんだよ』

近づくにつれて聞こえてくる、微かな独り言。
力を込めて隅を磨きながら、呪うように呟き続けている。

『もっと、もっとこびりついていればいいんだよ。取れなければいいんだよ』

視線を向けないように傍を通り過ぎる際、作業員の手元が横目に見える。
モップらしきものを持っている彼の手は、外見以上に老いている気がする手だった。
逆らいがたい老いに、負けた惨めな手だった。
モップに縋るしかないように見える、手だった。

『もう何処にも、行きたくないんだから』

曲線を歩ききると、やがて右手に小さなエレベーターが見えてくる。
下の階に行けるそれは、どうもひとフロアー分を下がるだけのもののようだ。
エレベーターの横に、並列してある階段。
十段にも満たないそれを降りる為だけに、そのエレベーターはある。

『・・・あぁ、もう着いてしまった』

十段分を上がってきたエレベーターが、小さな音を立てて到着する。
中には特徴のない、スーツ姿の男。
サラリーマンを抽象化したような男は、ドアが開いたままのエレベーターで小さく呟いている。
動く事のない足の代わりに、静かに閉まり、今度は下っていくエレベーター。
通り過ぎる際、再び上がってきたエレベーターの中には、やっぱり同じ男の姿。
開いたドアの向こう側から、男の呟きが零れてくる。

『・・・あぁ、戻りたい』

繰り返される短い永遠を通り過ぎ、更にその先へ歩き続ける。
先は何故か、左右に小さく曲がっているが、曲がるだけでただ先に続いていることには変わりない。
何度も曲がるその道を、道が示す通りに曲がり歩いていると、自分の足音の他に、静かなアナウンスが聞こえてくる。

『この地下通路は、歩行者専用通路です。立ち止まる事は許されません。また、寝転んだり夜間の泊り込みは固くお断りしております。繰り返します、この地下通路は・・・』

アナウンスは、静かに、一定の口調で続けられている。
そして三回同じ台詞を読み上げた後、何かを小さく叩いたかのような音と共に、全ては消え去った。
歩行者専用、、立ち止まる事は許されない・・・、胸に、小さく何かが引っ掛かった気がする。
気にしなくては、いけないこと。
でも、歩いているうちに・・・、それも、消えていった。
全てが消えた通路は、やがて再び直線に戻る。
そしてその右側には、壁の中に開けられた空洞と、その空洞を塞ぐ硝子と、硝子の中に飾られたオブジェ達が現れた。
一定の間隔で飾られるそれは、何か、芸術を表現しているらしい物。

緑と黄緑の間のような色で作られた、歪な球体。
破れかけた藍色のワンピースと、ヒールの折れた黒いハイヒール。
小さな家の模型と、その隣に折れた木の模型。
全く何も置いていないのに、他の空間と違って何故か中が真っ赤に塗られた展示場所。
どれも、硝子のすぐ下には金色の金属プレートが貼り付けてある。

タイトル、とだけ刻まれた、プレートが。

オブジェを通り過ぎると、上や下に続く長い階段が幾つも現れる。
どうもその先は、何処かしらかの出入り口に繋がっている様子だ。
階段の入り口付近に、現在地を知らせるアルファベットと数字を組み合わせたプレートが貼ってあるから。
上へ向かって続く階段の1つに近づいてみる。
階段の内部は通路以上に真っ白で、まるで白い光を押し込んだかのような明るさだ。
目に痛々しく、下を向いても階段の段差が認識しづらいほどの色に、気圧されてその階段から離れ、今度は下向きの階段の1つに近づいてみる。
覗き込んでみると、突き上げるような白が目を焼き、とてもではないが近づいていられなかった。
そっと離れ、通路へ戻る。
どうやら出入り口は、あの白に耐えられるものだけが使える場所らしい。

目の奥に焼きついてしまった白。
瞼の裏すら焼いて、まだ残っている。
その白が残っているうちは、地下通路内は黄ばんだ落ち着きを保っている。
おそらく、白すぎる白は、ただ諾々と歩き続ける人間には強すぎるのだ。
瞼を閉じても、歩けない。

柔らかな色に感じられるようになった通路を、更に歩いていく。
するとその先には、妙に長いスロープが渦巻いていた。
階段五段分程度の高さを、左右に何度も蛇行し、緩やかな道を作っている。
何度も、何度も、何度でも。
そのスロープを、一人の老婆が歩いている。
少しだけ腰を曲げた、小柄な老婆。
スロープに沿った手摺に手をかけ、ゆっくり、ゆっくり下ってくる。
くすんだ、なんとも言いがたい色の服は、老人を象徴するかのようで、何故か直視する事を躊躇わせた。
その躊躇いのまま少しだけ逸らした視線の端、完全に締め出す事のなかった老婆の残りは、時折立ち止まっては、小さく震えている。

『年寄りは早く死ねとでも言いたいのかね。全く、世の中不便すぎて・・・』

通り過ぎてしまったあの短いエレベーターでも欲しいのだろうか?
それともあまりに長すぎるスロープに、疲れてしまったのだろうか?
もしくは、ただ返事をする誰かを求めているだけなのだろうか?

完全に視界から老婆を締め出して、スロープの脇にある、幅の狭い階段を上った。
すると突然、辺りが開けて、まるで何かのホールのような様相を見せる。
真っ白な、丸い空白。
突然すぎて、誰もが足を止めてしまうだろうその場所で当然止まった足の為に、次の一歩を探して視線は辺りを彷徨う。
彷徨わせた視線が見つけたのは、丸いその空白の先に続く真っ直ぐな通路、それ以外の、別の方向に繋がっている幾つもの幅の違う通路の存在だった。
丸い空間を丸く辿るように続いている、幾つもの通路を眺めていく。
どうやらこの場所は、今までの地下通路からの分かれ道になるらしい。
この先に真っ直ぐ続く、一番広い、白の通路以外は、別の場所になるのだろう。
別の、通路になるのだろう。

──皆、何処を選んで、何処に行ったのだろうか?

ぼんやりと佇んでいると、背後から誰かの声がする。
振り向かないでいた私の横を通り過ぎ、すぐ傍の狭い出入り口へ向かう人影が見えた。
たぶん、男。でも、他は良く分からない。
反対の出入り口からは、この通路に入ってくる気配がする。
たぶん、女。容姿は分からない。私の傍を通り過ぎて、背後へ去って行ったから。
佇むすぐ傍を、気がつけば色々な人が過ぎ去っていく。
この通路へ入る者、この通路から出て行く者、入りも出ても行かないのに、いつの間にか消えている気配も。

何処から、来たのか。
何処へ、行くのか。
何処が、在るのか。

溜息を、1つ。
過ぎ去る全ての人は、性別や大体の年齢以外、分かる事がない。
容姿すら、殆ど分からない。
でもきっと・・・、それは私も、同じこと。


──この顔が、私には分からない。


「・・・もう、いいか」
ふと零れた声は、一体誰のものだったのか。
分からないが、別に分からなくとも良い気もしていた。
だって、そもそも・・・、始まりを、私は知らないのだ。

一体、いつから、何故、この場所を歩いているのか?

まぁ、良いか・・・、溜息のように、零れる結論。
幾度となく零れた気がするそれを、再び零しながら・・・、

白い通路の先を、『また』、歩き出した。