long8-9

「『コイ』って、なに?」

気に入るっていうのと、どう違うの?・・・鮮やかな闇に埋められないように、今度こそはっきりと形にして突き出した。受け取れないと言われても押しつける、そんな気迫を込めて。
リアはゆっくりと口を開いて、それから柔らかそうな下唇を軽く噛んだ。悔しそうでも、辛そうでもなく、耐えていると言うよりは、堪えている。何を? そんな疑問は、形だけ抱いてすぐに霧散する。だって、知っている。そう、知っているのだ。噛み締めた唇の奥に隠しているものが、何なのかを。理由は知らないし、想像も出来ない。でも俺は知っていた。共にいる時間の長さだけが、事実を目の前に見せている。
多少の痛みと引き換えに、どうにか塞がれている唇。その奥には、間違いなく笑みが隠されている。笑み、というか・・・笑い声が。
「ねぇ、なに?」もう一度、重ねる。揺らがないように。柔らかな土を踏み締めて固めるのと同じそれに、リアが唇の震えをどうにか抑える。そしてそれから、噛み締めた時より更にゆっくりとした仕種で開いて。「あのねぇ」妙に間延びした声が、妙に印象的。間延びしているのに、ふざけた感がない、不思議な声。つまり、ふざけていないのか。一瞬前まで、笑うのに耐えていたのに。
「変化の変のね、下の部分を心に変えると、『恋』なんだよ」
「変化の下?・・・久しぶり、みたいなののこと?」
「そうそう。そこを、心に変えるの。それで『恋』」
「・・・『恋』」
また、笑い声。反響する声は、リアからではなく、誰もいないところから聞こえてくる気がする。誰か、知らない大勢に辺りを取り囲まれている、そんな錯覚。俺だけ知らない、そんな予感。
「彩があの、オレンジのカップを気に入ってるとか、私達が二人でいれば便利で、特に嫌いってわけでもないから一緒にいることにしてるとか、そういうのじゃないんだよ」
「・・・それ、ラルドも言ってた」
「うん。『朝』とか『夜』では当たり前の感情らしいから、向うからしてみたら逆に、こっちのことが不思議だろうね。私達には──『恋』なんて、ないから」
「ねぇ、だからなに? 『恋』って、結局どういう感情? 気に入っているの好きと、どう違うの? 気に入っているの好きも、好きってことでしょ?」
「大きな意味では、そうだね。でも、『恋』って、ねぇ・・・特定の、『好き』みたいだよ?」

──特定の生き物に向ける、他には向けない特別な『好き』なんだって。

「なんかね、そういうの、『愛』とも言うらしいよ。あ、漢字は説明するのが難しいから、辞書引いてね?」
「・・・べつに、そこまで興味ないけど」
窓辺に座るリアの足は、気がつけば何かのリズムを刻んで揺れていた。古い時計、振り子と同じ動き。あの振り子は時間を刻んでいたけど、今、リアが刻んでいるのは何だろう? 不思議と、何も刻んでいないとは思えない。
でもその何かを刻んで披露された説明は、聞いても大して理解が深まるものではなく、ただ漠然と分かったような気になるだけだった。だからリアの「まぁ、私も知識だけで、ちゃんと分かってるわけじゃないけどね」という一言に、やっぱり『たそがれ』では分からないことなのかと安堵する。安堵して、次に疑問が浮かぶ。
全てが『在る』はずの『たそがれ』で、どうして分からないことがあるのだろう、と。
「ねぇ、なんで?」浮かんだ疑問を、浮かんだままリアにスライドさせる。この国は他の国と違って完璧で、光も闇も溶け合って存在し、全てが鮮やかに色づいて、空白なんて一欠けらも存在しないほど、全てが揃い、満ち足りているのに。
欠けた国では当然『在る』モノが、どうして『ない』のか。足らない国で当然理解されていることが、どうして俺たちに理解出来ないのか。
疑問、というより不満、なのかもしれない。『たそがれ』に住む者としての自負に似たものを、傷つけられたと感じているのかもしれない。どこか他人事のように、そんな解析が見えて。
吐息が、洩れた。たぶん、リアのだと思うけど・・・正直、自信がない。もしかしたら、俺の口から洩れたのかもしれない。反響している。だから、なにが正しいのかが見つからない。見つからない。
「・・・完璧だから、満たされてるから、足りないモノがないから分からないんだよ」笑っていない、声。口元の笑みは、消えていないのに。「私達『たそがれ』の人間は、国に全てがあるし、私達自身の中にも全てがあるでしょ? でも、不完全で満たされない、足りてない国は、その国の人間は、そうじゃない」そうじゃない。二度、繰り返される断言。振り下ろされる、何かを見た。そんな、気がした。
そして、浮かんでいた笑みが消える。一瞬だけ、消える。一瞬、だけ。そう、見えた気が。
「『朝』と『夜』の人間は、私達『たそがれ』の人間の半分だから」
「・・・『男』と『女』」
「そう、『男』と『女』。半分それぞれにそんな名前をつけて、お互い、もう片方はない。あのね? 彩、私達には想像もつかないことで、理解なんて『かわたれ』より遠いけど・・・でもね? 彩、あのね・・・想像つかなくても、知っておくと良いよ。『男』と『女』、そうやって片方ずつになるとね、片方ずつに、分けられちゃうとね・・・」

足りない片方を、求めるようになるんだって。

「求める片方を見つけた時、その感情に『恋』とか『愛』って単語を当て嵌めて、形にするんだよ。形にしておけば、求めやすいでしょ?」リアは、そう言葉を結んだ。俺の理解も質問も、全て置き去りにして、そう、結んでしまった。そこで、結んでしまった。
一度言葉を結んでしまえば、リアはそれで会話を終わらせてしまう。少なくとも、その場では。もし再開されるとするなら、それはまた、違う時間。もう身に沁みている事実に、置き去りにされたモノを、俺自身が置き去りにする決意をする。少なくとも、そう、これもまた、『少なくとも』、今、この時間では。
少し離れたリビングのテーブルには、いつかと同じ、冷めた紅茶がカップに少しだけ残っている。置き去りにされた、置き去りにした全てと同じ。同情めいた感傷で自分のカップにポットの残りを注ぎ、口に含めば、温かみも香りも失った液体は、微かな後悔だけを舌に残す。飲まなければよかった、と。
同じことなのかもしれない、そんな感想が、残された後悔に触発されて浮かんだ。問わなければよかったのかもしれない、と。
問えば問うだけ、重なっていくような気がした。重なっていけば重なっていくだけ、問わずにはいられなくなる気がした。そんなループを繰り返していくうちに、何処か、知らない場所に連れて行かれる気がした。連れて行かれて、いつの間にか帰り道を失くしてしまう気もした。
失くしてしまった、気がした。
「彩」
肩が、跳ねた。あまりに激しく跳ねたから、その動きに俺自身が驚いた。声も出せず、代わりのように手にしていたカップをソーサにぶつけて、高い、耳障りな音を立てる。気に入っている、オレンジのカップ。気に入っているのに。
「彩、明日・・・行かないと、ね?」
曖昧な赤も、茫洋とした闇も貫いて聞こえるリアの声は、とても、とても強かった。声が大きいわけでも荒げているわけでもないのに、ただ、真っ直ぐに強かった。行くと答えたはずなのに、疑っているわけでもないだろうに、どうしてそんな強い声を必要とするのか? 強くなくてはいけない理由が、何処かにあるのだろうか?
置いてきた問いに引き摺られて、それもまた、口に出来ない。悔しさを覚えながらも、一つ、上下に首を動かす。微かな動き、この曖昧で鮮明な空間で、リアに見えたかどうかは分からない。
見えていたからかもしれない。見えていなかったからかもしれない。どちらなのかは確かめられないまま、リアのそれが、本当にこの会話の結びとなった。解けない、結びとなった。

届けないと、ね。・・・『仕事』だから。

**********

「・・・だからこれは『仕事』じゃないって言ってるじゃん」
「えっとぉ・・・どうかした? もしかして、今日も怒ってる?」
「・・・いつも怒っている、理不尽な人間みたいに言うの、止めてくれる?」
いつもの事と言えばいつもの事で、リアと話をしていると、会話の流れというか雰囲気というか、そんな説明出来ないものに流されて上手く反撃出来ないで終わっている気がする。たぶん、気だけじゃないけど。
溜まる鬱憤はその場では溜まっていることすら気づけず、こうしてリアから離れると一気に漏れ出し、口から溢れ・・・偶々その場にいたラルドの、失礼な言葉を聞く手助けをする羽目になる。
こっちは無償で時間と労力を割いてやってるのに、そんな人間に対してどういう認識をしてるのか? あともう一回失礼なことを言われたら、また手紙受け取らずに帰ってやる、なんて、昨日立てた誓いと同じような誓いをもう一度、力一杯立てて。
昨日手紙を渡し忘れたことがよほど堪えたのか、向ける視線に込めた思いを、ラルドは敏感に察知したらしい。焦りを顔一杯に浮かべて「べつにそういう意味じゃないから! 彩のことは、滅茶苦茶、良い人だと思ってるから!」等々、八割方、誇張だろうという賞賛を浴びせ掛けてくる。
黙り込んだのは、八割誇張だと分かっている賞賛をまともに受けたからではないし、誇張だと分かっているから腹が立ったわけでもない。そうではなくて、見え見えの誇張で飾ってでも引き止めたいのだと、渡したいのだと形として目にしてしまったからだった。
とりあえず面倒になって無言で差し出した手、意味を察知したラルドは、表情を一変させて両手を伸ばす。勿論、伸ばされた手には紙がある。手紙。手紙が入った、封筒。真っ白な、表と裏、一つずつの名前が書かれたもの。
ただの、言葉。言葉、だけ。
貰っても役に立たないのに、これは一体何を渡しているのか。気持ちを伝えたい、ラルドが昨日、言っていた言葉。でも、そんなモノを伝えて何になるのか。足らないものを求める、リアが昨日、言っていた言葉。でも、こんなモノをやり取りしたとして、何が得られるというのか。求めるものなんて、何も・・・。
「足りないもの、ねぇ・・・」溜息に、似ていた。我ながら、物凄く疲れた溜息に。そろそろ投げ出してしまおうか、何度目か分からないそんな溜息。昨日は一旦、置いた。でも不思議そうな顔をしているラルドを前にすると、もう一度、という思いも浮かぶ。心機一転? 全然一転してないけど。
「リアに聞いた。『恋』ってなにって。特定の生き物に対する特別な好きだって? なんか、足りないモノを求める的な好きだって」
「あー・・・うん、ざっくり言うと、そうかなぁ」大袈裟に上下に動く首。何かに感じ入っている様子。『何か』だ。俺には、分からない。それが微妙に腹立たしくなってくる。口が攻撃的な形を取るのを、自分でもはっきりと自覚する。自覚するけど、抑える気は全くなく。「足りないモノ、ね・・・」足りないモノ、『男』と『女』。何故か赤くなり始めている、ラルド。足りないモノ、足りないモノ。
眺めるその姿に、足りないモノを探す。上から下、下から上。右から左、左から右。足らないモノ。足りないモノ。俺と同じ、でも少しだけ太く、硬そうな両手、両足。明るい茶の、短い髪。緑色の、瞳。俺とは違う色。でも、同じ。過不足なくそこに『在る』、諸々。

──たった、一箇所を除いて。