「この怪我、三分の二くらいは彩の所為なんだから、責任とって、治るまで代わりに働いてよ」
窓から入る鮮やかな赤い闇に覆われ、顔の半分が見難くなったリアは、やたらと弾んだ声でそう告げた。それだけは白を守ったままの包帯に巻かれた足を、声と同じように楽しげに揺らしながら。
どんなに荒々しく歩いても、どうしても耳から振り落とせないその楽しげな声が作った言葉に、納得したわけじゃない。絶対に違う。
べつに、怪我の責任の所在を否定するつもりはない。リアが不安定な体勢でいるのを分かっていたのに、すぐ傍で乱暴な動作をしたのは考え無しの行動だったと思うし、その結果として体勢を崩してリアは怪我をしたのだから、確かに俺が悪い。
だから、それはいい。よくないけど、責任は認める。認めたから謝罪もしたし、こうしてリアの言葉にも従っている。・・・わけだけど、それでもどうしても納得がいかない。納得、出来ない。
ってか、これ、『仕事』じゃないじゃん。
言葉にすればなんとなく負けた気分になりそうだったから、一言だって洩らしていない。でも洩らしていないだけで、胸の中は骨を圧迫するほど不満だらけだった。怪我で身動きが取れないから、手となり足となれというのは分かる。食事の用意やその他、雑用だってなんでもこなそうと思っているし、外の空気が吸いたいと言われたら、重かろうと辛かろうと肩を貸すなり背負うなりしようとも思っている。それぐらいの責任はあるから。でも・・・「代わりに働いてよ」リアの言葉がまた、脳裏で踊る。何故、働く、なんて。
この国に『仕事』なんてないのに。僅かに残されている『仕事』は、懲罰として罪を犯した者がさせられているだけなのに。
「なんで犯罪者でもないのに『仕事』なんてしたがるんだか。つーか、しなくていいんだから、怪我したからって代わりに誰かがしなきゃいけないわけでもないじゃん」
意味分からん・・・と、リア本人にもぶつけた不満を、とうとう形にして地面にぶつける。当然、どこともしれない場所へ転がるしかないその不満は、すぐに辺りに満ちた目映い薄闇の中に消える。
永遠に満ちた、鮮やかな薄闇に。
視線が一瞬でも外れた瞬間、手にしていたはずのものですら見失うのはいつものこと。この国での常識に、今更疑問なんて差し込む余地もない。だから気にせず歩く。どこかに転がっているのかもしれない自分の不満も、他人の不満も踏みつけて。
「・・・大体、これ、『仕事』になってないじゃん。何も貰ってないって、なんでだよ。『ボランティア』って、もう、絶滅的に阿呆らしいし」
嫌々『仕事』させられている奴らですらなんか貰ってるのに、善良な人間が何も貰えないってなんだよ、何も貰えないのに義務みたいにほぼ毎日働くってなんだよ、マジ、なんなんだよ・・・無数の不満が、丸々と肥えていく。餌なんて幾らでも湧き出す。湧き出して、垂れ流して、引き摺って、でも足だけはきちんと動かした。たとえどんなに納得がいかなくても、動かすと決めてしまったから。
茂っている草を踏みつけ、立ち並ぶ木々を避け、辛うじて道の体裁を保っているそこを通り抜け、ただ一直線に向かう。リアが告げる『仕事』の為に、向かう。向かう。向かう。そして繰り返される木々の囲いの果て、唐突に開けた視界、誰もいなかった世界に突然入り込む、人々。
望んでいる者なんて、ひとりもいない。誰もがしかたがなく、この場にいた。この・・・『岬』に。
望んでここに来たわけじゃない。でも初めて見る『岬』は多少新鮮で、腐っていた気分が少しだけ変わる。足を止め、見渡して、一歩進んで、また止まり、また見渡す。
吃驚するくらい、何もなかった。人が作る物は勿論、木も、花も、草の一本すらもない。ただ乾いた大地が広がるだけのそこでは、普段見慣れている赤い闇が、まるで初めて目にするもののように、強い力を持って圧倒してくる。この『たそがれ』に満ちている、赤い光と赤い闇。それらだけが存在していると、錯覚しそうだった。他には、何にもない。誰かも分からぬ数人の人影以外、何も。他には・・・、
──アレが『橋』か。
目についた、この場に唯一の物。岬に聳え立つ、大木のような何かが二本。輪郭すらも曖昧に、鮮やかな闇に埋もれたそれを、克明に見ることは叶わない。でも、知っている。聞いたことがある。『岬』に聳え立つ物。『橋』。訪れるものへ架ける『橋』。『たそがれ』から架けてやらない限り、たとえ訪れても繋がることが出来ないという話を聞くたびに、やっぱり他の国は『たそがれ』に比べて不便で不完全な国だなと思っていたことまで思い出す。思い出し、せっかくだから近づこうとして──、
色のない光を、初めて見た。
踏み出した足を地面につける間すらない、唐突な誕生だった。聳え立つ橋の向こうから、この『たそがれ』の赤を切り裂くような色のない光が生まれ、一瞬にして辺りを染め抜く。目を焼く光の強さ。色のない、強いだけの光に、あれほど鮮やかだった赤い闇を、数秒間、喪失する。瞑る、瞼の存在すらも失って。
・・・それはおそらく、眩暈にも似た数秒のこと。
見慣れない光に切り裂かれることなく聳え立っていた『橋』が、視界の先、失われない姿でゆっくりと光に向かって倒れていく姿が見えた。何も見えないくらいの光なのに、その姿だけは見間違いようもなく、はっきりと。二本、同時に倒れていき・・・やがて突き刺さる。見えた、そこまでは、確かに見えた。でもそこまでしか、見えなかった。何故なら、突き刺さった、その認識をした直後、『橋』は保っていた輪郭を消失したから。光も『橋』も、『たそがれ』が、切り裂かれたはずの赤が侵食していく。境界が滲み、滲んだかと思うと徹底的に失われて。広がるように、熔けるように失われ、無制限に滲む。
赤い、赤い、赤い闇。
鮮やかに、艶やかに、深く、強く、暗く、埋める。
埋める、埋まる、染まる、染める。
色は彩として、染まらない存在を許容せず、全てが、全てとして、全てになり。
やがて、色のない目映い光は、眩暈を熟む闇に埋められる。
「行かないの?」
すぐ傍を通り過ぎた『誰か』が、そう声を掛けてきた。行かないの? 『橋』は架かった、渡らないの? と。返事を待たず先に立って歩いて行く、その『誰か』の顔は見えない。通り過ぎた時の口元と首筋、向けられた背中だけが辛うじて見えるだけで、他は全て、埋められている。熟んだ、赤に。赤に。赤に。
──顔は、見えない。
当たり前だった。それはもう、考えるまでもないほど当たり前のこと。ここは『たそがれ』、通り過ぎるだけの人の顔なんて、見分けがつくわけがない。誰が誰だかなんて分からないから、そもそも考えることすらないのに・・・どうして、今更。
あの光の所為?・・・誰にも気に掛けてもらえないと承知の上で、首を少しだけ傾ける。今は埋もれた、色のない光。初めて見るアレが、普段は考えないこの国での常識に、足を止めさせたのかもしれない。色を持たないのに、全てを貫かんとするほど強く、鋭い光。
「アレが・・・『太陽』?」
洩らした声に、返事はない。『誰か』の背すらも失われた場所から踏み出した足が、訪れているのだろう『太陽』に向かって進み始める。初めての、『太陽』。向かう先は、大地の続きと化している『橋』。交互に踏み出す足は、続く台地を踏みつけ、境界が失われている大地は既に『橋』の存在を示さない。曖昧なまま、境界のない台地をただ、歩く。
僅かな先すらも、曖昧なままに。足だけを、機械的に動かして。
──先に『太陽』に触れる足は、どっちだろう?
脳裏を掠める、疑問。掠めた途端、消えていくほど他愛無いそれは、消えるのではなく打ち消される。失われたはずの、圧倒的な光。目を焼き、瞼すらも焼き尽くす光。いきなり差し込んできて、後頭部へ突き抜ける力は考える必要すらなく告げる。どちらの足が先かなんて、そんな他愛無い疑問の答えを出す必要はなく、価値すらなく・・・両の足が、既に『太陽』に踏み込んでいることを。
理解した。理解、させられた。失われた境界はやはり失われたまま、『岬』から架かる『橋』、『橋』を渡りきって踏み入れた足。圧倒的な力は色を払拭し、曖昧な全ては徹底的なほど明確に失われる。
徹底的なほど、明確に、失われる。
足が、止まる。もしかしたら、もうずっと前から止まっていたのかもしれない。だって、動かない。今まで動いていたのが不思議なほど、動かない。溢れる光に足を縫いつけられ、僅かに開いたままの唇から進入する光が喉を焼き、声すらも奪われる。耳の奥には、聞いたこともない耳鳴り。眩暈が、する。こんな、色すらない光の中で感じるなんて。色に、闇に、赤に、眩暈は齎されるものだったのに。
「大丈夫?」ふと、隣に『誰か』の気配。聞いたことがある声かどうか、判別もつかない。でも、気配は声を重ねる。「初めてじゃ、辛いでしょ?」軽薄な、声。鬱陶しい、いつもならそう思う声でも、支えのない、馴染みのない世界の中にあっては一つの救いになりうる。「・・・つ、らい、です」掠れた、無様な声。これは知っている、俺の、声。なんて情けない。でも、仕方がない。今は、もう・・・。
「コツはね、三つだよ。まず、息を止める。それから瞼があると信じて、力一杯目を瞑る。それで・・・」
それで、自分は『たそがれ』の人間だと胸の中で呟いて、一歩を踏み出すんだ。
「踏み出した足がどこかについたら、目を開くといい」声は、間違いなく笑っていた。しかも、からかい気味に笑っていた。むしろ、嗤っていた。耳障りな声を残して遠ざかる気配に、胸の奥深くから込み上げてくる力の名を、知っている。怒りだ。それも屈辱を知った、怒り。
なんで通りすがりの『誰か』にあんな風に嗤われなくちゃいけないんだよ! あっちは絶対犯罪者! こっちは物凄い善良な、犯罪歴なんて一つもない人間なのに!
込み上げてきた怒りは、竦んでいた心を、諦めかけていた身体を奮い立たせる。あらゆるものを振り払い、息の代わりに怒りを喉の奥に押し留め、その怒りを原動力に、縫いつけられていた足を振り上げる。
どちらの足を振り上げたのか、不思議と分からなかった。自分の足なのに、どちらを上げようとしたのか、どちらが上がっているのかが認識出来なくて。出来ない、けど・・・振り上がったのは、分かった。そして当然の結末として、振り下ろして。固い、感触。土ではない。もっと固い、でも乾いた感じじゃなくて、どこか滑らかな感触。引っ掛かりのない、滑らかさ。何となく、馴染みがあるような、親しみがあるような・・・そう、まるで家の中、良く磨いた床に足を置いたような。
置いてしまった、念押しされる。いや、念押し、した。何故かなんて、分からない。たぶん、理由なんてない。連想的に、してしまっただけ。でも連想は互いに結びつき、やがて連想ではない、別の形にその姿を変える。光が闇に、赤が黒に、『誰か』が『何か』に、反転するように、変えていく。
開こうと意識するより先に、瞼はまた、その姿を失っていた。障害を失ったはずの目が焦点を結ぶまで、数秒。もしかしたら、数十秒。痛みを感じたのは、瞑っていた力があまりにも強かったから。結んだはずの焦点が、何度か解けたのも同じ理由。結んでは解け、解けては結んで。何度か繰り返す。数度だけ、繰り返す。繰り返し繰り返して、初めから決っていた往復を果たした後、改めてゆっくりと開かれる瞼。失っていなかった、それ。開かれる・・・否、開く、先。
──暴力的な『青』が、全てを支配していた。