──暴力的な『青』が、全てを支配していた。
見上げようとしなくても、自然と引き寄せられた。青が広がる空の下、呆然と佇む以外の一切を出来ず、何処までも、何処まででも広がり続けている頭上を、そこに在る青を、一心に見つめ続ける。
光が透明度を保ったまま、永遠を思わせる恒久性を纏って降り注いでいる。注がれる光を受けながら、真っ白になってしまった頭の中身を掻き集めてみるけれど、ちりぢりになった欠片程度ではまともに物を考えられない。
ただ、考えるまでもなく分かっていることがある。降り注ぐ光。その色を失った光に、知らない振りは出来ない。ここは、この、青が広がる場所は・・・あの『太陽』の中で、見上げる空はおそらく、『朝』の欠片。分かっている、知っている、もう、間違いはない。伸ばした手も届かないほど遠く、高く。痛みを覚えるほど伸ばしても、指先すら掠めることは出来ない。だから代わりに、瞬きすら惜しんでその姿を見つめた。忘れたりしないように、最初で最後だからと、最期にしてしまうのだからと。
最期に、なってしまうのだからと。
ゆっくりと視線が降り始めたのは、見上げ続ける辛さを知らされたから。その動きに合わせて世界は空から離脱し、降ろす動き以上にゆっくりと辺りを見渡せば、木で作られた板の大地の上に、何人もの人の姿を見つけることが出来た。
見知らぬ、人々。もう一度上を見上げれば、つい数秒前と変わらぬ空が広がり、突き抜けそうな青に、胸の奥を不安がよぎる。理由すらない、不安。解決することが叶わない、不安。何故なら理由がないから、解決しようがないのだ。だから仕方なく、また見知らぬ人々を見渡して・・・気づく、妙に落ち着きのない動きをしている存在を。
たぶん、同じ年頃のソイツは、眉間に皺を寄せ、不安げな面持ちで辺りを落ち着きなく見渡している。焦燥、そんな単語が相応しい様子で、身体が指針を失って小さな範囲を大きく揺れ動いていた。まるで揺れ動く地に佇んでいるかの如く。さもなければ、風に弄ばれる木の葉の如く。
一体何をしているのだろうと、疑問に思っていたのは数秒だけだった。何かを求め、探す様に促されて、頭の中の符号が一致する音がした。あるべき場所にあるべき形が収まる、そんな音。聞こえた音の背後に見えたのはリアの姿で、やけに楽しげな笑い声が重なったかと思うと、自然、眉間の皺が移った。首を横に振って払ったものは、リアの笑い声を含めた纏わりつく全て。振り払い、そして踏み出す。向かう先は勿論、少し先にいる挙動不審者の元。まだ、探している。たぶん・・・いや、もう間違いなく、今日はここにはいないリアを探している。
「アンタが、ラルド?」
すぐ傍まで近づいて、相手が俺に気づくより先に放った問いは、驚くほど鮮明な音になる。大きな声でもないのに、闇に呑まれることなく、含まれることなく、届く。跳ねる肩、向けられる顔、開かれる瞳。驚いています、そう語る顔は、不思議と離れたところで見た時より幼く見えた。同じ年頃に見えたのに、もう二、三歳幼い、十四、五歳に。
開かれたまま、瞬きする術を失った瞳は緑。鮮やかな、明るい色。映り込む青が混ざって、鮮やかな深みを増す。赤のない、色。『たそがれ』ではまず見られない、色。これが『朝』の国の住人かと、実感として説明される。頭上に広がる青い空と同じくらい、強い認識として。
「・・・ねぇ、ラルドだよね?」目は、逸らさない、逸らせない。瞬きも我慢して重ねた問いに、向けた相手といえば遠慮なく一度瞬きをして、それから所在無げな口が開かれる。「・・・そう、だけど・・・おたく、誰?」オタクってなんだよと、揚げ足取りのような言葉が軽いステップで通りかかったけど、大人気ないよと諌める声も通り掛かって、その通りだと納得して飲み込んだ言葉の代わりを、吐き出す息と共に差し出した。
「俺、彩」
「さ、い?」
「そ、リアの代わり」
「代わり・・・リアさん、の?」
「アイツ、怪我して今日来れなくなったんだ。で、その代わりに俺が来たってわけ」軽く肩を竦めて告げれば、目の前にある緑の瞳はまた数度、瞬きをした後、心配になるほど大きく見開かれた。同じタイミングで開かれた唇は僅かに震え、やがて躊躇しているのが感じられる声が零れる。「怪我って・・・」声は最後まで形にならず、だからこそ、リアを心配しているのが間違いようがないほどはっきりと伝わって、少しだけ、本当に少しだけだけど、好感を持った。怪我をした人間を気遣う、そんな感情を見るなんて、久しぶりだったから。
自然と表情が解れる。解れて初めて強張っていた事実を知り、知った途端に少しだけおかしくなった。他人なんてどうでも良い『たそがれ』の住人の俺ですら、こうして多少は他人を気にする、その事実が。
「大した怪我じゃないよ。でも、暫くは動かない方が良いから・・・だから、代わり」声は、自然と柔らなさを纏う。発した俺自身がその柔らかさを一番感じたけど、目の前にいる相手にもそれは伝わったらしい。揺れている空気が、落ち着きを取り戻すのを感じる。「そっかぁ・・・良かった」肺の空気を全て吐き出すように、その言葉は零された。力を、使いきるように。
そしてソイツ──ラルドは、改めて俺に目を向ける。青を映した緑を、向ける。「運んでくれるの?」それから俺が重ねて告げた言葉を、態々確かめてきた。どうしようもないほど重要なのだと、重要なことを頼むのだと、言外に告げるように。
「運ぶよ、運んでほしいんだろ?」
「・・・うん、運んでほしい。どうしても、運んでほしい」
「知ってるよ。リアと約束したんだ。代わりに運ぶって。だから運ぶよ」
断言すれば、まだ少しだけ硬かった表情が解け、安堵と喜びを向けてくる。ありがとう、他に頼める人、いないから・・・と、独り言めいた呟きを洩らして。その呟きに応えたりはしなかったけど、さり気なく近くの人々を、そのやり取りを眺めながら、それはそうだろうと納得する。他の人には頼めない、この年頃なら、当然は当然。もし正式に頼めば、決して安くはない金額やそれに相応するものを求められるのだから。『仕事』なら、考える必要もないほど、当然のこと。
でもそれが分かっていて尚、諦めきれずに運んでほしいと願うモノ、というのが想像つかない。大体、リアに簡単に聞いた話では、このラルドにしたって送ったからといって代わりに何かを貰えるわけではないらしくて、それなのにどうしてここまで必死に送りたがっているのか。何を、送りたがっているのか。
接触も出来なければ行き来も出来ない国に、何の用があるんだろう?
浮かぶ疑問と同じくらい軽そうな白が差し出されたのを認識するまで、僅かな時間差があった。見るからに軽そうなその白を大切そうに両手で差し出され、浮かんでいた疑問の上から別の疑問が重なる。白い、白。降り注ぐ白い光に照らされ、不必要なまでに自身の白を強調しているモノ。紙なのは、すぐに分かった。でもそれが封書であることを理解するのには、何故か数秒を必要とした。白の真ん中に書かれた、黒い文字の存在すらも。
角ばった、筆圧の強い文字。あまり綺麗とは言えない字だけど、精一杯丁寧に綴ろうとした、その意思だけは哀れなほどに込められているのが感じられた。封書から、零れ落ちそうなほどに。
「これ・・・これを、運んで・・・あ、いや・・・届けて、ほしいんだ。『夜』の『岬』で、待っていてくれるはずだから」
渡して、ほしい。そう、ラルドは言った。手つきと同じ、大切そうな口調で。痛いほどに鮮明な明るさを、柔らかな声音に包んで。「この、宛名にある樺音って子に、渡して」ひと際、声が柔らかみを帯びた。それだけは、分かった。それだけしか、分からなかった。
「・・・これ、かばねって読むの?」
「えっ? ・・・あ、そうそう。樺音。なんか、いいっしょ?」
「・・・へぇ」
見下ろす文字が名前だと、ようやく理解した。知らない文字、読めない文字は『文字』ではなく、ただの絵柄。ついさっきまでまさにその絵柄でしかなかったものが、読み方を教わることで『文字』としての意味を持つ。『名前』という役目を。
ただ、その名前に対するラルドの感想を求めるようなそれは、相変わらず理解の外だった。『いい』というのが『良い』という意味なのはニュアンスとして伝わるけど、伝わるだけで意味はさっぱり分からない。かばね、樺音・・・同意は、何に対して求められているのか?
差し出した手。そこに大切に乗せられる、紙。宛名を書かれた、一通の封書。重みは、ない。それなのに、存在感だけはあった。あまり関わることがない『他人』から齎されたという事実の所為か、それとも今までこの封書を扱っていたラルドの手つきの所為か。紙に落としていた視線を上げれば、目の前にいるラルドと目が合わなかった。ラルドの視線は、存在を移された封書に向いている。
封書の中を見つめるように、見つめた封書の中に、何かを閉じ込めるように。そんな気がした。そんな気がした途端、手の中の存在感がまた、増した。気の所為では済まされないほど増したその存在感に、俺の存在感が逆に、地に足が着かないほど軽くなる、そんな不思議な予感がした。浮き上がるような、流されるような・・・取り残される、ような。
・・・まぁ、どうでもいいや。
言葉にはしない言葉は、意識するより先に投げ捨てられた。たぶん、この『太陽』の外に。そして投げ捨てた存在を初めからなかったものとして、今度は形になる言葉を綴る。勿論、目の前に存在している相手に向かって。
「なんだかよく分かんないけど、とりあえずこれ、その樺音って子に渡せばいいんだよね?」
「そう! すっごい可愛い子だから、きっとすぐ分かるよ!」
「・・・会ったこと、あるの? ないよね? 『夜』になんて、行けないでしょ?」
「会ったことはないけど、でもあっちからも手紙が届くんだって!」
手紙、出てきた単語に、視線は下へと向かう。宛名のある、封書。つまりこれは樺音という子への手紙で、その子からも手紙が届いて・・・手紙の、やり取り。疑問は、また浮かぶ。なんで手紙なんて必要なのか? どうしてやり取りしているのか? 浮かんだ疑問、自然と開いた口が形にしようとしたけど、ラルドの妙に興奮した声が全てを押し流す。「もうさっ、手紙の文面からして、絶対可愛い! そんな感じ!」どんな感じなんだよ、それ? ・・・なんて問いさえ挟ませない威力を、その声はしていた。俺が初めて直面する、威力を。
「花みたいに可愛い女の子だよっ、絶対、そう! 他の女の子よりずっと、ずぅっと可愛いよ!」
満面の笑みなんて、久々にお目にかかった。降り注ぐ光の所為で、比喩ではなく光り輝いているそれから視線が逸らせない。見惚れて・・・ではなく、呆気に取られて。頭の片隅では疑問がまた一つ、浮かんでいる。どうして満面の笑みというものは、こう、間が抜けて見えるのか。
理性を駆逐して現れるそれは、どう見ても動物的で、植物的な『静』の風情すらないし、正直、『笑み』と表すことが正しいのかどうかすら危ういと思うし・・・というか、はっきり言って馬鹿っぽい。
でも、溜息は洩らさなかった。初対面の相手に気遣ったからではなくて、その馬鹿っぽい顔で口にされた台詞に、少しだけ気に掛かる単語があったからだった。初めて聞く、単語。それなのに、知っているのが当然かのように口にされて。
「なに? それ」
「え?」
────『おんなのこ』って、なに? 樺音って子の、あだ名か何か?