long8-4

────『おんなのこ』って、なに? 樺音って子の、あだ名か何か?

「・・・え?」
「いや、だから・・・」
「えぇー! うっそ! それ、マジで言ってんの?」
「・・・は? オマエこそ、なに言ってんの?」
失礼なほど騒ぐラルドは、殊更冷たく作った声での俺の切り返しに、今度は不気味なほど静かに黙り込む。これぞまさに絶句、という顔をして。さっきまでの馬鹿っぽい顔とはまた違い、口を開いたままの正真正銘の馬鹿面。瞬きもせず、全ての動きを停止させて。
たぶん、十秒くらいは待った。でも、それが限界。非常識なことを言われたように、信じられないものを見つめるように見開いた瞳を向けてくる、静止した馬鹿面をいつまでも見ていられるわけがない。大体、おかしな事を言っているのは俺じゃなくて、ラルドの方なのだ。
湧き上がる腹立たしさに任せて開こうとした口は、その意思を全うすることが出来なかった。それより先に、止まっていたラルドの時間が動き出したから。瞬きを一度、それから開いたままだった口を閉じて、小さく首を上下にこれも一度、動かした後、理解の色を浮かべていきなり声を発した。
「そっか・・・そういえば『たそがれ』の人って、両性なんだっけ?」と、当然のことを、まるで新発見でもしたかのように口にする。とても納得しているらしいその様子に、感じていた腹立たしさはすぐに消えた。向かいに立つ、ラルドの容姿。曲線の足りない、どこか硬さを感じさせる肢体。何故か感じる力強さと、違和感。その、理由。思い当たれば、知らなかった単語に近い音を思い出す。『男』、そして『女』。足りないばかりの、中途半端な形。
何故かは、知らない。きっと、当人である『朝』の住人のラルド自身、知らないだろうけど・・・完全なものを、態々不完全にする為に削ったような、削られたような身体。不自由な、理不尽な、不可解な身体の理由。当然の完璧さを具えた身では、想像すらつかないそれが、目の前に。
「・・・『男』って言うんだっけ?」思い出した単語。「そうそう。俺、男」あっさりと返ってきた肯定に、もう一つの単語を口にする。「『おんなのこ』って、じゃあ、『夜』の『女』ってヤツ?」普段全く使わない単語だから、似たような単語を聞いてもすぐには結びつかなかったけど、ようやく分かった。ラルドが浮かべた満面の笑みに、俺の回答の正しさも。
「そう。あっちは女だけだから・・・女の子って、俺と同じくらいの年の子のこと。もっと小さい子にも使うのかもしれないけど・・・でも、女の子。可愛い、女の子」
「ねぇ、オマエさ・・・」
「ラルドだよ。手紙の子は、樺音。樺音、だよ。・・・あのさ、サイ、サイって、ただのサイ?」
「ただの?」
「樺音みたいに、何か字、当ててる?」
「・・・あぁ、そういう意味? 彩るって書いて、彩、だよ」
「いろどる・・・彩る、かぁ・・・いいね、それ。俺も、字、当ててあればいいのに。彩みたいに・・・樺音みたいに。な、彩、あのね? あのね、樺音って、絶対、可愛いんだよ。もう、会って損はないって感じ。だから・・・だから、さ・・・」

必ず、届けて。『夜』の淵で、待っていてくれるから。

「あのな、約束。約束、してよ。必ず・・・必ず、届けて」
嘘みたいな白い光をまとって、冗談みたいな青の下、ラルドは馬鹿みたいに笑って、馬鹿みたいに何度も同じ単語を繰り返し、繰り返し続けた。『太陽』から降りなくてはいけない時間が訪れるまで、何度も、何度でも。時間が来るまでは離れることが出来ないほど、何度も、何度でも。
笑って、言った。笑って、言っていた。笑っているのにどこかに必死さを感じさせる、切実さを滲ませた声で、何度も、何度も、何度でも・・・。

**********

家に戻って一番初めに目にするのが、知ったかぶりをしたリアの嫌な笑み、その笑みを浮かべた口元なのだから、どうして『たそがれ』の赤い闇はリアの口元も隠してくれないのだろうかと、恨めしい気持ちになる。いくら恨んだところで、ぶつける相手も訴える相手もいないのだから、意味はないけど。
「で? どうだった? 初仕事は」口元に浮かべた笑みより、もっと楽しげな声が部屋の中に捉えられない軌跡を描いて響く。前にいるはずなのに、斜め後ろから声を掛けられているような、予感。予感は外れない、そんな的外れな確信。「べつに、とりあえず受け取ってはきたけど」納得出来ない感情をぶつけようにも相手が悪く、何を言っても無駄だと経験として知っている身としては、余計な反論を飲み込んで手にした白を見えるように振るだけだった。この国ですら染めきれない、白い封書を。
翳す、白。中身は勿論、見えない。開けるのは当然マナー違反。分かっている、だからやらない。分かっている、でも気にはなる。気には、する。
翳していた封書をテーブルの上に置いて、代わりに淹れてあった紅茶をカップに注ぐ。琥珀色に満たされたカップを包むようにして持てば、冷えていた両手の体温がゆっくりと上がっていくのが分かった。指の腹に、痒みに似た痛々しさ。口にカップを運んで一口飲めば、飲み込んだ分だけ安堵が零れた。
「ねぇ、リア」零れた安堵と同じように、自然と声は零れた。視線の先では、決して消えない白が在る。染まりきったりはしない、白。視線は、その白にだけ結ばれる。
「これ、何なの?」
手紙だと、知ってはいる。でも、そもそも手紙なんて商業用以外、どんな目的で存在しているのかが分からないのに、あのラルドの様子からして、これが商業用じゃないということだけは分かってしまった。あの笑みが、主張していた。
主張された何かに、向けられた笑みに、胸の内で溜まっていた疑問は飽和して溢れた。零れる最初の一滴に似た、丸い、角のない問いとして。零れて、テーブルに落ちて、でも置かれた白を濡らすことは出来なかったし、きっと、聞いていたリアにも何の効果も齎さなかった。リアは、答えない。代わりに唇の両端を上げて、微笑む。テーブルを挟んで向かい合って座る先、ようやく見えたその顔にも、瞳にも、はっきりとした笑みを滲ませて。
「どうだった?」二度目の問い。すぐさま浮かぶ苛立たしさは、被せられた問いに埋められる。「ラルド、なかなかでしょ?」全く意味が分からない言葉は、まるで意味があるものを隠す為に被せられた、土のような気がした。何でも良い、埋めることが出来るならば、それでいいのだと言いたげな。
無視しようか、そんな思いが数秒の間、思考を左右に行き来する。でも結局何処にも行けないまま、真ん中辺りで立ち竦み、目の前にある微笑みをもう一度確認してから、諦めて溜息を零している。思考の、溜息。実際には零さなかったけど、思考だけでも溜息をついてしまえばもう駄目で、思考以外も殆ど全部諦めてから仕方なく答えを作った。
「変な奴だった。『朝』の奴って、皆、あんな感じ? 馬鹿みたいにずっと、何度でも笑ってた」
「『朝』の、男の子ね」
「・・・ってか、男以外いないんだろ、『朝』は」
まだ鮮明に記憶に残る笑みを呼び出しながらの答えに、リアはどこかずれた感じがする合いの手を入れる。どこか、というか全く合ってない、それ。まるで他の国の人間がいるかのようなリアの台詞に、吐き出した言葉の正当性を疑う気持ちは、一欠けらもなかった。・・・のに、リアは微笑みを笑顔に変える。絶対的な勝利を確認した人間と同じ、笑顔。細められた目、弓形に曲がり、丁度、唇と目が向かい合うように同じ形を描き、三秒よりは少しだけ長い沈黙を広げて。
リアは、軽く唇を結び、それから小さく震わせる。結ばれた唇の中に、動き回る別種の生き物を隠し持つように、小さく、細かく、絶え間なく震わせる。三秒より少しだけ長い沈黙より、もう少しだけ長い沈黙。それから何かに耐えかねて結ばれていた唇が、ゆっくりと解ける。柔らかに、滑らかに。いつか見た、何かに良く似た動き。絶対に知っているはずのそれを、どうしてか今は思い出せない、その、確信。
「『少年』って言うんだよ」解けた唇から動きと同じ滑らかさで零れた言葉は、あまりにも滑らかすぎて、掴まえる暇もなく通り過ぎる。「小さいに年齢の年って書いて『少年』。あのくらいの年の男を、そう呼ぶんだよ」リアの顔からは、笑みは消えない。剥がす方法をリア自身が忘れてしまったのではないかと、何故か強く、疑問が滲む。
「あとね、それと対になってるんだと思うんだけど、『夜』の方は『少女』って呼ぶの。勿論、同じくらいの年の女のこと。小さい女って書いて『少女』。でも思うんだけど、どうして男の方は『少年』なんだろうね? 『男』って文字が入ってないでしょ? 不思議じゃない?」
「・・・全然。ってか、そんな事、どうでもいいし」
「そう?」
「俺が不思議に思うとしたら、大して関係ない『朝』とか『夜』の事じゃなくって、一応、残念な事に一緒に住んでるアンタの思考回路がさっぱりな現実の方だけど。ってか、心配」
「そう? 言うほどでもないと思うけど・・・って、ねぇ、それよりさ、そろそろお腹減ったんだけど?」
「・・・アンタが勝手に余計なことをべらべら喋ってたんだよ」
こっちが聞いてることには全然答えなかったくせに・・・という続きは、もう諦めて胸の中にしまって、代わりに力強い音を立てて立ち上がる。勿論、音は当てつけだし、立った理由は食事の支度の為だ。当面はリアの代わりに食事の支度は全部俺の係りになっていたから。
悪態も何もかも飲み込んで、多少荒々しい足音を立てながら、キッチンに向かって歩く。リアの姿が視界から消えれば、もう頭の中では献立が並び始める。平行して、残っている食材リストも並び、並んだものを検討して最善の選択を。
「彩」
選んだ結論を形にすべく、キッチンに足を踏み入れる直前。聞こえてきた、あまりにも通りの良い、声。
振り返る、ついたった今歩いてきた先。するとそこには予測するまでもなく、当然の光景がある。俺に背を向けて、椅子に座ったままのリアの背中。リアの前に広がるテーブル。置いてきたままの、カップ。その中に少しだけ残った、紅茶の名残。
リアは、振り向かない。真っ直ぐ背を伸ばした姿勢の良い姿で、前を、前だけを見ている。もう誰も座っていない向かいの席を。前以外に興味はない、そんな発言でもしそうな背に、聞こえた気がした声の存在を疑い始めたのは、今度はきっちり三秒後。色々諦めてキッチンに入ろうと思ったのは、それからやっぱりきっちり三秒後で、でもまた行動をその意思ごと挫かれたのは、それから一秒後だった。
「物理的にね、価値のある物じゃないんだよ」
リアは背中を見せたまま、そう切り出す。主語はなく、痛めている箇所に負担が掛からないよう、ゆっくりとした動作で立ち上がりながら、テーブルについた手。完全に立ち上がっても、振り向かない。相変わらず、見えるのは背中だけ。なだらかな肩のライン、窓から差し込む赤が、そのラインを際立たせる。
際立たせ、それなのに境界は失われる。この『たそがれ』では当然のこと。ここは、境界が失われた国。永遠の完結の為に、失われている国。
「手紙、だよ」
問いの答え。その断片と、初めからなかった主語だと気づいたのは、リアが歩き出してからだった。テーブルの先、近づくのではなく、遠退く方向、窓際に向かって。窓に近づくごとにいっそう失われていく輪郭。でも、声だけは失われない。少なくとも、その輪郭だけは。
「物理的な価値だけに言及するなら、全くないかな。でも・・・物理的な意味合いに言及しないなら、あるのかもしれない。価値が」
「リア?」
「彩」
窓辺で、唐突にリアは振り向いた。酷くはっきりした声で、俺の名を、呼ぶ。真っ直ぐ向けられる眼差しは、その存在だけを強調しながらも、姿が全く見えない。窓から差し込む赤い闇が、眼差しどころか全てを覆い隠してしまったから。身体の輪郭すらも、消して。消して。消して。
リアが、いるはずだった。他の誰かがいるはずはないし、有り得ない。・・・でも、輪郭が掴めなくなった瞬間、確信は不安定に翻る。そこに確かにいるはずなのに。そこにいるのは、確かに知っている人のはずなのに。
確信が失われた途端、当たり前の事実を強く認識する。『だれそかれ』、この国の絶対的全てで、アイデンティティですらあるのかもしれない、事実。揺るがないはずのものも揺らぎ、確証なんて単語が夢と同義に変わる。
口が、微かに動く。リア、そう、再び呼びかける形に。でも、きっと形にはならなかった。声は聞こえなかったし、返事も聞こえてこなかったから。だから形にはなっていない。形になった、そんな幻想を抱いているだけ。

「──彩」

幻想を、砕く声がした。砕いて、消してしまうのではなく、砕いて、細かな破片として、現実に焼きつける声が。見えない、輪郭。それなのに、何故か感じていた。向けられている、視線を。
逸らされる瞬間が来るなんて、信じられないくらい強い、真っ直ぐな視線。返せるものなんて一つもないくらいの、真剣さ。だから、身動きが取れない。指先一つ、動かせない。
「ねぇ、知ってる? 聞いたこと、ある?」

──『恋』って単語。