long8-5

──『恋』って単語。

「ねぇ、知ってる? 知ってた?」
「・・・なに? それ。知らないし、聞いたこともないけど・・・」
「そう。じゃあ・・・覚えて、おかないとね」
声は、微笑んでいた。輪郭は見えないけれど、声と同じように微笑んでいるという確信が、あった。リアが、その笑みを浮かべているだろう、確信。でも、確信はあっても見えたりはしないから・・・。
残された、断言。耳の奥で繰り返す、断定。知っていること、知らないこと、知らないままでいること。どうして、あんなことを言ったのか。どうして、あんなことを聞いてきたのか。
リアには、聞けない。でも、他の人に聞こうにも、誰もいない。いない、はず。

「覚えて、おかないとね」

結局、なにひとつ分からなかった。分かることが出来なかった。ただ、そう、ただ・・・告げられた言葉だけが、愚かしいほどはっきりと、鮮明に何かを刻むばかりで。それ、ばかりで・・・。

**********

──大事じゃないけど大切な物だから、ちゃんと渡すんだよ?

リアの言うことって、マジ、分からん・・・と、今更ながらに思う。今更ながらというか、振り返ればそれ以外に印象に残っていることが一つもないのではと思うくらい、そればかりな気もするけど。
でも今回はその中でもトップかもしれない、っていうかどうしてあんな奴と一緒に暮らしてるんだろう? あー・・・そりゃ、一人で暮らすよりは家事とか諸々が二分の一で楽そうだったからだよな・・・等々。気がつけば、虚しいだけの自問自答が小山のように積み重なっていた。もしも大地が揺れたら、盛大に崩壊して周囲の知らない人々に怪我をさせてしまいそうなほどに。
尤も、有り得ない夢想は現実と比較したところで実現しないことが決定的だった。こんなにひと気がない場所では、たとえ小山が崩れ落ちようと人に当たることもないだろうし、避けることだって簡単なはず。それぐらい、ここには人影がない。当たり前だ。まともな人間ならこんな場所にはいない。こんな、『仕事』を与えられて渋々働いている数人以外に、用なんてあるはずもない──『月』になんて。
じゃあ、その『月』に乗ってる俺ってなに? ・・・っていうのは、聞いちゃいけないんだよね。
誰も相手がいないから、冗談だって口には出せない。胸の内だけで呟いて、出せなかった声の代わりに溜息を吐き出してから、ゆっくりと辺りを見渡してみる。見渡す必要もないほど見慣れた、けれどいっそう鮮やかな赤。赤い、闇。見慣れているはずなのに新鮮に感じるその鮮やかさ、深さは、しかし今は見えるほどには新鮮に感じられない。理由は明快。
七日前、『太陽』へ乗り込む時、あの『岬』と『橋』に広がった赤と同じだったからだ。
あの時の身体と心を揺さぶられるような鮮やかさを覚えているからこそ、同じ鮮やかさに同じように揺さぶられることはない。二度、同じ経験をすることは本当の意味では有り得ないから。勿論、今見ている鮮やかさに、全く何も感じないわけじゃないけど。
全てを曖昧にしているのに、あくまでも鮮明な赤。この赤が、『たそがれ』が『たそがれ』たる証。見慣れた鮮やかさの見慣れない鮮やかさに、改めてそう、思い知る。思い知った、けど・・・。
「変な感じ」零した声を耳で聞いて、形ある言葉を零したのだと、初めて自覚する。それは本当に微かな、唇の端から零れてしまっただけの言葉。変な、感じ。でも口にすれば、形にすればいっそう強く思わずにはいられない。変な感じ。今度は口の中でもう一度、呟く。「『たそがれ』にいるみたいだろう?」ふいに、掛けられる声。口の中で零した二度目の呟きが聞こえたかのようなそれは、斜め前、数歩先辺りから聞こえてくる。向ける視線は、勿論滲んだ輪郭しか捉えない。知らない、輪郭。知らない、声。でも、もしかしたら知っているのかもしれない。たとえば、『太陽』に渡る時に掛けられた声の主なのかもしれない。『朝』か『夜』か、仕事かそうではないのかの違いはあっても、二つの国を行き来しているというのは同じ。それならばあの時と同じ人という可能性はあって・・・それでも、同じであろうとなかろうと、きっと全ては同じこと。『たそがれ』の中に、埋もれるのならば。
「先に『太陽』を経験してると、変な感じがするよな。あっちは、『太陽』の中がもう、『朝』だったのに、こっちは全然、『たそがれ』のまんまだもんな」
「・・・『月』、なんですよね? ここって、もう」
「そうそう。ちゃんと『橋』、渡っただろ?」
「でも、『橋』もどっから『橋』なのかが分からなかったし、『月』に乗ったって言われても、『たそがれ』と変わらないし・・・これ、ちゃんと『夜』に向かってるんですか?」
知らないかもしれない人の、どことなく鼻につく親切めいた口調に、少しだけ苛立ったのが分かった。だから湧き上がる感情を無理やり飲み込んで返す問いは、自然、少しだけ尖っている。「大丈夫だよ、ちゃんと向かってるって」酷く軽い口調での返事。相手は、少しだけ尖った俺の声を、全く気にしなかったらしい。
「不安に思うのも仕方ないけどね。でも、仕方ないって言うなら全部、仕方ないだろ? 何もかも、仕方がないよ」

『朝』と『夜』が互いに補い合わないと存続出来ないのも、
『たそがれ』や『かわたれ』を通してしか補い合えないのも、
『朝』が『かわたれ』からの『太陽』を待つ以外、『夜』から何も得ることが出来ないのも、
『夜』が『たそがれ』からの『月』を待つ以外、『朝』から何も得ることが出来ないのも、
『かわたれ』に託す以外、『夜』が『朝』へ何ひとつ届けられないのも、
『たそがれ』に託す以外、『朝』が『夜』へ何ひとつ届けられないのも、

「全部、仕方がないだろう? 『朝』も『夜』も、どうしようもないくらい不完全な国なんだからさ。仕方ないよ、逆周りは出来ない。飛び越えることなんて、もっと出来ない。不完全な国があろうと、世界は完全なんだ。その完全さを突き崩すことは出来ない。だから・・・『月』に乗れない『夜』の奴らの為にも、俺たち『たそがれ』の人間が、乗ってやらないとな。乗って、『夜』に行ってやらないと。だろ?」
「・・・そう、ですけど」
諭すように滔々と続く言葉に、感じていた苛立ちすら霧散する。言葉の流れに乗って、どこかに流される。仕方ない、確かに、そうかもしれない。そうかもしれないけど、唯一、仕方ないと思えないことがあるとすれば、仕事としていないのにやらされている俺の身の上だけで・・・と、そこでふいに、何かに引っ掛かる。何かに、そう、何かに。引っ掛かったものを探す為、自分の中に尋ねて、少し前の時間からのやり取りを反芻。
気づく、思い起こされる始まり。あまりにも自然に流れたので、止めることを忘れて流してしまった、その、始まり。『太陽』を先に経験していると? どうして?
「・・・どうして、分かったんですか?」平坦な声。間を外した驚きに、感情までつけることが出来なかったのかもしれない。「なにが?」怪訝そうな声。間を外したことで、誰もが少しずつ困っている。でも、引っ掛かってしまえば通り過ぎることは出来ない。気になってしまったから。
「どうして、『太陽』に乗ったことがあるって分かったんですか?」
最初に返ってきたのは、小さな笑い声。それからすぐに軽い咳払い。今時、そんな分かり易い誤魔化し方をする人間がいるなんて、それもまた、驚きで。呆れに似た、驚き。でも、似ているだけでは気づいてもらえずに、そのまま話は進む。顔も、見えないまま。
「分かるよ。その手を見ればね」
「手?」
「『月』で何かを持っている人に会ったら、そりゃ、『太陽』で『朝』の誰かから何かを預かった人間だよ。それ以外には、有り得ない」
だろ?・・・と、どこか悪戯めいた声がした。視線を落とせば、左手に握り締められている、あの手紙が在る。見つめて、確かに、と不思議なほど素直に納得した。確かに、ここで何かを持っているなら、『朝』の誰かから預かったものだと察しはつくだろう。
手紙は、この『月』の中ですら、ただ、白かった。他のどんな色も拒絶して、白だけを纏っている。預かった、大切なもの。その意味を、考えないわけにはいかない。何故か、そんな気がして・・・。
「ほら」掛かる声。主語も何もないそれに落ちていた視線を上げる。叩けば跳ねる、それと同じような身体的な反応。他に何の意味もない動きに、相変わらずはっきりとは見えない誰かが笑う。「着いたよ」

──『夜』だ。