──『夜』だ。
辛うじて、そこまでの言葉は耳に形として残された。でも、そこまで。そこまでで、全て。全てに、なった。上げた視線と顔が向いていた方向、何処までも、何処までも続いていた『たそがれ』、続いていた・・・はずの『たそがれ』が、その、先で・・・先、で・・・。
途切れて、いた。
世界の、終わりのようだった。いや、『よう』ではなくて、終わりだった。『たそがれ』の終わり。そうとしか、見えなかった。ぶっつりと途切れた赤い闇、鋏で切り取られたその先には、赤い闇なんて一欠けらもない。曖昧な、鮮やかな赤の一切が排除されて、代わりにただ一色がその先を埋めていた。
黒より深い、藍。重なる木々の影に似た、湖の深みの影に似た、全てを覆う藍。藍の、闇。闇以外の全てを拒絶して広がり、染め替え、埋めていく。何も、見えない。曖昧だとか、輪郭が滲んでいるとかではなく、存在すらも掴めない。自身の腕すら、見失う、そんな、闇。
──それが、『夜』。
境界は、見たこともないほどはっきりとしたまま、近づいてくる。『月』の、中へ。望みに伸ばされる手のように、徐々に伸びてくる闇。藍の、深遠。次第に『月』の中に満ちてくる闇に、何故か足は引き寄せられる。近づいてくるものに、近づこうとする。足が、足が、止める、全ては存在せず、互いに近づけば、距離は意識より先に目の前に。目の、前に。
後方に遠退く『たそがれ』を、振り向きたい衝動に駆られたのはすぐ目の前まで迫った闇を見上げた時。でも、もう遅い。圧倒的なほど、遅い。身体を捻るより先に、足は踏み込んでいる。引き返せないほど決定的に、踏み込んでいる。引き抜くことなんて絶望的なほど、結末的に。
ようやく振り返ってみれば、既に闇が閉じていた。右を見ても左を見ても、見えるものなどない。光など、欠片も落ちてはいない。探せば探すほど、振り向ければ振り向くほど、どちらが前なのか、後ろなのか、遠ざかった『たそがれ』は何処に遠ざかったのか、何も分からなくなる。眩暈に、足元が覚束無くなる。ただ、ひとつだけ分かった。ここはすでに『夜』、『夜』が満ちた『月』。
耳に痛いほどの無音と、振動を詰め込まれた。震えることしか出来ない。覚束無い足元に、立っていることすら難しくなる。座り込みたいと、切実なほど訴える心を知る。座り込んでしまおうと、誘われる。けれど膝が折れる、その確信をした途端、ざわめきが、耳の奥に入り込む。・・・いや、入り込んでいることに気づいた。振動、震えることしか出来なかった理由として、気づいた。そしてもう一つ、気づく。一定の方向に、ぼんやりと所在無く浮かぶ小さな燈。光一つない世界で、ないと思っていた世界で、頼りなく灯された仄かな赤。『たそがれ』の赤とは比べようもない、それ。
踏み出した足は、初めての『橋』へ降り立つ。『たそがれ』から架かる『橋』とは違い、やけにはっきりしているその存在は、渡るにはずっと楽な『橋』だった。てっきり、今までと同じ『橋』をイメージしていたから、逆に酷く戸惑って、進む足取りはどこか、遅い。おまけに『橋』の終わりに辿り着いても、戸惑ったままの足はその場で躊躇して。暫し、迷いで固まる足。行き先を見失って、数秒間の沈黙。
けれどその足も、やがて方向を決める。燈へ向けて。距離は、ない。進むまではあると思っていたのに、『橋』から進んでみれば十数歩程度で着いてしまう。燈の小ささに、圧倒的な距離だと錯覚していただけだったらしい。近づけば、燈の意味もすぐ、分かる。ざわめきの意味も。
小さな燈。その燈を囲う陶器めいた、硝子めいた物が、ただでさえ小さな燈を仄かな存在に変えていた。そしてそれを持っている手の主は、皆、割れやすい薄さと細さを感じさせる人々で『夜』の住人だとすぐに分かった。闇に溶けたような、ラルドとは逆に感じるその印象が、すぐに答えを教えてくれたから。周りに点在する違う印象を持つ人は、おそらく『たそがれ』の人間で、与えられた仕事をしているのだろう。荷物の、引渡し。もしくは、他の何か。
渡される、荷物。見ているうちに、思い出す。仕事ではなくとも、引き渡す物があったことを。引き渡す為に、ここに来たことを。巡らす、視線。探すべき特徴を記憶の中に探しながら、動かす。確か、そう・・・一番可愛いとラルドは言っていた。そんな、役に立ちそうもないことばかりを言っていた。
思い出した言葉に小さく舌打ちをしながら、人が散らばる辺りに視線を巡らす。でも暗い視界のうえ、役に立たない情報だけでは目当ての人物を見つけることが出来ずに、ただ視線だけが無意味に何度も同じ場所を往復する。荷物を受け渡しする人々の間を、何度も、何度も。渡し、渡され、やがて離れて・・・見つからない、そんな決定的な判断の直前だった。見慣れ始めた人々の動きから、零れている影を見つけたのは。
まるで、俺の鏡だった。小さな燈を手にしたまま、何度も、何度も顔を左右に動かし、焦燥めいたものを纏っている姿は。行くべき先を見つけられず、立ち尽くしているのに諦めきれずに巡らせる視線は、俺からは見えない。暗くて容姿も見えないその姿が探している存在かどうかなんて、勿論分からない。でも、視界に収まった姿を認識した途端、不思議とはっきりした確信が胸に広がった。見つけた、と。
たぶん、諦めを失ったその姿が、どことなくラルドに似ていたのだ。
一度は失った行き先は取り戻され、意図を持った足が目的を見据えて動き出す。すぐに近づいた姿は、ラルドより二回りほど小さい。俺と同じか、もう少し小さいくらい。手にした燈、囲いは小さな赤い花が隅に身を寄せ合っているような控え目な柄で。纏っている衣服は藍色に囲いと同じような小さな赤い花を裾に散らした、初めて目にする物だった。布を何重にも巻きつけたような、服。少しだけ視線を外せば、周りの燈も同じ衣服に持たれていて、つまりはそれが『夜』の服なのだと分かった。
「ねぇ、アンタが、樺音?」
変な服、そんな感想を喉に押し込めてから発した問いに、目の前まで迫った相手は肩を跳ねさせ、燈を大きく揺らして固まった。息を飲む、小さな音も聞こえたけど、次の瞬間に小さく上下に動かされた首が肯定を示し、肯定を示したのに飲んだまま吐かれない息に、一体何をそこまで驚いているのだろうかと眉を寄せて・・・すぐにその理由に思い当たる。当たり前だった。相手に・・・樺音にとっては、俺は知らない人間なのだから。
ラルドの時は初めからそういうつもりで声をかけたのに、そんなたった七日前の出来事を懐かしむように思い出す。あの時は本当に何もかもが初体験だったから、『初めまして』という事実が頭の中に強くあったに違いない。中途半端で役立たずな情報を与えられた、今と違って。
「リアの代わりに来たんだ。アイツ、今ちょっと怪我してて。だから俺が、受け取ってきた」差し出した、差し出すまで持っていた事実をどこかに置き忘れていた、白。「これ、アンタに渡せってさ」片手で軽く差し出したそれは、どう考えても片手ですら余るほど、軽かった。・・・のに、空洞にも似た沈黙の後、伸ばされた手は二本だった。一本ですら余る軽さに、二本。二本、も。
白、それだけが最初の印象。伸ばされる二本ともがただ白く、中に通っている血管の青と緑が数本、絡みつくように浮かび上がっていた。細い、細い青と緑の絵柄。丁寧に指先を揃えてある手に、気がつけば燈の存在を失っていて、視線だけで探せばいつの間にか左の腕に引っ掛かっていた。引っ掛け、られていた。白、細い白に、小さいけれど重そうな燈が、陶器のような、硝子のような囲いが。
どうして、その一言が喉でこけた。立ち上がれずに、地に伏せた。どうしてこんなに軽い物を受け取る為だけに、重いだろうそれを腕に引っ掛ける? きっと、腕は痛んでいる。痕もついている。重さで喰い込んで、白を赤に変えている。いつかは消える、痛みと痕。でも、負う理由なんてないのに。ないと・・・思う、のに。
俺には探せないだけ? この樺音にはある? 見つかって、いる?
封筒に詰められた紙と同じように、疑問が俺の中に詰め込まれる。開くべきか、否か。考えている間に綺麗に揃えられた白が差し出した白を受け取り、ゆっくりとした仕種で持ち主の元へ戻っていく。胸元へ揃えた指先、同じ丁寧さで押し当てられた手紙。
鼓動を、聞いているのかもしれない。鼓動を、聞かせているのかもしれない。白に、手紙に、手紙を書いたラルドに、受け取った樺音自身に。答えの出ない問い、詰め込まれた疑問。重なった二つの白に視線が縫いつけられている間に感じた、微かな熱。
上げた視線は、熱の元を見つける。真っ直ぐに向けられていた、樺音の眼差し。真っ黒な二対の瞳から注がれるそれは、見上げる先の『夜』と同じ。深く、暗い。暗く、黒い。何処までも、何処までも、何処まででも・・・。
「・・・ありがとう」耳の奥に残る静寂と同じ声が、静かに紡いだ一言。簡潔にして深い、言葉どおりの想い。他に何の不純物もない、意思。
不思議なことに、俺はその時初めて──樺音の顔を、認識した。
前に立ったのだから、物の受け渡しをしたのだから、声を掛けたのだから・・・絶対に顔を視界に入れているはずなのに。たとえよく見えてなかったとしても、これだけ近いのだから見える方が自然なのに、何故か今の今まで視界に入らなかった顔を、その時になって効果音のように効果的に認識させられた。
手と同じ、小ぶりの白い面。広がる白に反発したかのような、二対の黒。唇は柔らかに赤く、頬にも微かな赤が滲んでいる。緩く結ばれた唇は、微かな振動に揺れていて。・・・でも、それだけ。それら、だけ。他には特徴らしい特徴なんてなく、探して見つかる他の特徴は、驚くほど特徴がないという特徴だけ。醜いわけじゃない。そうじゃない。そうじゃなくて・・・。
覚えているラルドの過剰な言葉に、決定的なほど呆れていただけ。
目の前にいる樺音は、醜いわけではないけど特別美しいわけでも、可愛らしいわけでもなかった。その白さや黒さ以外に特筆すべき特徴もないほど、普通の容姿をしているだけ。ラルドが告げた言葉に合った部分なんて、探せない。
曖昧な説明どころか、決定的に間違えている説明。少なくとも俺にはそうとしか思えない説明に、零れそうになる罵倒を飲み込むのは、目の前に当事者がいるからで。いくらなんでもそこまで失礼な人間にはなれずにどうにか飲み込んだ塊、大きいものを通した後の痛みを感じる喉を抱えてその平均的な顔を見つめていると、礼を言い終わった樺音は視線を胸元へ落とす。
胸元に両手で抱えられた、白い手紙に。
『大事じゃないけど大切な物だから』・・・ふいにもう一度聞こえた、リアの意味不明な言葉。でも、樺音の手つきを見ていると、大切、という単語だけはひしひしと伝わってくる気がした。丁寧な、丁寧な仕種。それが『大切』という事実を紛れもない事実として示す。
大切な、手紙。黒い瞳に映るのは、きっとその白だけ。やがて白だけを映した瞳を僅かに細めて、柔らかく結ばれた唇に、本当に、本当に・・・微かな、笑み。微かだけど、間違いなく浮かんでいる、笑み。
抑え切れずに洩れてしまった、そんな風情を持った笑みは、ラルドの馬鹿のような全開の笑みと違って、それだけは確かに可愛いかもしれないと、そんな風に思う。他の誰よりもとか、見たこともないくらいとか、そこまで大きなことを言う気はないけど、純粋に、何の含みもなく可愛いと。
だからだったのかもしれない。これで終わり、もう帰ってもいいはずなのに、引き返すこともなく、視線が合っているわけでもない相手に向かって、余計かもしれない声を掛けてしまったのは。
「あの、さ」掛けた声に再び跳ねた肩。中身を読んでいるわけでもないのに、大切に抱きかかえた白にどれだけ意識を集中させていたのだろう? それ以外の全てを意識の外に追い出すほどに、集中していたのだろうか?「ちょっと聞いてみたいんだけど・・・」疑問は、また重なった。重なってしまったから、もう黙ってはいられない。
「それ、なに?」
酷く間の抜けた声だと、他人事のように思った。間が抜けているうえに、力の抜けた声だと。出来ることならやり直したい、そう願うけど、勿論そんな事が叶うわけがない。だから仕方なく、その間の抜けたままの声でまた口を開く。
「渡せって言われたから渡しに来たんだけど、なに書いてあるのかなーって思ってさ」
「・・・知らない、のですか?」
「知らない。ラルドには、聞いてもいないし」
そこまでは順調だった。順調に、口から発することが出来ていた。でも軽く放り投げるようにその言葉を投げた後、それ以降の動きが全て別種のものへと移り変わる。視線は、どうしようもないほど絡んで。
突然、何故か樺音の顔色が変わっていった。白から、白の下で流れる血の色へ。浮かび上がる色の美しさに、声が出ない。赤、同じ色がこの身にも流れているはずなのに。
散らばる赤い花より薄い、鮮やかな赤。
染まるように広がって、伏せられる薄い瞼も微かに赤く、首筋に添って浮かぶ線も赤く。『たそがれ』に満ちた赤とは違う赤に、一瞬たりとも逸らせない視線。やがて震えながら開かれた、艶やかな赤に意識すらも奪われる。そこから覗く、真っ白な小石のように滑らかな歯、赤に染まらない白を見つけて。
「これ、は・・・」
動く、その様を見届けてから認識した。届けられた、微かな声を。届けられたその声を受け取ってから、届けられた声の意味を知った。形になった、言葉。耳に置き去りにされ、突き返すことも出来ずに『月』に乗るしかなくなる、言葉。言葉だけではその意味が分からないと知ったけど、知った時にはもう、聞き返すことすら出来なかった。その、意味を。
──よあけ、です。
せめて当てる漢字だけでも聞き返せばよかったと、何故か切実なほど、悔いてしまった。