long8-7

よあけが『夜明け』だと知ったのは、戻ってすぐのことだった。教えてくれたのは勿論リアで、ついでにまたあのはっきりしない笑みまでいただいてしまって、そろそろ物でも投げつけてやろうかと半ば真剣に考え始めて・・・でも結論が出せないまま、どうでもよくなってきてしまった。放り投げるような、諦め、妥協。投げ出して、けれど投げ出したはずの物が勝手に戻ってきたのはそれから十一日後のこと。

──再び、『太陽』が訪れた。

大した怪我じゃない、俺のその考え方が傲慢なのか、それともリアが大袈裟に包帯を巻いているだけなのか、とりあえず今だ解けない包帯を盾に、再び訪れた『岬』で待たされること数十分、あの時の繰り返しで『橋』は架かり、今度は促されることなく渡って・・・酷く呆気なく、足を踏み入れていた。
まだ見慣れぬ姿をした『太陽』。白すぎる光、青すぎる空、圧倒的な何かを感じて揺らぐ視界に、やっぱり見慣れない笑みを振り撒いて、ラルドは現れた。この間とは違い、探す様子すらなく真っ直ぐに近づいてきて、すぐ、前に。
「手紙、ありがとうなっ!」
あと二歩で衝突、そのぐらいの距離に立った途端に開かれた口は、止める間もなく大音量で想いの丈をぶつけてくる。許可もなく勝手に。当然、受け止める準備なんてないし、あってもしたくない。だから意識的無意識で一歩後ろに下がって、その仕種で迷惑だという意思を伝え・・・たつもりなのに、上手くいかなかったらしく、相変わらず全開の馬鹿っぽい笑みを広げたラルドは、ただ嬉しそうにしているばかりだ。
嬉しそうに、その嬉しさを押しつけるようにばら撒くばかり。
「ねぇ・・・」ばら撒かれた感情に触発されたわけではないけど、最近ずっと抱えている声がまた、零れた。「ちゃんと返事も受け取ったんだぜ!」零れた声に被さった、楽しげな声。自分の感情で一杯一杯になっていて、他者の存在を認識出来ないでいる様。それがたぶん、次の言葉を促したし、ラルドの溢れた感情で教えられた事実も、それに拍車を掛けた。
「あのさ、楽しそうなところ悪いんだけど、聞いてもいい? 返事貰ったってことは、つまり手紙をやり取りしてるわけ?」
「え? そりゃ、そうだろ?」
「いや、そんな当然みたい顔されても、知らないし。ってか、そんなこと、聞いてないし・・・まぁ、それもそうなんだけど、そもそもさぁ・・・」
「なに?」
「なんでアンタとあの樺音って子、手紙のやり取りなんかしてるの?」
大体、国も違うんだから普通にしてたら会わないでしょ? どうやって知り合ったの? 何かそんなにやり取りしなきゃいけないことがあるの?・・・切り出してしまえば、問いは切れ目なく続いた。元々、似たような問いは何回か相手は違えど、向けていた。でもその度に変な態度を取られたり意味不明な返事をされたりで、いい加減、我慢の限界だったのかもしれない。
難しい質問をしているつもりはないし、そんなに答え辛いものだとも思えないのに、何度も何度も思うように返事が戻らなければ、そろそろ腹ぐらい立ってくる。こっちは自業自得の部分もあるとはいえ、労力を払ってやっているのに。
自然、目つきが悪くなっていくのが自分でも分かった。睨みつける、一歩手前。・・・たぶん、流石にその雰囲気が伝わったのだと思う。今の今まで浮かれきった態度で笑うばかりだったラルドが、その笑みを浮かべたまま全ての筋肉を固定したから。強制的に時が止められて、唯一動くことを許されている瞼が二度、上下運動をしてから、明るい緑の瞳が救いを求めるように左右に二度、動く。
後ろめたさを感じているように、感じた後ろめたさを隠すように、隠した後ろめたさを覗き見るように、動く。
「あー・・・なんか、怒ってる?」何度か動いた後、恐る恐る、と表現するしかない弱々しさで、そっと差し出される問い。受け取ったのは、善意ではなくて興味ゆえ。「べつに怒ってるわけじゃないけど、ただ、誰もちゃんと説明しないから」不服そうな色を態と滲ませて突きつければ、確信どおりラルドは焦りを纏って小刻みに動く。左右に、何かを探して。でも探しているものは見つからない。見つからないから、動きは正面に固定される。つまり、俺の方を向いて固定。
絡む、視線。戸惑いなんて、初対面の瞬間以来だった。馬鹿っぽい笑みを浮かべた後は、ずっとその笑みのままだったから。それ以外の表情を忘れてきたみたいに。
「ねぇ、その手紙のやり取りって、結局、なに?」
少しだけ、形は変わっている。でも、二度目の問い。しかも僅かの間に繰り返された、それ。絡んでいる視線は、冗談みたいに見開かれた。緑に、青が映り込む。滲む青の中に、真っ白な光が差し込んで、単純な光の中に、見慣れたはずの見慣れない顔が映る。──鏡なんて、殆ど見ない。
「・・・初めは、さ」意識しないでいた事実を見て、意識を吸い寄せられているうちにその先から声が聞こえてきた。初めて聞く、声。突き刺すような、突き抜けるようなこの白い光と同じ声なのに、何か、柔らかなものを上から覆い被せたようにも聞こえる声は、今までで一番柔らかく聞こえた。「初めは、知り合いから貰った燗爛が気に入って、その気持ちを伝えようって思ったんだ」樺音が作ったんだよ、それ・・・ラルドは視線を俯かせながら、柔らかに、柔らかに言う。
「・・・ってか、なに? かんらんって」
「・・・それもかよ。火に門で、門の間が月で燗。で、言い方悪いけど爛れるって続けて燗爛」
「だから、なに?」
「見ただろ? 『夜』で燈を入れておく硝子みたいな箱・・・っていうか、入れ物のこと。『夜』では家にも道にもあるらしいし・・・樺音も持ってただろ?」
赤い花が、頭の片隅に咲いた。あの、小さな花が、ひらひらと。ささやかなあの花を咲かせていたのは樺音で、同じ花をラルドも持っている、ということか。「でも、燈を入れるものなんて『朝』には必要ないだろ? 何で持ってんの?」あの花は、きっと『夜』にしか咲かないのに。
「必要はないけどさ、人気はあるんだよ。『夜』の、なんていうか・・・工芸品みたいなの。綺麗だろ? それに行けない国の物だから、なんか、わくわくするし」
「そういうもの?」
「そういうもの! 俺、燗爛って他にも持ってるんだけど、彼女のは・・・なんていうか、派手じゃなくて、こうっ・・・清楚っていうの? そんな感じで、凄い、凄い良いなって思ったんだよ。だから・・・伝えたくて」
「なにを?」
「なにをって、だから感動したってのを!」
「なんで?」
「はぁっ? なんでって、なんで?」
「なんでって、なんでって、なんで? べつに、言う必要あんのよ? そんなこと。感動したのはアンタだろ? あの樺音って子じゃないじゃん。自分の感情、他人に伝えてもしかたがないだろ? 相手だって迷惑なんじゃないの? 意味、分からん」
「分かんないのはこっちだよ。ってか、もしかして彩って、スッゲェ、クールな人?」
「はぁ?」なに言ってんだコイツは・・・と、真剣に頭の中身を疑った。疑いようもないほど疑った。意味不明な行動を、さも当然かのように宣言するなんてどうかしているとしか思えない。でも、いつの間にやら目を閉じたラルドは、顔を上に、降り注ぐ光の元へ向ける。青と白だけの、あまりにもシンプルな空へ。「あのさ・・・」空へ顔を向けたまま何故か停止していたラルドは、やがて酷く慎重な声で切り出す。
それはまるで、草が生い茂る見通しの悪い場所を通るような、道が消えかかったその場所で、辛うじて見える道の面影を辿るような。誰かに、似ていた。誰に、と浮かぶ問いに、脳裏をよぎったのは一番近しい人の顔。リア。リアが、時折浮かべている表情。目覚めの、後の顔。
「何度かやり取りして、そのうち、燗爛の話からお互いの話になってさ、すっごい、話したんだ。話したって言うか、書いたって言うか」
「へぇ・・・」
「書いたし、書いてくれた。何枚も、何回も、やり取りしたんだ。全部、ちゃんと、とってある。貰った手紙。中身も、全部覚えてる。・・・燗爛に、燈も入れてみたんだ。部屋の中、なるべく暗くしてさ。オレンジの、優しい燈が洩れてさ、小さい花がその燈の中に浮かぶんだよ。花弁が、風に乗って舞ってるんだ。風に負けてるんじゃなくて、逆らってるわけでもなくて、なんか、静かに舞ってるって感じで・・・」赤い、花。燈に浮かぶあの花は、言われてみれば確かに『舞って』いたかもしれない。ラルドの、強い何かを感じる声。「じっと見てさ、手紙を書いて、返事を貰って、読んで。あの花みたいな子なんだなって・・・なんか、そんな感じになっちゃったわけ」上に向いていた顔は、下へ向く。理由は、知らない。
「そんな感じになっちゃったら、気がついちゃったんだよ。あぁ、女の子なんだなって。女の子・・・っていうか、女自体がいないから、なかなか自覚しなかったけどさ、とうとう、気づいちゃったわけ。で、気づいちゃったら、分かっちゃったわけ。『異性』ってヤツを意識してるんだって。そんでさ、分かっちゃったら、もう、駄目だったわけ。もう、駄目なわけ」
目の前で俯くラルドは、自分の爪先を見つめていて顔を上げない。聞こえる声は軽い口調なのに、一歩一歩道なき道を踏み締める確実さを持っているから、それが口調よりずっと真面目な話なのは感じられる。伝わってくる。だから、ふざける気はない。真面目な相手にふざけるほど、俺の根性は曲がってない。俺はリアとは違うから。
真面目に聞いているし、聞いてやりたいとも思う。ただ、残念なのは・・・残念、なのは・・・「あのさ、すっごい真面目に話してるところ、悪いんだけど・・・ゴメン、さっきから何言っているのか分かんない。結局、なんなの?」
一体、何回この類の問いを繰り返したのだろうか? 繰り返すたびに疑問が増えていく気がしながらも、それでも一つ、重ねた問い。相手がふざけていないから、それが分かるから、こっちも真面目に、何より真面目に向けた、それ。
ラルドは背後から不意打ちで力の限り殴られたみたいに、俯けていた顔を上げた。物凄い、勢い。目は瞼が裏返るのではないかと心配になるぐらい見開かれ、僅かに開かれた口は戦慄き、誰の説明も不要なくらいはっきりと、信じられない、という表情を顔に貼りつけて固まっている。呼吸すら、置き忘れて。
戦慄いていた唇が、何度か何かの形を作ろうと努力していたが、見えない圧倒的な弾圧に遭ったらしく、断念する。沈黙は、圧力に加勢する。事態がよく分からない俺は、一連の流れをぼんやりと眺める。分からないことばかりだから、放り出すように、ぼんやりと。
もしかしたら、本当に投げ出したのかも・・・そんな他人事みたいな予測が、脳の片隅に浮かんだ。あまりに分からないことばかりだから、どうでもよくなってしまったのかもしれない、と。
でもあと少し経てば本当にどうでもよくなったかもしれない疑問は、膨らんだ袋に穴が空いたみたいに急に消えた圧力の所為で、結局微妙に残ってしまう。残って、蒸し返されてしまう。再起動し始めた、ラルドによって。