long6-9

──あの、明け透けな単純さ、単純な純粋さに救われる惨めさを、一体、誰が知るだろう?

「途中まで、戻らない?」
教室まで、一緒に・・・という言葉を省略して茶月が誘えば、黒河からは静かな肯定が返ってきた。否定する理由がないから、もしくは、否定する方が面倒だからだろうが。
片手に書道道具一式を持って、並んで歩く廊下。さて、今度は何を探ろうかと、黒河にしてみればいい迷惑だろう茶月の考えは、すぐに見えてくる教室の存在にその行き先をなくす。
どうせ今、何かを質問したところで、話を中途半端なところで切らざるを得なくなるだろうと。だからこそ開いた茶月の口は、他愛無い話題を持ち出す。つい先ほどまで受けていた授業の内容、教師のセンス等を。
話している間にも動く足によって近づく教室、もう間もなく分岐点。少しだけ漂う名残惜しさは、きっと一方的なもの。ただその一方的な感情も長続きはしない。何故なら本当に分岐点に差し掛かった時、後ろから突然掛かる声があったから。
二人に、ではなくて、黒河だけに。
「黒河」
掛けられた声は一人に対してのものだったけれど、振り返ったのは二人とも同時だった。そして顔を向けた先には、二人にとって予想の範囲内の人物がひとりで立っていた。嵯峨圭。三人組の一人。茶月と同じクラスの、男子。
「嵯峨?」
黒河の小さな疑問符つきの返事に、嵯峨は何かを言いかけて・・・ふいに、その動きを止める。原因は、あまりにも明らかだ。嵯峨の目が、分かりやすく語っている。見開かれ、注がれる視線。驚きと戸惑いを浮かべた目。
語って曰く、何でこいつは黒河と一緒にいる? ・・・だが、目から零れた問いを、口から零すことはしなかった。その問いを飲み込むだけの判断力はちゃんとあるらしく。
「あのさ、帰り、今日は俺達がそっちに行くって言いたかっただけなんだけど・・・」
「ふぅん? でも何で急に?」
「・・・いや、諸事情で」
怪訝そうな黒河。確かに何の説明もなく急に言われたら、不思議に思うだろうと茶月も思う。いつも黒河が嵯峨達を迎えに教室へ来ているのは、茶月も観察しているので知っていた。
それが急に自分達が迎えに行くだなんて、驚くに決っている・・・かもしれないが、嵯峨の様子で、黒河は気づかないその理由が茶月には何となく分かる気がした。殊更視線が合わないように、それでいて完全に意識している、嵯峨。
茶月は嵯峨とは直接話したことはない。その話したことがない相手にこれだけ意識される理由が、不思議なほどあっさり思いついたのだ。たぶん、茶木だと。阿倍と関わりを持ちたくて、だからこそまずは黒河と関わりを持とうとしている茶木の存在を、嵯峨の方も意識しているとその様子だけで分かってしまった。
どうしてなのかは、茶月にも分からない。でも、その意識の方向が茶月には透けて見えるようだった。
きっと、茶木の様子を見に行きたいのだと。黒河に関わろうとしている、茶木を。
「まぁ、いいけど・・・じゃあ、席で待ってればいい?」
諸事情で、なんて言葉では当然納得出来ないだろうに、それでも黒河は頷いた。それに安堵する嵯峨と二人セットで眺めていると、茶月の頭の中には痴情のもつれ、という単語が浮かぶ。
しかしそれは流石に違うだろうと自分で自分に突っ込みを入れている間に、当事者の一人、黒河は「じゃあ」なんて軽い一言だけを残し、自分の教室に向かってしまう。
つまり、残されてしまった二人。漂う微妙な空気を、去って行った黒河は気づいていたのか、いないのか。気づかないから去ってしまったのか、気づいていて、それでも気にせず去ってしまったのか。
・・・茶月には何となく、どれも有り得る気がしていた。あの男は、大丈夫そうだと判断したことはあっさり見捨てるタイプな気がすると。ある意味において、無神経的な一面がありそうな予感。勿論、茶月には特に根拠なんてなかったのだが。
「・・・戻ろうか?」
置いてけぼりの微妙な空気の中、先に口を開いたのは嵯峨だった。初めて、掛けられた声。茶月に向けられた顔には、とりあえず作ってみました、といった感じの笑みが貼り付けられていて、そのあからさまな表情に茶木の下手な作り笑いを連想し、茶月は結構似ているのかもな、などと今更なことを思う。・・・今更な、ことを。
何処かしらかは似ているに決っているのに。断定的に茶月は思う。嵯峨も茶木も、たぶん、あの阿倍もこちら側じゃない、こちら側にいるとしたら、黒河だけだと。そして続けて思う。その黒河にしても、こちら側の別の場所にいる可能性が高いだろうけどと。
「次って、なんだっけ?」
「あー・・・現代社会ってヤツ」
「俺、あれ、先生が嫌いなんだけど。なんか、スッゲェ押し付けがましい」
「それ、分かる!」
並んですぐ傍の教室に向かって歩く間、茶月が持ちかけた無難な話題は思いもかけないほどの賛同を得る。ついさきほどまで困惑や諸々が含まれた感情を宿した目をしていたのに、高まった感情に駆逐されたのか、嵯峨の目には単純な明るさや嬉しさだけが宿っていた。
純粋な、単純さ。こんなところも茶木に似ているなと、茶月はそんなことを考えながら教室に入って・・・すぐに気がついた。まるで待ち構えていたかのような視線が、すぐ傍を通り過ぎるのを。
そしてその視線が色を、感情を染め替えてすぐに我が身に突き刺さったのを。
一体誰の視線なのか、そんなことは欠片も考えなかった。考える必要なんてない。それほどに、自明。それほどに、明快。茶月にとっては、あまりにも・・・。発信源は、一人の女子。全ての始まり、阿倍あづさだ。
阿倍は、教室に嵯峨が戻ってくるのを待っていたのだろう。それでようやくその姿が見えたのに、嵯峨は一人ではなく、大して関わり合いがないはずのクラスメイトと一緒。しかも、何故か嵯峨は楽しそうな顔をしている。
たぶん、この辺りの理由がその視線の意味だろう。
黒河と共にいる茶月を目撃して、込み上げる感情を宿していた嵯峨と同じそれに、けれど茶月は、はっきりとした違いを感じた。困惑や戸惑いが強かった嵯峨の眼差しとは違い、阿倍が浮かべているそれは、強い攻撃性を持っている。
しかし嵯峨とは違うそれは、根本的にはとても良く似た視線だった。他人に対する拒絶。お互いだけしか存在しないと決めているかのような、それ以外は異物でしかないと言わんばかりの、眼差し。
この二人のことを聞こうとした際、黒河が示す態度も似たような意味合いのものだろうと察しながら、茶月は嵯峨にだけ簡単に声をかけ、ゆっくりとその傍を離れた。嵯峨の傍に茶月がいることに嫌そうな態度を示す阿倍。茶月としてはその敵意を向けられたいわけではないから。
席に戻り、また後ろから眺める二人は、茶月の目には授業中に合図を送り合う時と同じに見えた。先ほどまでの時間なんて、存在しないかのように。・・・つまりは、その前までの時間に戻った、ということ。
考えがそこまで辿り着くと、見つめる先の二つの姿、そして今はないもう一つの姿を合わせて、漠然としたイメージが茶月の中に浮かび始める。閉じられた円のイメージ、異物を排除する排他的なイメージ。
ただの、イメージ。でも、根拠がないわけではない。それは、茶月が自分の目で実際に目の当たりにしたからこそ、断言出来る。
程度の差はあったけれど、三人ともがそれぞれ、他の人間が関わる瞬間に滲ませる態度と眼差し。
再び始まる退屈な授業。一応、と注訳がつきそうな静けさ。眠気を誘う教師の呪文。その呪文に屈しなかった生徒達が奏でる、シャープペンの合奏。間に挟んだ一人を無視して交わされる、限界より溢れそうな親しげな眼差しと合図。その他の全てをおざなりにして、その眼差しと合図を観賞している茶月。
三人の関係性はいまだに謎。謎なのに、面白いと茶月は思う。思う、けれど、分からない。分からない、けれど・・・ただ、全く分からないわけでもないと思い始めている自分自身に、茶月は気づかないわけにはいかなかった。
気持ちは、分かる。少なくとも、特定の気持ちだけは分かると茶月は思う。三人以外の誰かが近づく時に見せる彼らの態度の意味は、その気持ちだけは。
それはきっと、とても単純で、けれど高校生にもなって口に出すにはとても勇気が必要な、とても強くて、正直な思い。
それはとても良く分かる。分かると、思う。少なくとも、茶月英士という人間には。思うから・・・じっと見つめているうちに、茶月は身体のどこか奥底から温かな塊のようなものが生まれてくるのを感じた。生まれ、込み上げ、喉元で押し詰まるのを。
茶月は優しさだと、自惚れるつもりはなかった。同情心だと、傲慢になるつもりもなかった。茶月にとってそれは、強いて言うなら穏やかな自己保身の気持ちというのが一番近かったのかもしれない。自分を守る為だけの感情。
決して美しいわけではないが、偽善がない分、一番強くて純粋な気持ち。自分の為に、誰かを擁護する時の気持ちに似ているのかもしれない。もしくは・・・、

もしくは、大切なモノをなくす前に壊してしまいたいと願うような。

茶木の顔が、一瞬だけ茶月の目の前をよぎった。今の茶木ではない。昔の、茶月と出会ったばかりの頃の茶木の顔。今より幼いその顔を、輝くような笑顔を、薄暗い客席から眺めるように思い出す。その時の感情とともに。
再び響く、終礼。終わりを告げるそれに、押さえつけられていた喧騒は一斉に目を覚ます。追い立てられるように出て行く教師、入れ替わりに入ってくる担任。無言のまま急かす空気に諦め、担任は簡単な連絡事項だけを告げ始め、最後の言葉が消える直前に掛けられる、終わりの号令。
軍隊より規則正しく、掛けられた号令に従って、皆、一斉に縛られた時間と空間からの開放を得る。
その解放に、茶月の足が意志を持って動く。胸の内には思い出した感情と、たった一つの疑問が同居する。黒河は・・・一体、どう思ったのだろう、という疑問。
「隣、行くの?」
前のドアから廊下に出た二人を追って掛けた茶月の声。話が通じやすいだろう嵯峨の方へ向けて掛けられたそれに、驚いたのか少し大袈裟な仕種で二人揃って振り返る。目を見開いた二人のうち、茶月の狙い通り、嵯峨はすぐに状況を理解したのか、驚きを顔に留めたまま、無言で頷く。
その隣では、同じく無言のまま、少しだけきつくなった眼差しを茶月に向けてくる阿倍の姿。きっと、もっと強く鋭い眼差しに、茶木は興味を惹かれているのだろう。
注がれる眼差しに、茶月は胸の内で疑問を重ねる。初めて会った時から、好意的に思っていたのだろうかと。初めて会った時から、一歩下がって傍にいたのだろうかと。そう在ろうと思ったのだろうかと。
茶月は、叶うなら聞いてみたかった。いつかで、いいから。茶木と出会った時の感情。あの感情と似ているのか、それとも全然違うのかを、茶月は確かめてみたい気がしていたから。
初めて茶月が茶木に会ったあの時、茶木に対して抱いた感情の中に好意的なものが一つも含まれていなかったことを、茶木はずっと知らずに、気づかずにいる。
「あの・・・」
止まってしまった足。掛けられた、戸惑いを含んだ声。その声に出来る限り自然な笑みを浮かべて横を追い越しながら茶月が返す答えは、声を掛けた時から決っていた。
「俺も、隣に迎えに行くんだ」
止まっている足を視線で促して、先導するように一歩前を歩きながらの答え。でも、答えとは違う本当の目的を、嵯峨が気づくことはない。
考えてみると、茶月は少しだけ笑いたいような気持ちになる。しかし込み上げるそれを飲み込んで歩けば、目的地はすぐ目の前。丁度こちらも解放時間らしく、次々と出てくる生徒の波。掻い潜って中を覗いてみれば、並んで座っている茶木と黒河の二人を発見する。
並んで、二人で話している姿を。いや、二人で話している姿ではなく、茶木が一方的に話しかけて、それに一応耳を傾けている黒河の姿か。
「茶木」
掛けた声に、反応する気配が前方で二つ。茶月の視線の先では茶木と、つられて黒河が振り向いて、茶木の表情にはあからさまな驚きが、黒河の表情には微かな驚きが滲む。二人とも視線は茶月の後ろに向いているから、嵯峨と阿倍を見て驚いているのだろう。
つまり、何故この組合せでこの場所にいるのか、ということか。
こうなるだろうと分かっていたので、茶月は特別何かを言うこともせず、視線だけで茶木に返事を促す。すると隣の黒河に声を掛け、半ば強引に腕を掴んでその黒河を引っ張りながら向かってきた茶木の目には、はっきりとした感情が浮かんでいた。
強い、期待の色が。
その視線が背後の二人に向いているのだから、一体何を期待しているのか、茶月には分かりすぎるほど分かっていた。茶月の背後には茶木のお目当てがいるのだから、期待くらいはするだろう。
期待して、期待して・・・だから茶木は気づかない。気づけない。半ば無理やり引き摺ってきた黒河が今、どんな色をその黒い瞳に浮かべているのかを。背後の二人が、どんな感情を抱いているのかも。
背を向けている茶月にすら、分かるのに。
輝く眼差しをまともに直視しながら、茶月は馬鹿だなと出会って以来三桁ぐらいに上る感想をまた、抱く。馬鹿だなぁ、本当に馬鹿だなぁと。どうして気づかないでいられるのか、茶月は呆れるのと同時に、ここまでくると感嘆せずにはいられない
ただ、その愚かしさに茶月が救われているのは事実で、同じだけ救いがないと感じているのもまた、事実だった。事実ではあったが、今はそのどちらも茶月には関係がない。少なくとも、まだ、関係しない。関係しないと、茶月は決めている。
「帰ろう」
いつも通りの単語。それに茶木は嬉しげに首を上下に振る。それから犬が餌を期待するかのように、次の言葉を待ち侘びて。決めていた言葉、茶月が形にしようと開いた口は、役目を果たす前に一度、その動きを止める。
「嵯峨、阿倍、帰るんだよな?」
よく通る声。黒河の声は、口調と同じで切れが良くて明瞭だ。不要なもの、望まぬものを寄せつけない断定的なそれに、背後の二人が気づいたかどうかは、今度は茶月には分からなかった。勿論、黒河の隣にいる鈍い茶木は気づかない。
でも、気づいた。茶木が気づかずとも、茶木に向けた言葉だろうとも、茶木の代わりに茶月は、気づいてしまった。
気づいて、表情が変わりそうになる。笑い出しそうだったのか、それとも微笑みでも浮かびそうだったのか。どちらなのかは茶月自身、分からない。分かる前に、押さえ込んだから。
そして押さえ込んで形にしなかった表情の代わりに、さきほど口にしそびれた言葉を形にする。
初めから、決めていた言葉。
「三人で帰るの?」
向けるのは、すぐ目の前まで迫った黒河へ。レンズ越しの目は、レンズを通している所為ではなく、大きく開かれる。無言のまま縦に振られる首、相変わらず零れ落ちそうな期待を押し込めた目を向ける茶木、声にならない力を込めた眼差しが茶月の背中にも二対。
茶月の視線は、黒河から離れない。黒河が、離さないのと同じように。離さないで口にすることが、たぶん、とても重要だと二人ともが察していたのだ。
「俺達も、今から帰るところなんだ」押し込めたはずの笑みが、茶月の顔の表層に滲む。それはしかたがないことだった。茶月にとって、こんなに楽しいこと、ここ最近はなかったのだから。
「じゃあ・・・」
でも、きっと増える、これから、楽しいことが。それは予感でもなんでもない、茶月が抱いた決定的な確信。

「じゃあ、またね」