「じゃあ、またね」
小さく軽く、茶月が振った手。黒河に向けて、それからゆっくりと振り返って、後ろにいた嵯峨と、その隣に立っていた阿倍にも軽く振った。すると中途半端な表情で固まっていた嵯峨は、我に返って手を振り返し、おぉ、だか、あぁ、だか、口の中だけの返事をする。
阿倍の方はといえば、微かに寄せている眉間の皺を解くことなく、手を振り返すこともなく、じっと茶月を見つめている。
そんな二人、それぞれの態度を気にすることなく茶月が向き直り、改めて視線を向けた先では、茶木が口を微かに開けた間抜け面で生命維持活動以外の全ての動きを放棄している。そして愉快なくらい間抜けなその茶木の隣で、黒河は・・・。
「・・・また」
また明日、とは茶月も黒河も、お互い、言わない。選択授業以外で会うことなんてないのが前提の間柄。だから黒河もそれだけを口にして、呆然としている茶木の横からゆっくりと離れ、やがて茶月のすぐ傍を通る。嵯峨と阿倍の傍に向かう為に。
真横を通り過ぎるその瞬間、茶月が確かに見たのは、初めて見る、無防備な素の表情。ほんの一瞬だったが、剥がれた『いつもの表情』の下から見えるそれは、一瞬で充分なほど印象的で。
軽く瞑った瞼に滲む、安堵に似たそれ。
通り過ぎて、促す仕種で前を歩かせた嵯峨と阿倍の一歩後ろを歩く黒河の表情は、もう見えない。見送る形を取った為、歩き出すタイミングを敢えて失った茶月の視界の先から三人の後姿が消えるまで、その誰一人として振り返ることはなかったから。
勿論、黒河も。
その後姿が見えなくなるまでの短い間、実際より長く感じる時間の中で、頭をよぎるあの表情と、どうあっても一歩下がった位置で歩こうとする在り方に自分の思考が堕ちるのを、茶月には止めることが出来ない。考えてしまう、どうしても。
──もしかしたら、黒河は嵯峨と阿倍という登場人物が出てくる舞台の、裏方なのかもしれない。
そっと背後から支えて、決して表には出ない。二人が好きで、二人が演じる舞台が好きで、だから二人の手伝いをするだけで、二人の間に加わることがない。あれだけ徹底した態度を見ると、茶月にはそんな気がして仕方がなくて。
もしそうだとするなら、黒河稔という人物は、逆側の人種ということだ。茶月は決定的に、そう思う。この、茶月英士という人間の、逆側だと。あの二人の舞台を眺めているのは同じで、でも立っている位置は反対側の袖。
だから・・・見える劇も、同じ題目なのに何かが違う。
同じものを、見ることは出来ない。それは誰だってそうなのかもしれないけれど。
お互い傍観者。いや、あっちは裏方で関わっているから、登場人物ではなくとも、傍観者ではないのかと考え直す。傍観者は、自分ひとりだと。
「さーつきっ! おっまえ、どーして気が利かないんだよっ!」
完全に三人の姿が失われて、周囲にも人がいなくなった。そんな中で掛けられたのは、冗談めかしてはいるがそれでも充分に恨みがましい茶木の声。伸びてきた両手は茶月の左の腕に縋りつき、泣き真似を混じえながら切々と訴えてくる。
どうしてあの時、一緒に帰ろうと誘ってくれなかったのだと。
「せめて校門まででもいいから、一緒に帰りたかったのに・・・」
情けない声と顔で続けられるそれに、何と答えようかと茶月はほんの数秒、迷ったのだが、結局面倒になって適当に誤魔化してしまうことにした。まだそんなに親しくもないのに誘えないと。
すると自分も誘えていない、そんな後ろめたさを示した茶木は、おかしな唸り声を上げた後、またもや泣き真似に戻る。意外とボキャブラリーがないから、最後は泣き真似しかないんだよな、等と茶月は茶木が知ったら今度は真面目に泣き出しそうなことを考えながら、考えに考えを重ねる。視線に、思考を重ねる。
去って行った、一つの舞台を思い出しながら、思う。
あの舞台では、袖で眺める傍観者にすぎない自分。でも、ここでは・・・この舞台では、違う役割を持っているのだと。傍観者ではなく、登場人物。舞台の上に立つ、一人の役者。
そしてこの舞台には、茶月の他にもう一人、登場人物がいる。もう一人だけ、登場人物がいる。勿論、茶木だ。この舞台は、二人だけで作られている舞台で、だから登場人物も二人で・・・それなのにもう一人の登場人物は、自覚なくすぐに他の舞台に首を突っ込もうとする。茶月にはそう感じられてならない。
突っ込んで、この舞台を蔑ろにすると。放ったらかしにすると。
放ったらかしに、する。
「あーあ、せっかくのチャンスだったのに・・・」
「まぁでも、俺のチャンスではないし」
「なんだよっ、薄情な奴だな・・・って、そういやさ、黒河と知り合いになったの?」
「っていうか、俺、選択一緒」
「えっ? 聞いてないんですけどー!」
「特に言ってないから。つーか、そろそろ帰ろう。いつまでもここに居てもしかたないだろ」
「・・・そりゃ、そうだけど。出来たらさっき、あの三人に混ざって帰りたかったんだって」
ぐだぐだと続く愚痴をざくざく切って、意図的に止めていた足の動きを再開させれば、切ったはずの愚痴が再び登場し、鬱陶しく辺りを取り巻いたけれど・・・大して力もないそれを、茶月は目を瞑って通り過ぎる。
慌ててついてくる茶木の気配を斜め後ろに感じながら、ふいに胸に突き上げてきた感情が口から零れないように、茶月は力一杯、飲み下す。茶木には、茶木にだけは気づかれないように。
突き上げてきた感情を腹の底に埋めて、一心に、それこそ祈りに等しく茶月は思う。強く、強く、思う。
──痛い目に遭えばいい。
「茶月?」
「・・・ん? なに?」
「いや、急に黙るからさー、どうかした?」
「なんでもない」
隣に並んだ茶木から掛けられた声に『普通』の声で茶月が応えれば、何の疑いもなくあっさり納得した茶木は、長閑な口調でまた阿倍への思いと接近計画を話し出す。他愛無いその話に、茶月が返すのは相槌と突っ込みで、返されたそれにやはり長閑に茶木は笑う。
茶木は、笑う。
これもまた、茶月英士と茶木勇志の違いだと茶月が他人事のように思いながら履き替えた靴で踏み出せば、外はもう、すぐ真上の空まで赤い色が差し迫っている。作り物みたいにはっきりした色の、赤が。
・・・みたい、ではなく、本当に全部、作り物なのかもしれないと、そんな事を思いながら茶月が辿る家路は、近くて遠い。茶月だけに、近くて、遠い。ただ、いくら近かろうと、また遠かろうと、今はまだ、隣に茶木がいて。同じ舞台に、茶木は立っていて。
黒河ほどではなくとも、この舞台を自分もまた、好きなんだろなと、隣に立つ茶木を横目で窺いながら改めて、茶月は自覚する。自覚して、だからこそまた改めて強く、思った。
──痛い目に、遭えばいい。
時として平気でこの舞台を放置する茶木に対して、強く、強く。そんな事を知らずに能天気に笑う茶木に、強く、強く、強く。
ただ、それだけを強く思って、茶月はその横顔に笑いかけた。