long6-11

嫌な奴らじゃない・・・それはかなり初めの頃からの嵯峨の認識で、今も全く変わっていなかった。ひとりはごく普通に明るいし、もう一人はどことなく、黒河に似ている気がしていたので、親近感すら湧くのではないかとすら思っていた。
思っていた、けれど。
それでも一緒ではないと決定的になった瞬間、本当にどうしようもないほど嵯峨はほっとしてしまったのだ。全身から力が抜け出て、全てが安堵だけの存在に成り果てそうなほどに。
ずっと繰り返している日常が、三人での登下校が、まだ守られている。たったそれだけの現実が、嵯峨にとっては果てしないほど大切で、揺ぎ無いほどの安心感を得るものだった。隣に阿倍がいて、少し後ろに黒河がいる。くだらない話、真剣な話、言葉にならない話を阿倍として、阿倍と二人で躓きそうになる時、進み方が分からない時には後ろから黒河が手助けしてくれる。そんな、繰り返し。繰り返し重なる、日常。これが壊れることを、少しでも変化することを何より畏れている自分を、嵯峨は何度でも見つける。見つける度に、何度でも思う。
小学生の頃からちっとも成長していない、嵯峨勇志という弱い、弱い人間を。
成長したい、強くなりたい、願う気持ちはあるのに、その気持ちよりもっと強く変わりたくない、怖い、という気持ちがありすぎて、嵯峨はずっとあの時のままでいる。あの時のままでいることを、許してしまう。
・・・もしかしたら、許されてる、の間違いなのかもしれないって、思わなくもないけれどさ。
「どぉーして女って、どこに行っても同じこと言い出すんだと思う? 他に話題がないなら黙ってりゃいいのにさ。まるで黙ると息が吸えません、みたいにべらべらと。もう死ね、死んで息しなくてもいい身体になってしまえっつーの!」
「・・・阿倍、少しボリューム落として喋れ。俺ら、一応優等生的な括りに入ってるんだから、オマエのそのでかくて柄の悪い喋りが浮くんだって」
「そうだな。じゃあ、離れていいか? ・・・二人から」
「なんで俺も含めて離れるんだよ?」
ドスドス、という表現がこの上なく似合うほど荒々しい歩き方をしている阿倍は、確かに離れたくなるほど目立つ。というか、恥かしい。それがまた、いかにも真面目な外見をしているから余計に目立って恥かしく、黒河の気持ちは嵯峨にもとても良く分かったのだが・・・その恥かしい阿倍と二人っきりにしないでほしいとも思う。
声に言葉以上の訴えを滲ませれば、すぐ後ろから零れて足元に横たわるのは軽い溜息で、他の誰の溜息を聞いても感じない感情を、嵯峨はいつだって黒河の溜息にだけは感じる。許されている予感。その予感が齎す、安堵。この安堵に、あの時からずっとしがみついていると嵯峨は知っていた。・・・たぶん、阿倍と二人で、しがみついていると。
一人の人間に二人の人間がしがみつく、この傲慢な行為に免罪符があるとするならば、それは先に手を差し伸べたのは黒河の方だという、ただ一点のみ。それを抜かせば、二人揃って何の言い訳も出来ないと、嵯峨にはその自覚があった。
「・・・ったく、マジ、腹立つ。口を開けば付き合ってるだのなんだの。盛り上がるのは勝手だけど、他人を巻き込むなっての」
「・・・また?」
「そうっ、また!」
「え? いつ?」
「死ね!」
「なんでだよ!」
荒げた声での、嵯峨の突っ込み。すぐに聞こえてくるのは、黒河の溜息。それから荒々しい阿倍の足音。ただ、それはこれがみよがしに響かせている足音で、何故、阿倍が怒っているのかは下手な説明よりはっきりと分かった。女子同士の、いつもの探り合い。懐に勝手に手を突っ込んではかき回し、跳ねつければ延々と続く、遠回しで陰湿な嫌がらせめいた数々の行為。
面倒だと思うなら、適度に受け答えをして流すしかないが、適度に受け答えをすること自体が面倒なのだから、阿倍の苛立ちも簡単には冷めないだろう。小学校の頃からの繰り返しなら、尚更。おまけに、その腹立たしい時間の理由の一旦である存在が気づいていなかったのなら、尚更の尚更。
理由の一旦・・・つまり、嵯峨圭という存在。
「・・・まぁ、阿倍の怒りも分かるし、嵯峨が気づけなかったのも分かるけど、こればっかりは阿倍の所為でも嵯峨の所為でもないからさ」足取りが荒くなる一方の阿倍へ、頃合を見計らったかのようなタイミングで掛かる、黒河の淡々とした声。淡々としているのに、嵯峨も阿倍も、冷たいなんて感じたことも思ったこともない声。「悪いのは、話を振っておいて全然聞く気のない、意味不明な女子と一部の男子だろ」絶対的な決定のように断定する黒河の言葉ほど、安心する言葉はない。嵯峨にとっては阿倍の言葉より安心するし、同じことが阿倍にも言えた。

「親友って意味、知らない奴らだからしかたないかもしれないけどさ」

断定は、もう一度。嵯峨と阿倍がただの友達ではなく、『親友』という、特別な友達だと断定するのは、嵯峨達以外には黒河しかいない。どんなに声を大きくしても、両手両足を振り回しても、他の誰も信じたりはしない。信じては、くれない。
ましてや、断定なんて絶対に。
お互いではない、第三者の断定。それがどれだけ心強いものか、それにどれだけ支えられるものか、実感する者はきっと少ない。でも、嵯峨と阿倍は・・・あの時、心臓がその動きを放棄しそうなほど、思い知ったから。決して忘れ得ないほど強烈に、焼きついたから。だから、お互い以上に安堵していた。黒河の、その断定に。
「・・・そんな簡単なことも分からない奴らと、上辺だけの付き合い続けなきゃいけない自分が、滅茶苦茶可哀相って感じなんだけど」怒りは収まるのではなく、力ない諦めと嫌悪に変わる。どうにもならない理不尽さに、その理不尽さとまだ戦えない、無力さを突きつけられて。「ホント・・・あぁ、もう・・・」言葉にならない、溜息のような悪態。嵯峨の隣を歩く阿倍からは、意味のないその悪態が、コップの縁まで注がれた水が表面張力を失って零れるように、溢れてくる。
そして零れるそれを防ぐことも出来ないまま、嵯峨はただ、隣を見る。隣を歩く、阿倍を見る。阿倍の、横顔を見る。半目で前方を睨み、眉間に皺を寄せ、少しだけ唇を開いている、その、横顔を。
再び溜息を零して、その瞬間に軽く伏せられる、薄い瞼。空気を孕んだようにふっくらする、赤い唇。丸みを失いきれない、柔らかそうな白い頬。膨らみに掛かる、数本の黒い髪。
隣を歩く『親友』の横顔に、嵯峨が知らない少女を見かけるようになったのは、いつからだろう?
気がつけば時折見かける姿を今日も見かけて、見かけたと思った途端、失われるその姿に、部屋の隅に吹き溜まった埃が転がるイメージが思い浮かぶ理由は、嵯峨には想像もつかない。だから、阿倍にも黒河にも何も言えないままでいる。つい零れそうになる言葉を押さえつけ、いつだって別の言葉を探す。押さえつける理由すら、知らないのに。
「でも、小学校の頃より更にしつこくなってるんじゃない?」分からないことが多すぎるので、とりあえず話題転換。たぶん、そうだろうという予測を口にしながら、嵯峨の中にふと蘇るのは、与えられた囲いに守られ、何の心配も抱かないでいられた日々だった。長く続いた、その環境。
「絶対、今のクラス、分が悪い」隣から唐突に聞こえてきた断定は、嵯峨自身の口から零れる一歩手前だった言葉と同じもの。嵯峨と阿倍にとっては自明の理。どうしてと、誰かの襟を掴み上げて揺さぶりたいほど、納得がいかないこと。「ってか、どうしてクロだけ? ・・・って感じなんだけど」零れることのなかった言葉の代わりを嵯峨が零せば、今度は阿倍が何も言わずに何度も首を縦に振る。きっと、阿倍も言いたかった一言だったのだろう。二人にとってみれば、言わずにはいられない思い。──ずっと、一緒だったのに。
出会って、あの出来事を経てからは、三人、ずっとずっと一緒だった。殆どクラス替えをしない小学校ではあったが、それでも一度だけあったクラス替えでも同じクラスになったし、中学校への入学もあったのに、三人が分かれることなんてなかったのだ。勿論、中学校のクラス替えでも同じクラス。運命より強固な何らかの意志が、三人を頑丈に縛りつけてでもいるかのように。
それなのに、今回は分かれてしまった。尤も、ある意味、当然ではある。黒河が選んだのは情報処理課で、嵯峨と阿倍が選んだのは簿記課。選ぶ専攻が違うのだから、クラスだって違ってくる。だから当然ではあるのだが・・・初めから分かっていたことなのに、それでも嵯峨は思わずにはいられない。
実際にこの時間を過ごしてみて、初めて嵯峨は実感出来たのだ。黒河が足りない、という現実を。そして実感してしまえば訴えずにはいられなかったし、訴えてしまえばやはり気づかずにはいられなかった。自分があの頃と変わっていないこと、また、阿倍も全く変わっていないだろうことを。
でも、挫折に似た経験を重ねるたびに、嵯峨は何度でも思うのだ。
「・・・クロも簿記課にすればよかったに」嵯峨が洩らすそれに真っ先に反応するのは、勿論、阿倍だ。「そもそもなんで情報処理課? そういうのに興味あったの?」本当に今更の問い。訴えるなら、受験する前にするべきだったのに。
受験前は浮かれていて聞くのを忘れていたのだと、嵯峨は今更ながら、気づいていた。同じ高校を選んだのだから、また一緒にいられる、環境が変わることはない、そう信じ込んでいて、それ以上、何かを考えることが出来ない状態だったのだと。今、少し状況が落ち着いたからこそ問えるのだということも。
「興味があったっていうか・・・まぁ、多少は興味があったけど・・・」
「凄いあったわけじゃないなら、一緒に簿記にすればよかったじゃん」
「ん? あー・・・そうかもしれないけど、簿記、定数ギリギリだって話、聞いたから。それなら俺くらいは情報処理にしておこうかと思って」
「あれ? そうだったの? でもさ、クロひとりぐらいならなんとかなったんじゃない? やっぱり、クロも簿記にするべきだったんだって」
初めて聞く話に、嵯峨も阿倍も少しだけ驚いた。それぞれの課に定数があるのは知っていたのだが、簿記課がギリギリだなんて話、全然聞いていなかったから。むしろ定数ギリギリになるなら情報処理課だろうと、何故か二人揃って漠然と思っていたくらいだ。情報処理課が二クラスなのに対して、簿記課は四クラスもある。受かりやすいのは簿記課だろうと、二人は確かめもせず、勝手にそう、思っていた。
「・・・あ、そっか」
「嵯峨?」
「いや、違うから、気にすんな」
誰もがそう思うから、逆に簿記課に人が集中したのかと、あっさり辿り着いた結論に思わず洩らす、感嘆に似た声。黒河が不思議そうに見つめてきたが、その眼差しを嵯峨は首を振ってかわしつつ、それなら自分と阿倍が情報処理課にすれば良かったのかと、戻らない時間を、選択を今更ながらに悔いた。
無駄だなんてこと、嵯峨にも良く分かっている。でも、悔いずにはいられない。それはきっと、阿倍も同じで。
小学校と中学校、その頃と同じで在りたかった。全く同じで在りたかった。むしろもっと、いっそう同じになりたかった。僅かでも違ってしまうことは、嵯峨にとって恐怖でしかなかったのだ。
「・・・クロも、また一緒だったら良かったのに」
嵯峨は、心の底から、ただひたすらにそう思う。高校生にもなって、三人揃って仲良く一緒にと願うなんて、ちょっとどうかと思うのに・・・それでも嵯峨は恥かしげもなく、恥かしいと思う暇もなく、口にしていた。願う、その心をあっさりと。
すると広がる、一瞬の沈黙。その沈黙の中で、阿倍が言葉にすら出来ないほど、激しく同意してくれたのが嵯峨には分かった。自分の言葉を、圧倒的なまでに支持してくれているのが。だからこそ、幼稚なその言葉を恥かしいとは一欠けらも思わなかった。
むしろ嵯峨は、何か誇らしさに似たものすら感じていて。
「一緒の方が、良かったのに」もう一度重ねられる、嵯峨の言葉。重ねずにはいられなかった言葉に、初めに零れたのは気配だけの苦笑だった。勿論、黒河の。それから表情として広がっていった苦笑の中で、静かな声が聞こえてくる。
「・・・まぁ、俺も一緒の方が良かったけど」
「だろ?」
「でもしかたないって言えばしかたないから、しかたないよな」
「え?」

──二人、一緒にするだけで精一杯だったからさ。