──二人、一緒にするだけで精一杯だったからさ。
「だから、しかたない。贅沢は敵だし」
「クロ?」
「お前らが離れ離れになったら可哀相だと思ったから、俺が身を引いて二人を一緒にしてやったんだよ」
嵯峨が振り返って見た先では、黒河がおかしそうに笑っていた。阿倍の怪訝そうな声にすら、楽しげに。淡々とした態度を取ることが多い黒河にしては珍しく、はっきりと表現されたその態度に・・・目に見える楽しげな様子以上に、何か、別のモノを嵯峨は見つけた気がした。
でも、楽しげな黒河の笑みに、嵯峨は見つけた気がしたモノをすぐに見失う。見つけた、見かけた、そんな漠然とした印象だけを残して。
「早く帰ろう」珍しいその笑みをあっさりと消した黒河が、今までのやり取りなんて一瞬にして忘れたとでも言いたげにそう促してきたので、嵯峨は残された印象を追うことすら出来なかった。そうして促されるまま足を動かせば、確かに触れたはずの印象すらもう、見つからない。初めから、存在していなかったかのように。
嵯峨が歩きながら窺った阿倍の横顔に、同じ疑問が浮かんでいるのが見えた。・・・けれど、黒河が促すなら、嵯峨達に選択肢は存在しない。少なくとも、嵯峨自身はそう、信じている。だから、素直に従って。
掴まえられなかったモノが何であっても構わない。ただ、こうして三人で歩く時間が在り続ければいいと、逃げた印象より漠然と、広く、広く、嵯峨はそう、思っていた。
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仕方がない、だけで片付けたくない、
当たり前、だけで終わらせたくない、
面倒だ、だけで受け入れたくない、
いつか聞こえた、その悲痛な叫び。誰もが無視したその叫びは、無理解な人々によって踏み躙られた。痛みを齎すその行為を、止められなかったこと、今でも深く悔いています。何故なら・・・、
──そこに在る全ての人間に向かってその叫びを叩きつける姿を、他に代わるものがないほど、尊いと思っているからです。
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嵯峨だって、永遠に続くだなんて流石に思っていないが、終わりなんて想像もしていない日々の続きでしかない、朝。小学生時代のある時から始まった三人の習慣でもある、仲良し登校時間。定位置はいつも同じで、嵯峨の左に阿倍、一歩後ろに黒河。一番落ち着く、一番自然な位置で歩きながら、昨日の続きか明日の布石か分からないほど他愛無い会話を交わす。
三人の隙間から溢れ出るように際限なく続くそれに、気がつけば学校の敷地に一歩、足が入り込んでいて、一歩入り込めば当然のように二歩目も入り、二歩目が入れば三歩目も入る。囲まれた敷地内、解放が訪れるまでは囲われる世界の住人になる。
囲われた、そんな思いが嵯峨の胸をよぎって、その途端、唐突に昨日の記憶が思いの後を追いかける。本当に、唐突に。『二人、一緒にするだけで精一杯だったからさ』黒河の、珍しくはっきりした感情が奏でた、台詞。
結局、嵯峨には意味が分からず、問うことすら出来なかったそれを思い出して、思い出した途端に忘れていたことが嘘のように、酷く気になった。冗談でしかないはずの、その、意味。気になって、気になったと思った時にはもう口は開いていた。開いて、一度は失った問いを口にしようとしていた。『あれ、なに?』と。
それなのに、嵯峨は特に理由もなく、何故か出来ないと感じてしまった。その為、開いた口は本人の許可なく閉じ、口の中に用意していたはずの言葉は飲み込まれ、代わりに会話の流れに乗っていく。日常の心地好さに、流されていく。
どうしても気になるなら、今度、聞けばいい・・・そう、他の誰かに言い聞かされるように嵯峨が思ったのは、黒河だけが違う教室に向かって行った直後だった。後姿を視界の隅に納めながら、『今度』があると信じているからこそ、阿倍と教室へ向かう。隣同士の教室、そんなに離れるわけではないけれど。
「・・・やっぱり、クロも一緒ならよかったね」教室に入って、阿倍が自席に着き、鞄だけを机の上に置いた嵯峨がそのすぐ傍の壁に背を預けて立つ。これも、定位置。そしてその定位置に着いた途端に聞こえてきた声に、顔に苦笑を浮かべ、軽く頷くだけに留めて返す、嵯峨の同意。「だよな」嵯峨にそれ以外に返せる言葉なんて、あるはずもなく。
出来ることなら、やっぱりずっと三人一緒にいたい・・・嵯峨が願っているのは、たったそれだけなのに。
「でもよく考えたら、三人ずっと同じクラスってのも凄かったのかも」
「それは言えてる。小中一緒ってのはよくあるけど、小中クラスも一緒って、どんな裏工作だよって感じ」
「・・・だよな」
裏工作、その阿倍の一言に、嵯峨の中でまたあの黒河の冗談が思い起こされる。ただ、黒河がいない今、口に出すこともなく。「でも裏工作っぽくなってても、一緒なのが当たり前だったから、やっぱ変な感じ」阿倍が続けた言葉に、嵯峨はただ頷く。軽く、頷く。その実、強く、頷く。
ずっと一緒だったから、ずっと一緒だと信じた。その単純さを責められたなら、たぶん、嵯峨は反論の余地のないまま、反論する。オマエに何が分かる、と。俺達にだって、まだ何も分かっていないのにと。
「一緒にいないのって、いつ以来?」軽い問い。答えが分かっていて嵯峨に向けられる、問い。「俺達が騒ぎ起こして以来だろ」忘れようにも忘れられない答え。嵯峨がなるべくあっさり聞こえるように答えたそれに、阿倍が微かに笑う気配がした。
思い出し笑い。見下ろした先でその笑みを見つけると、自然と嵯峨の顔にも同じ笑みが浮かぶ。二人で起こした、今までで一番大きな騒ぎ。・・・に、なるはずだったのに、結局小さな騒ぎにすらならなかった、一晩の出来事。
思い出すだけで嫌なことが遠ざかる気がするほど、大切なそれ。知っているのは、当事者である嵯峨達以外には黒河だけで、知っている以上、黒河もまた、当事者なのかもしれないと、時々、嵯峨は思う。当事者であってほしいと、時々、願う。
嵯峨が何よりも感謝することがあるとするならば、あの時、砕いてもらった心が在ること。その欠片が今、嵯峨自身にも阿倍にも残っていて、そのおかげで嵯峨達は今もあの頃のように一緒にいられる。一緒に、いる。
「二年でクラス替えってあるんだっけ?」
「あっても簿記と情報じゃ、一緒になれないって」
「あー・・・そっか。じゃあ、選択揃えようぜ」
「それ、誰に合わせるんだよ? 習字は字が汚いから無理だし、音楽は黒河が絶対歌いたくないって嫌がるし、技術は面倒くさいから絶対嫌だって、黒河と私で意見が一致してるし」
「・・・それ、技術を選んでる俺に言う?」
「あんな面倒な授業選ぶ物好きに言わないで、誰に言うんだよ?」
呆れたような声と視線が、上目遣いとともに嵯峨に突きつけられる。阿倍との他愛無い会話の中で、偶に繰り出される攻撃。あまりに素早くて、ガードも出来ずにまともに喰らってしまった嵯峨は、軽くよろけて背を預けていた壁に頬も預ける。すると聞こえてくる、小さな阿倍の笑い声。
そして動いた嵯峨の視線が向いた、先。
教室の一番後ろ。姿勢良く座り、真っ直ぐに前を見据えている目。静かで頭の良さそうな眼差しに、嵯峨は、話題に上らせていた友人の姿を見ずにはいられない。視線が絡んで、すぐに微かに動揺する嵯峨とは違い、一欠けらも慌てずに浮かべられる、自然な笑み。おはよう、とか、朝に相応しい、それ。
──茶月英士。
黒河に似た雰囲気。昨日の帰りは、自然な流れで嵯峨達三人から離れてくれた。ある種の恩人のような、相手。絡んだ視線は、浮かべられた笑みと同じように、自然に外された。初めからタイミングを計っていたかのような、絶妙なタイミングで。
「圭? どうかした?」ふいに黙った嵯峨を心配して掛けられた声に、外されて自由になった視線を向けて、軽く左右に首を振りながら嵯峨は否定する。「べつに、なんでもない」でも、それだけでは不十分なのも分かっていたから、嵯峨の視線は彷徨う。何かないかと探して、彷徨う。
理由は、はっきりしないが、茶月の今の視線を、その存在を、嵯峨は阿倍に教えてはいけない気がしていた。阿倍の、外に対する攻撃性と、時として自分自身すらも攻撃してしまう姿が脳裏をよぎったから。だから、何かを探して。
嵯峨が見つけたのは、壁に当然のように掛かっていた時計。針が示す、時間。その意味が認識として形になった途端、探すまでもなくそこに在った理由を知る。
「一時間目って、男子、体育だったよね?」口にして感じる、周囲のざわめき。大きな鞄を持って身じろぎする、女子達。「あー・・・そっか。ってか、初っ端体育って、時間割、おかしくない? いや、男子が一時間目体育ってだけならまだいいんだけどさ、女子も次じゃん? それって絶対変だって」阿倍の悪態。嵯峨にも気持ちは分かった。阿倍ほどではないが、嵯峨も体育は苦手だったから。
「おかしいとは思うけど、どうしようもないだろ。つーか、阿倍も早く隣行かないと、男子だけになるぞ」
親切心で促したのに、微かに聞こえた気がする舌打ち。たぶん、嵯峨の気の所為ではない。嵯峨には確信があったのだが、機嫌が悪い時の阿倍に立ち向かう根性がなかったので、聞こえない振りをして。
「阿倍」
「分かってる」
もう一度、舌打ち。これみよがしのそれにやはり立ち向かわずにいると、阿倍が教科書や筆記道具一式を持って立ち上がる。女子の一時間目は・・・そろばんだ。
男子の着替えに巻き込まれないように出て行く阿倍が、軽く振る手。それに応えて嵯峨も軽く手を上げ、完全に阿倍の姿が見えなくなってから上げていた手を下ろし、ついでに洩れる、溜息。理由は分かっていた。嫌でも、嵯峨本人には分かっていた。
男子と女子がその性別だけで違う授業を受けるなんて、今までなかった。でも、今は体育の授業内容も違えば、校庭や体育館をのびのび使うという理由で、男子と女子で体育の時間もずらされている。違う性別の生徒が、同じ競技を同時に習うことはない。代わりに、隣のクラスと合同で行う。
たったこれだけの出来事を取り上げても、嵯峨は阿倍との違いを突きつけられているような気分になる。どれだけ違うと言われても同じだと思うのに、思い切れない気持ちを笑われているような気分にもなる。
殆ど誰にも認めてもらっていないのに、それでも『親友』という形を信じているのは何故なのだろうと、誰に問われるまでもなく、嵯峨は何度も自分で自分に問い掛けている。初めから答えが用意されている、問いを。