long6-13

「あのさ」分かりきった問いをまた繰り返して、嵯峨の意識は周囲から完全に離れていた。その所為で、大して大きくもないその声に、指先を机にぶつけるほど驚く。痛みより、いつの間にか近づいていた存在に意識が向くほどに。「悪い、驚かした?」穏やかでしか有りえないその声に、返事も出来ずただ首を横に振ることしか出来ないほどに。
「あのさ、一緒に行かない?」
僅かに浮かぶ、自然な笑み。穏やかな声で象ったその笑みを浮かべて嵯峨に誘いかけてきた茶月英士は、既にジャージに着替え、いつでも校庭に向える状態ですぐ隣に佇んでいた。手が勝手に始めた着替えの途中、中途半端な格好をしている嵯峨のすぐ隣に。着替え終わってないから先に行ってて・・・そういう台詞が嵯峨の頭の中で流れたのは、たぶん、茶月に対して微妙な感情があるからだった。態度を決めかねる感情。嫌う理由はよく探せば見つかりそうな程度で、好意的に接する必要性も同じくらいある、そんな状態。
だからとりあえず保留、そんな日本人的な曖昧な態度が言葉として嵯峨の頭の中を横切って、実際に形にしようとしたその時、茶月の口が再び動こうとするのが見えて・・・。「待ってるから」あっさりと、形にされてしまった。ほんの数秒、躊躇している間に。そして口にされてしまったら、もう駄目だった。女子ほどではなくとも、男子だってやむにやまれぬ付き合いというものがある。
「あー・・・じゃあ、ちょっと待ってて。すぐ着替えるから」
分かった、とも、一緒に行こう、とも答えられなかったのに、嵯峨はそれが前提かのような返事をしてしまう。これじゃあ、女子と変わらないなぁとか、でも女子よりはまだ全然マシのはずだよなぁとか、自分を慰めているかのような言葉を滔々と胸の中で垂れ流しつつ、嵯峨の手は軽やかに動いた。他人を待たせているのだから、動かさないわけにもいかない。
目的達成まで止めずに滑らかに軽やかに動かし続ければ、当然、着替えなんて単純な作業はすぐさま終わる。「ごめん、待たせた」待ってほしかったわけではないけど、一応、言ってみた謝罪。静かに待っていた茶月は、やはり静かに笑って、首を横に振る。
「俺がいきなり声、かけただけだから」
何の含みもない声、だった。・・・少なくとも、何か含みがあったとしても、嵯峨には感じられない声だった。それは印象どおり、黒河のさり気なさを思い起こさせ、重なる影に「行こう」と促されれば、嵯峨自身が呆気に取られるほど簡単に、首が縦に動く。
先に立って教室を出て行く茶月の後をついて行き、隣に並びながらそっと窺ったその横顔。顔立ちは全然違うのに、嵯峨の目からはやはり黒河に似ている気がした。聡明さ、という力が皮膚の下から滲み出ていて、振り翳すわけではないそのさり気ない力が齎す印象が、とても似ているのだ。
「今日って、また体力測定の続きだっけ?」
「あ、うん・・・確か、そうだったと思う。走り幅跳びとか、何とかメートル走とか、そういう、走る系のヤツって言ってたような・・・」
「そっか、そういえば、そう言ってた」
隣に並んで階段を下りながら、茶月が振ってくる話題はとても無難で、その無難さが、並んで歩く自分を気を遣ったものだと、嵯峨はそう感じた。自然に感じるが、その実、きちんと計算されていると。何も出来ずにもたついている他人の為に、気づき難いほど簡単にしてくれていると。
きっとこれだけ長く、近く黒河と一緒にいなければ、茶月のさり気ない行為を、意思を、嵯峨が気づくことはなかった。しかし同じようなさり気なさにずっと触れていたから、ずっと守られていたから、認識して数日程度なのに、嵯峨は茶月のさり気なさにも気づかずにはいられない。
「走るのって、得意?」俺、凄い遅いからタイムとか計らないでほしいんだけど・・・苦笑混じりの告白は、茶月から。「俺もあんまり速くないよ。走るの自体好きじゃないし・・・でもマラソンより短距離の方が、まだマシ」聞こえてきた告白に嵯峨も告白で返せば、微かな笑い声と同意が返される。その笑い方は、当然だけど黒河とは違っていて。
考えすぎなのかもしれないし、穿ちすぎなのかもしれない。臆病で情けなくて頭の悪い人間が、大してない頭で考えすぎているだけ。嵯峨はそうなのかもしれないとも思う。
女子ほど張りついたりしなくとも、男子だって教室で何かあった時、気軽に話が出来る相手がいれば学校生活は楽になる。そんな思いで、茶月は嵯峨に声を掛けてきただけなのかもしれない。きっと、その方が確率としては高い。嵯峨は、思う。強く、思う。黒河の友達だから声を掛けてきた、なんて理由よりは、ずっと、ずっとマシだと。
弱い心が、穿ちすぎる思考を続けているだけ。
そう思うのに、その思いを嵯峨は振り切れず、振り切れないまま靴を履き替えて、割り切れないまま二人で外へ出る。校舎の外は青空で、少し走れば砂埃が舞うし、もう少し走れば汗が流れて気持ちの悪い思いをするのがはっきりと予測される、快晴。日を遮る雲なんて、欠片も存在せずに。
「ここまで晴れてなくてもいいのに・・・つーか、絶対暑いよな、走ると」
「走らなくても、外にいるだけで暑くなるって。・・・って、なぁ、もう走っている奴ら、いない? チャイム、鳴ったっけ?」
「え? 鳴ってない・・・と思うけど、でも・・・走ってる、な?」
「もしかして、校庭に着いた奴らから走らせてるのかも?」
少し歩いた先、校庭で順番に走っている男子に気づいたのは、茶月の方が先だった。考え事をしていた所為もあって、茶月に言われるまで気づかなかった嵯峨だが、見てみれば確かに数人の男子が既に走っている。どうやらタイムも計っているらしく、つまり既に授業が始まっているように見えて。
予鈴は鳴っていないはずなのに、と改めて胸の内だけで嵯峨が自分に確認を取っていると、もっと現実的らしい茶月は、歩きながら校庭で既に走らされている生徒を目で確認していて。
「あ、いた」独り言のような呟きが前方を注視している茶月から零れたのは、急いで校庭に向かうべきかどうかを思案していた、その時だった。
何の前触れもなく、当然の事実を当然の形で告げるかのごとく、淡々と。

「茶木と・・・黒河、だ」

本当に簡単に、あるべきことをあるべきタイミングであるべき形にしたように口にするので、逆に何を言われたのか、数秒間、嵯峨には理解出来なかった。耳から入った言葉が脳に到達出来なかった、そんな感覚。
茶月がその眼差しで指し示す方向を追えば、映像として言葉の意味が示されていて、それでようやく、嵯峨は言われた言葉の意味を理解する。理解、させられる。・・・たぶん、したくなかったのに。
校庭の端。既に幅跳びのタイムを計った後なのか、黒河が脛にかかった砂を払いながら肩を軽く上下に動かして、息を整えている。そして・・・そのすぐ隣に茶木勇志がいて、黒河に何か、話しかけている。
嵯峨の目からは、茶木はどことなく楽しげに見えた。茶木勇志、嵯峨は話しかけたこともなければ、黒河との会話の中にその名が出てきたこともない。・・・が、ここ最近、嵯峨はどうしてもその存在を意識してしまう。意識して、心のどこかでその存在を疎ましく思ってしまう相手だった。
茶月と、とても仲が良い男子。嵯峨の目からは仲良く従っているように見えた茶木の様子に、胸をある種の予感が横切るのを感じた。一緒に隣へと誘われた、あの時に感じたものと同じそれが。
足は、主が何も指示をしなくてもその動きを忘れたことはなくて、きちんと動き続けていた。勿論、校庭へ向かって。つまり、黒河達へ向かって。向かう足と同様に嵯峨が向けていた視線の先では、溜息をつく黒河と、その黒河の背を軽く押している茶木の姿がある。楽しげな、楽しげな茶木勇志の姿。
「なんか、変な感じがするよね」ふいに聞こえてきた声が誰のものなのか、嵯峨には何故かすぐには分からない。何を言っているのかも、分からない。しかし分からないまま、嵯峨は続きを待った。待たずには、いられなかった。「変な気分っていうか、変に嫌な気分っていうか」変に嫌な気分・・・その言葉は、奇妙なほど鮮やかで。

「ずっと一緒の奴が別の奴といると、何で? ・・・って、そう、思わない?」

とても、とても力強い、断定的な声に聞こえた。しかもそれは外から聞こえた声ではなく、内側、つまり嵯峨自身の中から聞こえた声のようにも感じて。そんなわけがない、そう思うのに、その思いを肯定することが嵯峨には出来ず、どうしたら良いのかも分からないまま、視線は固定された前方からすぐ隣へと移る。
真っ直ぐに、自分を見つめている相手の元へと。
「・・・茶月、くん?」
「茶月でいいよ。どうしても君付けが良いってことなら、止めないけど」
微かな、笑み。それはさきほどまで見せてくれていた笑みとは違っていた。どこがどうとは説明出来ないが、嵯峨の目からは決定的なほど何かが違っていて・・・見なかったことにしたい、何故かそう願うのに、目を逸らすことが絶対に出来ないと確信するような、笑み。
優しい笑み、穏やかな笑み、静かな笑み、友好的な笑み、その、全て。・・・けれど、それだけではない、笑み。目の奥まで、笑みが染み込んでくる。染み出してくる。それなのに真っ直ぐに注がれる眼差しが、身体を突き抜けていきそうで。
判然としない直感が、嵯峨にあった。身体を突き抜けていったその眼差しに、黒河に似た、聡明で不純物が一切入ってなさそうな黒い瞳に、見られてしまったという、直感。隠していたものを、嵯峨自身にすら隠していた全てを見られたという、そんな確信めいた直感。どうしてなのかは分からずに、ただ、それでも嵯峨は、取り返しがつかないのだと、それだけを強く、強く悟った。悟って、しまった。

──決して、見たくなかったのに。