──決して、見たくなかったのに。
「一旦、並ぶみたいだよ」
「・・・え?」
「ほら、先生のところ」
切り替わる、会話。示される方向には体育の教師が号令を掛けている姿があって、整列するように指示している。歩き出す茶月にその動きで促され、隣を歩きながら・・・自分の目が、殆ど無意識に黒河を探していることに嵯峨は気がついた。そうするしかない、そう、言い聞かされたかのように。
探している時には、探し物は見つからない。一旦諦めた瞬間に見つかるのが世の常で、それは今回にも当て嵌まった。整列して、仕方なく退屈な教師の話を聞いているうちに、斜め前方にその姿を見つけたのだから。
黒河と、その後ろに並ぶ茶木の姿を。
暇なのか、しきりに教師の目を盗んで黒河に話し掛ける姿は、まるで同じクラスにいた頃の嵯峨自身の姿のようで、そう思った途端、嫌気が差した。自分の中に湧き上がる感情の意味を、嵯峨は知っていたから。知って、いたから。
「じゃあ、各自、幅跳びと五十メートル走、好きな方からタイムを計るように」やけに張りのある声が響き、響いた声が消えないうちに、生徒のざわめきが覆いだす。そしてそのざわめきの中、振り返る黒河と、茶木。何かを探すような仕種を見せる茶木と、すぐに嵯峨を見つける、黒河。見つけた途端、ゆっくりと嵯峨に向かって歩き出す、黒河。動き出した黒河によって、嵯峨と茶月に気づいたらしい、茶木。
選びたいと願うものは初めから決っていたのに、嵯峨の足は何故か動かなかったし、碌に物を考えることも出来なかった。でも、気配は感じた。後ろに並んでいた茶月が動く、気配を。
嵯峨の前に進んだ茶月は、やはり笑みを浮かべていた。あの、何も言えなくなるほど力ある、恐怖を思い起こさせるものではなくて、どちらかと言えば逆の、温かさだけを感じる笑み。何度も向けてくれている方の、笑み。嵯峨の戸惑いは、何に起因するものか。嵯峨には分からない。分かることなんて、一つもない。
ただ、また感じた直感は、許されたのだと、それだけを伝えてきていた。
ゆっくりとした動きを感じて、感じた後に、茶月が動く姿が嵯峨の脳で理解された。動き出す先は、近づいてくる二人。でも、嵯峨から離れていく直前、微かな声で届けられた一言で、向かっていく先、その意志が向けられた先が二人ではなく一人を対象としていると知らされる。
「ごめん」その、たった一言。
それだけだった。それだけで、嵯峨にとっては充分だった。向かっていく先を見届ける必要すらないほどに、それだけで充分すぎるほど伝わった。歩いていく茶月について行く必要がないことも、理解する。
理解どおりの現実は、すぐに訪れる。歩いていった茶月は、黒河に軽く笑いかけてからその横を通り過ぎ、目を見開いた茶木の腕を掴むと、多少強引な形で引っ張りだす。「幅跳び、終わったんだろ? 一緒に五十メートル走、行こうぜ」伝えられたとおりの意志が形になるのが、少しだけ離れた場所に見えた。何かを言いたげにする茶木と、それを無視して引っ張っていく茶月。離れていく二人の姿が、茶月の気遣いなのは間違いなく、ただ気遣いを完全に理解することは難しくて。
「幅跳び、行くんだろ?」
「あ・・・うん、行く。でもクロ、もうやったんだろ?」
「いいよ、終わるの待ってるから、その後、走ろう」
離れていった二人とは反対に、嵯峨の目の前まで近づいてきていた黒河が淡々とした口調で問い掛けて、もう既に用意されていた、希望通りの答えを口にすれば、おそらくこれも用意されていたのだろう答えが更に重ねられる。
重ねて、くれる。
そうして先に立って歩きだす黒河に、さしたる変化はない。茶月に連れ行かれた茶木にも、茶木を連れて行った茶月にも、何の興味もないかのように、一切話題に上げない。実際に跳んでみてどうだったのか、そんな幅跳びの感想や思いついたコツ等を言うだけで、興味どころか存在さえ忘れましたと言わんばかりに、淡々と。
嵯峨がついてくるのかどうかを確認すらしない黒河について行きながら、急激に込み上げてくるものを飲み込むことは難しかった。難しい、というか不可能だった。あまりにも、大きすぎて。
追いついて、隣に並んで、歩いて・・・嵯峨が窺う黒河の横顔は、いつもと変わらない。黒河を黒河と認識した時から変わらない。黒河を黒河と認識し続ける間、変わらないと信じ、願っている顔。
口を開こうとしている自分がとても弱いと、嵯峨は知っていた。
開かれていく口が、とても狡いと、知っていた。
──止める意思も意志も持てない理由が、とても強いことすらも。
「なぁ、クロ」
「ん?」
既に幅跳びの順番待ちをしている生徒や、飛んでいる生徒を眺めながら、順番待ちをしている生徒の後ろに並びもせずに掛けた声。並ばない俺を促すわけでもない黒河は、当たり前のように返事をする。尤も、黒河が当たり前のようではない返事をしたことなんて、嵯峨は聞いた覚えがないけれど。
嵯峨と阿倍、二人が普段の『真面目な生徒』ぶりが信じがたくなるようなことを仕出かした時ですら、当たり前のような態度で、当たり前のような返事をする人間で、だから・・・こういう時、どうしても嵯峨の口は開くのだ。それこそ、当たり前のように。
「クラスが離れてもさ・・・」
阿倍と三人で、今までどおりだよな?
「帰りとか、行きとか・・・色々、さ」
言葉にする誠実さが在るとするならば、言葉にする卑怯さ、狡さもある。特に、言葉にしなくても分かっていることを、言葉という形にして言質を取ろうする、卑怯さが。嵯峨にはそれが分かっていた。分かっていたから黒河の方を見れなくて、飛んでいく名前も知らない生徒ばかり見ていた。横顔に、はっきり感じる視線があったのに。
視線すら合わせない、弱さ。でも、もしも言い訳が許されるのだとしたら、こんな卑怯なことをする相手は黒河だけなのだと、何の言い訳にもなっていないことを、それでも主張させてほしいと嵯峨は切実に思う。あらゆる人間にするのではなく、黒河ただ一人に。だから一人だけ、許してほしいと。
自分が他人の言葉ですぐに揺らぐような弱い人間であると嵯峨は自覚しているし、恥じているが、進歩出来ないほど筋金入りのその弱さは簡単には克服出来ないと、気づいてもいた。・・・けれどあの時、その弱さに負けそうになっていた時、阿倍と二人並んでいる目の前で、黒河が当たり前のようにいてくれたあの時から、決めていることがあった。聞かずにいれないほど弱くても、その弱さが克服出来なくても、強く、強く決めていた。
──答えをくれるなら、全てを信じて、その一切を肯定すると。
決めている。決めると、決めている。だから問うことを許してほしいし、だから答えを与えてほしい。嵯峨は切実に、それだけを願っていた。与えられたその答えを、何よりも信じるからと。だから、だから、だから・・・答えを。
「嵯峨」
いつだって遮るものがなく聞こえてくる、黒河の声。この声に呼ばれて救われたことが、何度あっただろう? 嵯峨はふと、思う。阿倍と共に救われたことが、何度も、何度も。阿倍も、きっと決めている。並んで歩く時、いつだって嵯峨はそれを感じる。
同時に、阿倍に対しても同じ。阿倍に対しても嵯峨は決めているし、阿倍も嵯峨に対してきっと決めている。何一つ自信を持てない嵯峨は、それでもこれだけは自信を持てた。誰も許容することが出来ない自分達が、これだけは許容出来ると。
誰も許容出来なくても・・・いや、誰も許容出来ないからこそ、黒河と阿倍が形にしたものだけは──・・・一切を肯定する。
たとえ、黒河が何を考えているのか分からずとも。
たとえ、阿倍に知らない少女の姿を見かけたとしても。
彼らが一言、口にするのなら、一切を、そう、一切を肯定する。
「嵯峨、どうかした?」
「クロ」
「べつに、改まって聞くようなことでもないだろ。クラスが違うから時間が合わないこともあるかもしれないけど、でも・・・」
今までどおりじゃない理由なんて、どこにもないだろ。
「変なこと、聞くなよ。笑うだろ」
「・・・なんで笑うんだよ?」
「変すぎて、笑うんだよ」
肩を竦めた黒河に、嵯峨はようやく視線を向けることが出来た。嵯峨と黒河の視線が、絡む。真っ直ぐなその黒が、実際に何をどう思っているのかなんて嵯峨には分からないが、今、その黒河から答えを貰ったから・・・その奥を問うことも、疑うこともない。もう、ない。
答えを得たら、嵯峨にとってもうそれだけが肯定されるべき事実だから。
「それより、早く計ってこいよ」簡単に促してくる黒河のもっともな台詞に、素直に頷いて足を動かす。隣に並んでいた黒河から離れ、順番待ちの生徒達の最後尾に並んでから向けた嵯峨の視線の先では、黒河が変わらずにそこにいた。そこにいて、嵯峨が計り終わるのを待っていてくれた。
姿勢の良い姿に、疑いなんてない。ただ唯一、嵯峨が思うのは、あの姿を今、阿倍と一緒に見られないことが残念だということ、それだけだった。あとは──他の、余計な存在と並んでいる姿を見ないですむことへの安堵。
「次!」
順番どおり物事が進んでも、その順番を見守っていなければ順番なんてあってないようなもので、向けられた声に嵯峨は無様なくらい驚いてしまった。もう目の前に並んでいる者なんて、一人もいなかったというのに。
少しだけ慌てて、嵯峨はスタートラインに着く。数メートル先の砂場、その手前の踏み切りラインを確認し、測定係りになっている顔すら知らない男子を窺う。準備は整っていないが、嵯峨としてはべつに万全を期して計りたいわけじゃない。むしろ、どうでもいいとすら思っている。こんなこと、適当な数字さえ出ればそれで良いと。だから整っていない準備を訴えることなく、係りの男子の掲げられた片手が落ちていくのを見届けてから、走り出す。助走、少しずつ速度を上げて、踏み切りのタイミングを図る。下ばかり見て、少しだけ先を窺って。
嵯峨の利き足は、左。タイミングは辛うじて合い、踏み切りラインに左足の爪先が乗る。乗った直後、持てる力の半分以下ぐらいの力で踏み切って、前方の砂へ向けて跳ぶ。浮遊感、でも本当は跳ぶと評すほどではない、前進。踏み切った左足についてくるのが苦しげな右足。それでも、どうにか付き添って、砂の中へ。
爽快感なんて一欠けらも感じない跳躍。そんなご大層な表現をするのがおこがましいぐらいの、距離。靴の中に入った僅かな砂が気持ちが悪い、そんな感想しか嵯峨の中にはない。こんな意味がないことをしてどうするんだろう、きっとそんな疑問が砂の中に埋もれて、誰にも発掘されないまま、次に跳ぶ生徒にも踏みつけられる。決まりきった、未来のイメージしかない。
そんな感想やイメージを抱きながらも嵯峨が落としていた視線を上げたのは、勿論いつまでもそこに立ち尽くしているわけにはいかず、立ち尽くしていたいわけでもなかったからだった。でも顔を上げた先、離れた場所で行われている五十メートル走を見つけると、まるでセットのようにその姿を見つけてしまう。走り出す姿と、その姿を見守っている姿を。
嫌いじゃないし・・・嫌わなきゃいけないような奴らでもないんだけどな。
靴の中に入った砂に我慢して砂場から出ながら、嵯峨は改めてそう、自覚する。嫌うほど何かをされたわけではない、友好的な態度を示そうとしているだけだと分かっていたし、分かっていることも知っていると。
そしてその上で、自分達に関わってほしくないと願っていることも。
申し訳がないと、誰に対してだか分からない思いすら嵯峨の胸に浮かぶ。許容しない心を、拒絶している心を、すまないと。でも浮かんではいても、その気持ちに従う意思は嵯峨には微塵もない。微塵も、ないのだ。
──今のこの完璧な世界に、余分なモノは不要だから。
色々と不完全なこの世界は、限定された世界の中で比類ないほど完璧になってしまった。完璧に、作り上げてしまった。少なくとも嵯峨達三人の世界はそうで、その完璧な世界は、それだけで充分になってしまっている。そう、嵯峨は思わずにはいられない。だからその完璧さを少しでも崩しそうな要素を、嵯峨はどうしても受け入れられない。不純なモノは、受けつけたくない。
そんなモノ、もう、欲しくない。
「嵯峨」
「クロ・・・あの、さ・・・」
砂場から出て、嵯峨が真っ直ぐ黒河の元へ向かうと、待っていた黒河から静かな声が掛かる。その声に思わず応えて・・・その途端、一体何を言いたかったのかが嵯峨には分からなくなる。何か、大事で重いことを言おうとしていたはずなのに。
なくしてしまった言葉を探して数秒、嵯峨が視線を彷徨わせば、また視界の端に茶木と茶月、二人の姿を見つけてしまい、なくなったものを探すより他に、今はすべき事が他にある気がしてきて。
「・・・五十、計りに行こうか」
「そうだな」
やがては向かってくるだろう二人を避ける為に口にした言葉は、黒河の静かな声で肯定され、二人並べばすぐに足は肯定された方向へ向かう。何の、疑いもなく。一欠けらの、否定も含まず。
そうして並んで歩く間も、他愛無い会話を交わしながら嵯峨の視界には常にあの二人の姿が映り込んでいて、近づかないように、せめて今だけでも近づかないようにと微かな祈りを繰り返していた。それこそ、神経質なほどに。
どれだけ友好的だったとしても、受け入れたらこの世界がもっと素晴しくなるのだとしても、完璧に達した世界に、それ以上の変化を嵯峨が望むことはない。阿倍がいて、黒河がいて、それだけで充分だと知っているから。だから、だから嵯峨は・・・。
──どうか全てはこのままでと、ただ、それだけしか願えないままだった。