──ほんの僅かのズレや誤魔化しに、気づいていないわけじゃない。
でも、それがなんだって言うのか?
ズレていたとしても、誤魔化しを含んでいたとしても、それでも尚、望む姿を愚かだと、醜いとどうして言える? 誰しもが『皆は』と実体のない多数を上げて小さな声すら飲み込んでいるというのに、周りがどれだけ笑おうとも、それを信じようとする姿を何故笑える?
笑えるわけがない。嘲笑うなんて、とんでもない。
切実に願い、祈り、望む。
その、姿を・・・、
──痛切に、願い、祈り、そして、望む。
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窓の外の光景に、その意味を理解するより先に強く抱く感情を理解する人は、当事者である二人以外はいないし、きっと・・・女子では、一人もいない。少なくとも、理解してくれそうな女子に阿倍は会ったことがない。
同じ性別なのに、それぐらいこの世の中に存在する女子は自分とは違っていると、阿倍は感じる。
・・・自分を女だって主張する女なんて、皆、滅べばいいのに。
実技ではなく、そろばんの由来なんてこの先の人生に全く関係なさそうな話が延々と垂れ流されている最中、それを全て聞き流して阿倍が向けた窓の外、広々とした校庭には、ここにはいない男子が幾つかの種目のタイムを計っていた。
もう習性になっている仕種で阿倍が探せば、当然のように一緒にいる二人を見つけ、零れそうになる笑みに、窓際の席、その役得を改めて実感する。おまけに一番後ろの席なので、ある意味無敵だった。
男子を含めて名前の順に並べられたら有り得ない席も、女子だけの合同の順なら、こういう素敵な無敵も有り得るらしく、それだけは阿倍も素直に嬉しく思う。女子と男子を分ける授業があるという事実自体は、素直に嬉しくないし、腹立たしいと思ってはいたが。
それでもじっと、感じる腹立たしさを無視して硝子越しの世界を見つめれば、短距離のタイムを計る順番待ちでもしているらしい二人の姿に、徐々に波立っている感情が落ち着いてくるのを阿倍は感じた。同時に、別の感情が波立ち始めていたのだが。
聞こえない声で何かを楽しそうに話す嵯峨と、それにいちいち頷く黒河。頷いて、偶に何か返事でもしているらしい黒河と、少しだけ大袈裟な反応をしている嵯峨。順番待ちの列に並び、前後には他の男子。でも、二人だけ。会話を交わしているのは、二人だけ。他には、誰もいない。誰も、入っていない。
たった二人だけで会話を交わしているその姿に、阿倍は何より安心する。それだけが、何より嬉しい。嬉しい。嬉しい。何故なら阿倍は知っている。おそらく、あの二人よりずっと強く、知っている、思っている。──もう、これしかないのだと。
一番、悲観的なんだよね、たぶん。
二人に対して口にしたことはないが、それは阿倍の中で確実なことだった。三人の中で一番悲観的なのは間違いなく自分で、それに・・・一番、狡くて汚いのも、自分だと。だからこそ、自覚する度に嫌になる。この狡さも汚さも、阿倍は嵯峨と黒河には感じない。つまりは、女という性別が全ての元凶なのではないかと、疑わずにはいられないから。
・・・滅べ、死ね、消えちゃえ。
口にはしないで、何度も何度も、阿倍は呪詛のように繰り返す。向ける視線は前方、意味のない話を延々として、自分が持っている知識をひけらかすことだけに情熱を注いでいる教師という立場の者へ。自然、目つきが酷くなっていくのは感じていたのだが、阿倍は気にしない。どうせああいう屑はその視線すら気づかないと、経験上、確信しているそれに絶対の自信があったからだ。だから気にせず注げる。ありったけの、悪意を。
向ける先が間違っている、なんて、阿倍にはどうでもよかった。ただ、胸に巣食う悪意を吐き出す為に、その対象として誰かを必要としているだけで。必要としている時に、大抵前方にうってつけの人間がいるから向けるだけで。阿倍は、大人が嫌いなのではなかった。教師が嫌いなわけでもない。だからいつも彼らに悪意を向けているわけではない。そうではなくて、ただ・・・彼らも、嫌いなだけ。憎らしいだけ。腹立たしいだけ。他の全ての存在と同じように。
いつも通り段々と腹に溜まってくる悪意、その悪意と溶け合って、相乗効果で大きくなっていく怒り。何に対しての悪意か、何処から生まれた怒りか、既に阿倍自身にも分からなくなってしまっているそれをいつも通り育てて、破裂する可能性を回避する為に逸らした目。勿論、逃がした先は唯一の救い。悪意も怒りも、向ける必要なんてない、たった一つの、たった、二人の・・・その、はずだったのに。
いつの間に終わっていたのか、ばらばらだった男子が校庭の真ん中に固まって、教師の間違いなくどうでも良い話を聞いている、その並び。クラスごとの、並び。離された、二人。離れた二人のすぐ傍に在る、一人、一人。微かに響き始める終礼、ざわつく教室、揺らめく整列。
解けるように、生徒達は動き出す。まだ終礼の余韻が残る中を、各々が、各々の意思を持って。阿倍は、じっと見つめる。息すら止めて、見つめる。祈りにすら似た形で、見つめる。でも、神を信じない人間の祈りなんて、たとえ神という存在がいたとしても聞いてもらえるわけがない。
歩み寄ろうとした嵯峨と黒河。その嵯峨の傍にいて、嵯峨に一定の距離を保って声を掛けている、どことなく黒河に似た男子。本物の黒河の傍にいて、酷く馴れ馴れしい態度で声を掛けている男子。お互いに歩み寄る、そんな当たり前で簡単なことすらまだ果たせていない嵯峨と黒河。
収まるはずだった悪意と怒りが、瞬間的に、爆発的に、圧倒的に膨らみ、内部の全てを圧迫していくのを阿倍ははっきりと感じた。
──入って、来んなよ。
私達の間に、勝手に入ってくんな・・・阿倍は、強く、強く思う。入ってくるなんて、勝手に入るなんて、絶対に許さない、認めない、受け入れないと。強く、それだけを思わずにはいられなかった。
それしかないのにと、阿倍は信じていた。自分達には、それしかないのにと。自分には、それしかないのにと。だから見た。届けと願いながら、見た。視線に、全てを込めた。ありったけの、悪意を、怒りを。勿論、阿倍にだって分かっている。届くわけがない。届いたりなんて、しない。・・・はず、なのに。
振り返る、男子。まるで向けていた悪意に、怒りに、気づいたかのように。振り返り、仰ぎ見て、阿倍に向けられる・・・静かな、眼差し。間違いなく距離があるのに、それすら感じさせないほどはっきりとした、それ。
「阿倍さん」唐突に掛けられる、声。驚きは形にすらならず、跳ねた肩は無様なほど顕わ。釘付けになっていた硝子の先の世界から視線を引き剥がせば、阿倍のすぐ傍に立っていたのは、見かけたことがあるはずの見知らぬ女子の姿。「戻らないの? 教室。次、体育だから着替えないと」少しだけ微笑んで続けられるその言葉は、その続きを形にしないまま、続ける。だから、一緒に教室に戻って着替えようと。
余計なお世話、体育なのも着替えないといけないのも、教室に戻らないといけないのも、全部分かりきっていることなんだから、放っておいてくれればいいのに。そんな悪態めいた台詞が阿倍の中で瞬間的に浮かんで、脳裏を三回転したけれど、もう十数年『女子』という生き物をやらされている身としては、回転した台詞を形にしたら最後、とても面倒なことになると知っていた。だからもう一回転しそうなその台詞を、強引に口から一番遠い場所に引き剥がす。
「うん、ありがとう」
悪意と怒りが渦巻く腹の中に押し込めた台詞の代わりに阿倍が吐き出すのは、心にもない感謝を表現した台詞。一欠けらも有り難いなんて思っていないのに、言葉は思っていなくとも形になるのだから、便利なものだ。
思っていることは、簡単に形に出来ないのに。
「戻ろうよ」今度は、形にされた誘い。断る方が面倒で阿倍が軽く頷けば、何が楽しいのかとても楽しげに微笑まれる。楽しいことなんて、阿倍の方には一つもないのに。一つだって、ないのに。
ゆっくりと立ち上がり、机の上にばら撒いていた教科書、そろばん、筆記用具を一つに纏めて腕に抱え、待っている女子に並んで阿倍も計算室を出る。それから廊下を並んで歩き、どうでも良い・・・少なくとも、阿倍はどうでも良いと思っている会話を交わす。
誰が格好良いとか人気があるとか、昨日見たテレビの内容とか、そういう、阿倍が全く興味を持てない話。しかし阿倍から持ち出す話題なんてないので、必然的に阿倍は相手が持ち出してくるその全く興味の持てない話を聞く羽目になる。聞いて、反応をする羽目になる。女子は無反応に厳しいから、とりあえず反応しないわけにはいかないのだ。
しかもこの面倒さは、一度並んで歩き始めてしまった以上、教室に着いても尚、続く。それが簡単に予想されて、実際、教室で勝手に並んで着替え始めた彼女は、また話の続きを口にする。つまり、一緒に校庭に行きましょう、戻って来る時も一緒に戻ってきましょう、という意思表示。勿論、阿倍に拒否権は一切ない。
分かっていたので、着替えの手は止めないままに阿倍は思わず溜息を零してしまう。疲れが滲んだ溜息。でも、都合の良いことしか気づかないように出来ている女子という生き物には、そんな溜息聞こえない。すぐ隣にいるのに。会話まで交わしているのに。
この神経の図太さはマジに理解不能なんだけど・・・等と、もう幾度となく抱いた感想を改めて抱きつつ、阿倍は自分も女だという信じがたい事実をいつも、思い出す。信じられないというよりは、すぐ傍で生息している生き物と同じ、という事実を受け入れがたいだけなのかもしれない。阿倍は自分が高尚な生き物だと自惚れてはいないが、隣に並んだ愚かな生き物よりはマシだと信じているから。
・・・でも、マシだとしても大して変わらないけど。
着替えを終えて、外へ。さきほどまで男子がいたはずの校庭へ向かいながら、今度は誰にも気づかれないように意識して阿倍が零す、溜息。情けない事実。もし、本当に愚か過ぎる生き物達と同じになりたくないのなら、今、この状況も自分の意志で拒否すべきで、それが分かっているのに出来ない自分が阿倍には情けなかった。女という生き物の厄介さを身に沁みて知っているからこそ、輪から弾かれるようなことが出来ない。その、弱さ。
大っ嫌いだと思う。隣を歩く親切めかした女も、その周りにいる無神経な女も・・・その女達と一緒にいる、阿倍自身も。
男なら、一緒にいられたのに。