男なら、一緒にいられたのに。
今、この瞬間も一緒にいられたのにと、痛切に阿倍は思う。ただ、思いながらも身体は動く。周りの動きに添って、教師の指示に従って、教師の指示に従った女子達の流れに加わって、意味のない測定に協力する。
阿倍は何も考えずに動いていた。現実に対する悪態ばかりを、胸の内だけで零し続けていた。相変わらず離れようとせず、行動を共にさせられている女子の垂れ流されるだけの話を受け流して。
阿倍には後ろに並んだその女子の名前が、面白いくらい全く思い出せないし、思い出そうという気にもならない。しかしクラスが一緒だということだけは、垂れ流されている話で分かった。つまり同じクラスで日々を過ごしているというのに、全く興味が持てないほど、どうでも良い人間だということも。
価値のない人間、少なくとも、阿倍にとっては価値がない人間。それだけ分かれば阿倍には充分で、もう話しかけてなんてほしくなかった。・・・が、それを訴えることが出来ないほど弱くて、垂れ流される言葉から身を守る為に耳を塞げるほど達観していないから、結局はその価値のない言葉を聞く羽目になるし、その言葉に応える羽目になる。
楽しげな、阿倍にとってこの世で一番唾棄すべき、確信された邪推。向けられた瞳が輝いている様に、その輝きを齎す太陽すらも阿倍には憎らしくて堪らなかった。唾を吐いても届きもしないのが、尚更に。
「ねぇ、そういえば・・・阿倍さんって、嵯峨君と付き合ってるの?」
すっごい仲良いよねぇ?・・・どことなく甘えを含んだ声。興奮でもしているのか、僅かに膨らんだ鼻。その様が、阿倍には人間としての尊厳を放り出しているとしか思えない。投げ出しているなら、こんな場所にいなければいいのにとも思う。
悪態だけが、阿倍の中に重なっていく。口に出来ないその悪態が、怒りという感情を伴って、積み上がるだけ積み上がる。いっそこのまま倒れてしまえばいいのにと、阿倍は密かにそう、思うのに・・・口は感情より理性を理由にして動く。どこにあったのか、笑みすら伴って。
「それ、他の人にも聞かれたけど・・・全然、違うよ? まぁ、仲は良いけどねー、友達、ただの」
「そうなの?」
「そう。ただの・・・っていうか、滅茶苦茶仲良い友達」
「・・・ふーん?」
「小学校から、一緒なんだよねー」
「そうなんだぁ」
全て、事実。口が理性に従って形にしたそれは、誰にいつ提出してもおかしくないほど事実だけで固められていたけれど、だからといって特別納得がいくような事実が含まれているわけではない。それなのに阿倍の話を聞いていた相手は、何か凄い告白でもされたかのように、何度も頷く。納得しました、そんな顔で頷く。
その単純さがまた腹立たしいのだと、そう訴えればそれは我侭でしかないのだろうか? 傲慢でしかないのだろうか? 素直なだけではないのだろうか? 阿倍は、思う。勝手に首を突っ込むくせに、知ったかぶりをして頷く姿は醜悪でしかないのではと。
一刻も早く、痛切に抱いた阿倍の祈りは、幸いにも簡単に叶えられる。呼ばれる名、向き直れば順番は巡ってきていて、係りになっている生徒の合図で、半分消えかかったスタートラインに立たされる。振り上げられる、手。振り下ろされる瞬間を夢見て、同時に向かう先も見据える。数メートル先に用意された、砂の広がり。何人もの足で踏み荒らされて、諦めて広がる、そこへ。
跳べ、振り下ろされた手の指示に従い、走りだす。
たった数メートルの距離を一気に走り、引かれた白線を目印に踏み切って・・・広がる砂の上へ、跳躍とは言えない程度の距離を跳ぶ。すぐに訪れる、終わり。運動靴の下に感じる砂の感触が、哀れなほど、不快。
距離を計る為の足跡をしっかりつけた後、ゆっくりと砂の上から退く。するとすぐに下される、次の合図。待ちたくなんてなかったのだが、仕方がなく待っている阿倍の目の前で次に訪れた跳躍、みっともないほど形になっていないそれに、自分の姿を夢想して募る嫌悪を、尽きることのない悪態に変える行為ほど得意なことはないかもしれないと、つい、自嘲気味に阿倍は思ってしまう。
せっかく先に跳んだんだから、あの場所に何か仕掛けられたら良かったのに・・・そんな出来もしないことまで、思う。何か、そう、落とし穴とか、爆弾とか。想像して、その有り得なさに少しだけ阿倍の胸が綻ぶ。馬鹿みたい、何度も、小さく繰り返して。
──恋なんて、全然分からない。
分からないどころか、そもそも本当に存在しているのかどうか、阿倍がそこからして信じられないのはもうずっと昔からで・・・きっと、これから先もずっとこのままで。都合の良い幻、夢だとしか思えないそれを、存在していると信じて騒ぐ人間も『恋』という幻覚と同じくらい、阿倍には信じられなかった。
すぐに消えて、変わっていくモノ。
どうしてそんなモノを在ると信じられるのか、しかも他のどんなことよりも重要かのように騒ぎ立てるのか。重要ではないと、実態が在るモノではないと知っている人間まで巻き込んで、信じない方がおかしいのだと言わんばかりの傲慢さで巻き込むのか。
昔から、阿倍にはずっと疑問で・・・既に疑問を解決する意志も放棄し、代わりに強く、強く怒りと苛立ちを握り締めるようになったその思いを理解しているのは、阿倍自身以外には他に二人しかいない。そして阿倍は、もうその二人以外とは分かり合いたくもないとすら思うようになってしまった。それぐらい、阿倍から他の全てに対する期待は失われているし、今更、得たくもなくて。
自覚する度に抱く感情を理解してくれるのも、二人だけでよかった。
──皆、滅べ。私を苛立たせるモノは、人も物も、形ないモノも、あるモノも。