走り幅跳び、五十メートル走、たった二種目なのに、終わって教室で着替えを終える頃には感じていた怒りが最高潮に達していて、いっそ笑い出したいくらい阿倍の感情は何かの山を上り詰めていた。むしろその山の山頂を軽く飛び越えていた。
けれど飛び越えた先で取り返しのつかないことをすることはない。そんなことをする前に、それを止めてくれる相手が戻ってきてくれたから。
「阿倍」女子の着替えが終わり、入室禁止状態が解除されて入ってきた男子。その中に含まれていた嵯峨は、教室に入って来るなり真っ直ぐに阿倍に近寄ってくる。近寄って、声を掛けてくる。『友達』の声。大事な『親友』の姿。
しかしいつもなら阿倍を和ませてくれるそれも、その時ばかりはいつもと同じくらい和むことが出来なかった。何故なら近づいてきた姿に、いつもとは違うモノがついてきたから。最近・・・そう、そろばんの授業の間も阿倍の気に障って仕方がなかった姿があったから。
茶月英士、同じクラスの男子。
教室に入ってきた嵯峨の隣に、その姿が納まっていた。厚かましい、一瞬にしてそんな感想が阿倍の脳裏を占める。何故ならそこは黒河の位置なのだ。たとえ黒河とクラスが分かれて空いているからといって、勝手に他の人間が埋めて良いわけではない。黒河がいないなら、空けておかなくてはいけない。阿倍にとってそこは、そういう場所で。
視線が自然と鋭くなっていくのが、阿倍自身、感じられた。しかし向けている相手は気づいているのかいないのか、嵯峨に軽く手を振って声を掛けると、何の拘りもなさそうに自席へ向かって行ってしまう。その間、尖った視線を向けている阿倍には一切視線を向けることなく、意識を払うこともなく。・・・少なくとも、そういった素振りを感じさせることがなく離れ、さり気なく見届ける阿倍の視線の先で自席に着く。
その一連の動きがまるで先手を打たれたようで、予め用意されていた対策のようで、いっそう腹立たしいのだと告げたら、流石に言い掛かりに近くなってしまうのだろうかと、一瞬、阿倍は考え込む。しかし言い掛かりという表現をもっと聞こえの良い言葉に直せば、それは『素直』と言える気もして。
結局、我慢出来ない、する気も起きない『素直』な言葉は、あまりにも簡単に阿倍の口から零れる。
「ウチらに近寄んなっての」
吐き捨てられたそれが酷く小さな声だったのは、周りを憚ったからではない。周りを意識しないほど、阿倍にとっては当たり前の本音、もしくは独り言と同義だったからだ。それぐらい、自然だった。自然に、腹が立っていた。
たとえ嫌な奴ではなくても、たとえ親しくなれば何かが楽になるのだとしても、それでも阿倍は受け入れられない。受け入れない。──受け入れたくない。
眉間に痛みを感じるほどの皺を刻んでいる自覚は、阿倍にもあった。座った目つきをしているのも、その視線に呆気に取られるほどの悪意が篭っているのも自覚していた。排他的で攻撃的な、悪意。向ける先に対象はいない。いるのは、阿倍が背を向けている先。振り向いてしまったら、その視線で激しすぎる攻撃をしてしまうので振り向けないが・・・攻撃してしまいたいと願う心が、阿倍の中には確かにある。
しかしその心に阿倍の理性が折れるより先に、すぐ間近で小さな笑い声が聞こえてくる。他の誰より阿倍が馴染んでいて、誰とも違い腹が立たない笑い声が。
「・・・圭?」
「あー・・・悪い。・・・うん、でも、悪くない、かな?」
「あ? 何が? ってか、ちゃんとした日本語話せ」
目を伏せて、顔を俯かせて、肩を震わせて、途切れ途切れの言葉を重ねて笑う嵯峨の姿に、阿倍は腹立たしさではなくて、ただ、不思議に思う。笑っている、その理由が嘲笑を含んでいないと知っているから、余計に。
嵯峨は、笑っていた。ただ、笑って・・・それから目の端に涙を留めたまま、酷く満足そうにまた笑った。また笑って、言った。
「オマエのそういうとこ、凄いと思う」と。
阿倍には意味が全く分からなかった。笑ってはいるけれど、真剣に褒められているのは分かる。けれど、何を褒められているのかが分からない。何故、褒められているのかも分からない。
でも、分からないと思っていることを嵯峨が分かってくれた、それだけは阿倍にも分かった。ゆっくりと開かれる口、その動きに、分からないままでいる阿倍に嵯峨が説明をしてくれるつもりなのも分かった。開かれた口から紡がれるはずの言葉は、予想がつかないままで。そして予想がつかないので待つしかない阿倍の前で、嵯峨は答える。応える為に、答える。
「そのさ、超排他的なところ・・・っていうか、超排他的な考えを全然隠す気がないところが凄いって感じ? 知らないヤツにはオマエも隠してるけど、俺らには全然隠さないじゃん?」
「当たり前じゃん。嵯峨達に隠す理由ってあんの?」
「そう思ってて、しかも実行してるところが凄いっての」
また、嵯峨は笑う。その笑い声に被さるように鳴る、予鈴。しかしまだ微かに残る猶予。その猶予を目当てに、予鈴が被さった笑い声を再び立てて、嵯峨がまた、口を開く。
「普通、仲が良いヤツ同士でも、そういう感情って隠すよ。格好つけてさ。でも・・・阿倍って、そういうの気にしないで言うもんな。俺らにいつも、言ってくれるもんな。俺的には、それがさ・・・」
「それが、なに?」
「あー・・・なんだろ? 頼もしいって言うのかな? 雄々しくって良い感じって言うか」
「全然分かんねーよ」
タイミングを図れない教師が入ってきて、会話はそこで中断する。丁度終わったかのようなタイミングに見えて、その実、本当は終わっていなかったのに。教科書を取り出して、さり気なく阿倍が横目で窺えば、同じく横目で窺ってくる嵯峨の視線を見つける。少しだけ浮かべられている、笑み。照れ臭そうな、それ。
分からない、そう嵯峨には言ったけれど、それでもたぶん、阿倍には分かっていたし、見つけた笑みで確信に近いものも掴んでいた。だから、少しだけ浮いた。苛立たしく波立っていた阿倍の気持ちが、柔らかく、滑らかに浮いた。
他の誰でもなく、親友から向けられる賞賛と信頼は、強い、強い指針にすら変わる。間違っていないという、歩いている方向に対する絶対的な確信。他の誰がそれを間違いだと指摘しようとも、決して揺るがないものが、そこには在る。数で負けない力が、そこにだけは在る。
──嵯峨は、優しいし、甘い。
少なくとも、自分なんかよりはよっぽど優しいし、甘い。・・・阿倍は諦めに似た感情を滲ませて、胸の内、そう呟く。嵯峨は、阿倍達以外の何かを、どこかで許してしまう。阿倍なら、絶対に許さない。どんなに悪意のない相手だろうと、絶対的な悪意を向けて受け入れない。
しかし嵯峨は、悪意がない人間に対してそこまで強固な態度に出れない。だから阿倍は心配だし、不安だった。駄目なのに。絶対に、駄目なのに。受け入れたら、許したら、中から滅茶苦茶にされてしまうに決っている。阿倍はそう、確信していた。あの、小学生の頃、馬鹿な同級生達がそうしようとしたのと同じに。全く、同じに。寸分も、違わずに。
誰も、分かるわけがない。──『親友』の価値を、意味を。
打ち上げて終わる、華やかな花火のような関係なんて、信じられるわけがないのに。
恋愛なんて、早くこの世から滅びろ・・・口の中だけで、阿倍は呟く。有り得ない、そう知っていても尚、呟かずにはいられない。ついでに人類も滅びろ、そんな呪詛にも似た呟きと共に。
もう一度そっと窺えば、嵯峨は真面目に板書を写していて、意識しなくても同じように板書を写している自身の行動パターンに、阿倍はただ安堵する。何より、視線が届く範囲に嵯峨がいる、その事実に安心する。女子と男子で別行動を取らさせられることはあっても、基本的に、二人は一緒にいる。目が届く範囲に、互いの姿がある。もしも何かあったなら・・・すぐに、傍に行ける。
すぐに『それ』を阻むことが出来る。
改めて、同じクラスで良かったと心底、阿倍は思う。思って・・・すぐに感じた安堵が引っくり返ったのが、分かった。確かに、嵯峨は大丈夫かもしれない。大丈夫に出来るかもしれない。けれど同じクラスだから大丈夫だというのなら・・・、大丈夫ではない人が、いる。
──黒河。
目が覚めるように、阿倍の中ではっきりとその名が浮かぶ。忘れたりなんかしない、もう一人の、絶対的に傍に在る、傍に在るべき存在。黒河。黒河稔。
親友、ではない。阿倍は知っていた。そのことを、知っていた。阿倍にとって親友は嵯峨一人だけで、嵯峨にとっても自分一人だけだと。それはもう真理的なほど絶対的。そして、黒河もしっている。この、絶対的な強さを。だから阿倍にとって黒河は親友ではなくて・・・親友ではないけれど三人なのだと、声に出来ないほど強く、叫びと同じほど強く思っていた。
親友ではないけれど、たぶん、仲間で、味方。たった一人で世界中の全ての人間に匹敵するほど強い、味方。たぶん、これが正しい。黒河は、阿倍や嵯峨にとって、そういう存在。
自覚する阿倍の目の前を忌々しいほど鮮明によぎるのは、この前の出来事。黒河の教室で、黒河に馴れ馴れしく話しかけていた男。そして今日の体育の授業でも見かけた、同じような光景。同じ、男だった。黒河と同じクラスの、同じ男。
──馴れ馴れしく、近づくなよ。
教師の声が、阿倍の耳を右から左に抜けていく。否、入りもしていないのかもしれない。それくらい、浮かんだものは強烈で、苛烈で、鮮烈で。実はぼんやりとした輪郭しか残っていないのに、その男に対する印象だけが強かった。邪魔だという、その一点だけが。
同時に、阿倍は強く思う。どうにかしないといけないと。自分と嵯峨の味方は黒河しかいないのだからと。黒河しか、もう要らないのだからと。だからどうにかしないといけない。阿倍は無言でひたすらそれだけを思う。誰も、入れるわけにはいかない。入れるわけにはいかないし、それ以前に・・・入れたく、ない。決して、入れたくない。
阿倍と嵯峨、二人が一番どうしようもなかった時、どうにかしてくれたのは黒河だけだったのだから。
阿倍の左手は、相変わらず勝手に板書を写していた。目も勿論、板書を映している。映して、左手に伝えている。しかしそれ以外の機能は全て、違う用途に使われていた。意識は、他の場所へ向いていた。おそらく、壁一枚を隔てた先にある場所へ。今も尚、危険に晒されている場所へ。
嵯峨じゃ無理・・・馬鹿にするわけではなかったが、阿倍は断定せずにはいられなかった。嵯峨は優しいからと。けれど二人の味方である黒河に迫る危険なら・・・否、黒河に迫る自分達二人の危険なら、自分がどうにかするしかないと、阿倍は同じように、断定する。
・・・とりあえず、あとで私だけで顔、出そうかな。
嵯峨を連れて行けば思うように酷くなれない、思う通りに悪意をぶつけられない。阿倍には分かっていたので、状況をシュミレーションしつつ、それだけを決断した。嵯峨に相談なんて、一切せず。する気も、持たず。授業の合い間の休み時間、昼休み、放課後、幾つかの自由時間のどれで偵察に行くか、行ってからどう動くか、そんな諸々を考えつつ、また左手を動かして。
絶対に弾く──そればかりを、シュミレーションしていた。