きっと、そんなことばかり考えていた、それも理由の一つ。
時間は、妙に早く進む。ただイライラしている間は進みが遅いのに、イライラしながらも色々なことを考えていると、まるで考えさせまいとしているのかの如く、妙に早いのだ。誰かの、陰謀のように。
陰謀だったら、後ろのアイツか隣のクラスのアイツに決ってるけど。
言い掛かりだと分かっていて、それでも尚、阿倍の胸の内で零される呟きは、口に出さない以上、当然誰にも聞かれない。代わりに聞こえてきた終礼を合図に立ち上がった嵯峨が、開放感溢れる顔で近づいてくる。
「阿倍、飯」
「知ってる。・・・って、あれ? もしかして購買?」
阿倍のすぐ傍に立って、財布だけを手にしている嵯峨の姿に、聞かなくても確信できることをそれでも態々聞いて確認する。すると何が楽しいのか、滲ませていた笑みを強めると、嵯峨は軽く頷きながら柔らかな形に再びその口を開いた。
「そう。弁当、なくって。だから先にいつものとこ、行ってて」すぐ行くから、そんな言葉を最後に、今度は阿倍の返答を待たずに背を向けたかと思うと、妙に軽やかな足取りで出て行く、嵯峨。食に対して楽しげなその様に、阿倍は嵯峨と自分との違いを思う。ただの昼食。ましてや、購買のパンやおにぎり。その程度のものを、それでも素直に喜べる嵯峨は、やはり素直で優しい。
・・・やっぱり、私とは、違うよね。
「まぁ、いいけど」
嵯峨がいなくなって、阿倍は一人、鞄を持ち上げながら呟く。まぁ、いいけど。それはべつに、負け惜しみ的な言葉ではない。本当の、本音。もしも嵯峨が阿倍と同じような考え方の人間だったら、阿倍は絶対に親しくなんて出来なかったから。阿倍にも、それぐらいの自覚はある。同じだったら親しくなんて出来ない、したくもないくらい・・・自分の性格が曲がっているという、自覚が。
まぁ、いいけどね・・・阿倍はもう一度、同じような呟きを今度は声に出さずに洩らして、鞄を手にしたまま教室を出る。向かう先は、勿論、隣。黒河と共に、いつもの場所へ向かう為に。
しかしそれだけを思っていたので、せっかくあれだけシュミレーションしていたことも、その場でそれを見るまで、阿倍の脳から抜けてしまっていた。意識すら、していなかった。隣の教室、後ろの出入り口から覗いた中の光景。
座っている黒河。その隣にいる、輪郭だけは覚えのある男。黒河に向いた、楽しげな笑み。軽そうなその笑みに応える、黒河の無表情。
抑え切れない圧倒的で決定的な怒りが込み上げてくるのを、阿倍はどこか他人事のように感じていた。悪意的な、その感情を。
そして込み上げる感情に気づいたかのように、その時、黒河に向けていた軽そうな笑みがいきなり阿倍へ向く。軽すぎて、流されたかのように。・・・流されて向いたその笑みを、阿倍が直視することはなかった。それより先に、流されていく笑みを追いかけたのか、阿倍に必要な視線が向けられたから。
阿倍・・・と、黒河の口がその形を象ったのが分かった。同時に、鞄から取り出した包みを手に、立ち上がって真っ直ぐ阿倍に近づいてくる。隣に座っていた男に一言だけ残して、それからは一切その男に意識を払うことなく、真っ直ぐに。
「阿倍」目の前に立って、先ほどは形にされなかった名を改めて呼んだ黒河は、目だけで阿倍にその意志を伝えてきた後、すぐに隣を通り過ぎる。通り過ぎて、首だけを振り返らせてやはり視線だけで阿倍に伝えてきた。行こう、と。
伝えられた意志に従わない理由なんてない。先に立って歩く黒河の斜め後ろをキープして、阿倍は後に続く。行き先は分かりきっているから、聞くことすらなく、無言で。
廊下を階段の方向へ向けて歩き、見えてきた幅の広い中央階段の手前、一枚だけ壁を挟んだ位置にある角を曲がる。教室の並びのすぐ向かい。中庭めいた空間を挟んで、窓と窓が向かい合うその場所は、曲がったはいいがその先には何もない。三メートルぐらいの廊下が続いたのち、行き止まりになっている。
設計ミスなのか、それとも本当は何か意味があるのかは分からないが、阿倍達にとって謎の空白的なその空間は、クラスが離れてしまった以上、貴重な昼休みの憩いの場としての機能を有していた。
「・・・なんか、色々ムカつく」
「なに? いきなり」
窓が設置された壁を背に、冷たい床に直接座って阿倍が呟けば、弁当を取り出す手を止めないまま、黒河の平坦でいながら呆気に取られた声が聞こえてくる。眼鏡越しに向けられる視線は、如実にその感情を示していて。
勿論、そんな顔をされる理由は阿倍にも分かっている。分かってはいるのだが・・・納得は出来ない。黒河が、理由なのに。たとえ言い掛かりだと非難されたとしても、阿倍の中ではそうでしかなく。
あの、軽い笑みを含んだ目。
向けられたそれは、思い出そうとしなくても自然と阿倍の脳裏に鮮明に蘇る。他人の顔なんて、よほど親しくないと阿倍の中ではすぐに曖昧になってしまうのに、すでにあの顔も同じように曖昧なのに、その輪郭と笑みと、目。阿倍の中に生まれる腹立たしい感情だけは、消えようもないほど鮮やかで。
「あぁっ、もう・・・マジ、ムカつくんですけど?」
「だから、何が?」
「アイツ。あの、黒河の隣の男」
「・・・茶木君、のこと?」
「サキ? 知らない、名前なんて。ってか、女みたいな名前、気持ち悪い!」
「・・・阿倍、その発言は人としてどうかと思うけど?」
「人としてはどうでも、私としては正しいから良いの。つーか、初めからムカついてたけど、さっき、余計ムカついた」
「阿倍?」
「人の顔見て笑いやがって・・・クラスも違う初対面の人間に対して、あのにやけた笑いってなに? もう、アイツ死ねよ」
怒りは話しているうちに、余計に高まる。席が隣なのだから当然だとは分かってはいても、黒河があの男の名前を知っていた、その事実すらも阿倍には腹立たしくて仕方がない。黒河と同じように弁当を出しながらも、向けた阿倍の目には険が滲んでいた。
そしてその険しい目つきの先にいる黒河は、何故か弁当を手に動きを止めていた。僅かではあるけれど、目を見開いて。驚いています、なんて言葉以上に語る表情に、阿倍の方こそ驚く。黒河がそんなにあからさまな表情を浮かべることなんて、滅多にないのだ。
死ねなんて単語、阿倍は使い捨てるくらいよく言っている。それなのに今更驚くようなことを言っただろうかと、阿倍は酷く不思議に思う。しかし思い返してみても特にそういう覚えはなく、自然、阿倍の首は右に傾く。疑問を、表現する為に。
傾けて表現したそれは、対面にいる黒河に正確に伝わった。我に返ったように何度か瞬きした黒河は、止まっていた動きを再開しながらその口を開く。相変わらず静かで平坦な、でも不思議と感情が伝わる、声。その感情の形は、表情からは消された驚きを未だに強く、抱えている。
「・・・っていうか、阿倍、茶木君と一緒だろ?」
「は? 一緒って、何が?」
驚きをそのままに掛けられた声に、今度は阿倍が驚いた。茶木、阿倍にとって女のような名前の、腹立たしい男子。黒河の隣の席の、男子。・・・が、一緒というその言葉の意味が、阿倍には全く分からない。傾けていた阿倍の首は、戻す余地もなく更に曲がり、一度は消された感情がまた黒河の顔に広がる。
レンズ越しの瞳は黒。黒目が大きな黒河に見つめられると、誰しもが何かを白状したくなるし、同じだけ隠したくなる。たぶん、その二つの感情は同じ理由で生まれていて、どちらも間違っていると気づきながら、阿倍はずっと気づかない振りをしていたいと願っているし、黒河にもそう振る舞っていてほしいと言葉にしないまま、願っている。
「・・・茶木君って、選択、音楽だよ。阿倍、週一くらいで同じ教室で授業受けてるんだって。もしかして、全然覚えにない?」
齎される回答に、阿倍は反応をすぐには見つけられなかった。選択が同じ、同じ教室で同じように授業を受けている・・・意味は、分かる。理解も、した。しかし問いの答えは見つからない。黒河は、相変わらず阿倍を見つめてくる。静かに、見つめてくる。
その黒に促されて戻る、もう何度も経験したはずの時間。呼び出したそれで一番阿倍の印象に残っているものは、悪意を向ける以外に使用方法がないような教師で、その事実に一瞬、また悪意が阿倍の中で鮮やかに蘇るけれど、まだ向けられている黒に蘇ったそれを葬って、更に丹念に時間を見返す。見返す。見返す。
結果は、数秒で出た。
「知らん」