long6-19

「知らん」

視界に入れたことすらないと思うし、それぐらい覚えにない。覚えにないくらい興味がない・・・等々、決定的な断言の後、滔々と阿倍の言葉は連なる。切れ目なんて探せないほどで、川の流れのように・・・等と歌いたくなるくらい、滑らかに続く。
阿倍にとってそれは、自分のことをよく知っているはずの黒河が、どうして今更そんな事を確認するのだろうかと、そんな疑問すら浮かぶほど当然の答え。だから洩れた。あっさりと、阿倍の口から洩れた。

「つーか、ウチら三人以外のこと、私、興味ないじゃん」

一欠けらもないでしょ、眼中にないよ、選択が同じってだけの男なんて・・・本当は、阿倍の言葉にはもっと続きがあった。阿倍にとって当たり前のことなので、止め処なく続ける先が続いていた。だが、それ以上は続けられなかった。阿倍は続けようとしたのだが、垂れ流す言葉の先にいた黒河の表情に、全ては掻き消えてしまった。
レンズの奥、黒い瞳は柔らかに細められ、薄い唇が軽く噛み締められる。覗く、小さな歯の白さすら柔らかく、阿倍が思わず見蕩れている間に細められていた目が完全に伏せられ、やがて真っ直ぐ阿倍に向いていたはずの顔すらも、同じように伏せられる。
微かに揺れる、黒河の肩。手にしていた弁当も揺れ、窓から入る光が、戯れるようにすぐ傍の床で同じように揺れていた。
──笑って、いた。
たったそれだけのことに、阿倍はもう、何も続きが言えなくなる。何故ならそれぐらい、貴重だから。黒河が、笑っていると外から見て分かるほどはっきりと笑うのは。笑う時はいつだって・・・目を伏せて笑うのが黒河の笑い方の特徴で、逆に言えば、嵯峨のように大声で笑う姿は初めから存在しないし、笑っている時、その閉じた瞼の奥がどうあるのかも誰も知らない。
本当は、阿倍が黒河について知らないことは、それだけではない。他の誰でもなく、黒河のことは知らないことばかりだし、分からないことばかり。阿倍にとって、一番分からない。分からないけれど、一番分かりたい、知りたいと思うのも黒河のことだった。
その、伏せた瞼の奥がどうなっているのかを、阿倍はいつか知ることが出来たらいいのにといつだって思っている。勿論、そう思っているなんて、秘密なのだが。
「阿倍ってさ、そういうところが──」
笑っていた黒河が、ふいにその笑いを収めて伏せていた瞼も顔も上げる。再び阿倍に注がれる眼差しは、消したはずの笑みの面影を微かに残し、変わらぬ柔らかさも留めていたが、同じ柔らかさの言葉は柔らかく止まり、再開を求めるより先に、続くはずだった場面を他の場所へと移してしまう。
「まぁ、でも席とか遠かったら、名前も顔も覚えられないかもね。席、きっと近くないんだろ?」
「知らん。ってか、たとえ隣でも同じだと思うけど」
「また、そういう・・・」
「でも、思い出す限りは近くないと思う。全然近くなくていいけど。つーかむしろ絶対近くに座んなって感じだし。・・・あー・・・でも・・・」
「なに?」
話が別に移ったと承知の上で続けた会話の途中、連想的に阿倍が思い出したのは、もうすぐ訪れるはずの小さなイベント。学校生活では、小さくとも色々関係してくるイベントで、思い出した途端、含まれる可能性に阿倍の眉間に皺がよった。今の今まで、そんな可能性が生まれる可能性すら知らないでいたのだが。
顔が、不貞腐れています、という形に変わるのが阿倍自身、はっきりと分かった。再び目に険が灯り、口元に不快感が滲むのも。そして当然の最終形態として、開いた口から発せられる阿倍の声は、愉快なくらい不機嫌な声だった。
「もうすぐ、席替えなんだよね。しかもクジ」吐き捨てるような声は、捨てられる前に黒河によって拾われる。「・・・そう、なんだ?」撒き散らされる阿倍の機嫌の悪さで気を悪くすることもなく、淡々と受け止める黒河。撒き散らした感情を無事、拾われた安堵にか、相変わらず機嫌の悪い声のまま、阿倍は続きすらも吐き捨てる。
「クジ運、滅茶苦茶悪いんだよね、私。なんか、絶対微妙な席になりそうな気がする」
微妙な席っていうか、嫌がっているからアイツと席が近づきそうな気がする・・・想像すると余計に実現してしまいそうだと思っているのに、阿倍はつい想像してしまい、ただでさえ悪い機嫌がいっそう悪くなる。
たとえ週に一回だとしても、悪意の塊を投げつけたくなるような相手の隣に一時間近く座っているなんて、阿倍には想像だけでも耐え難い。・・・のに、今までのクジ運の悪さから、どうしてもそれが実現する予感が振り払えなくて。
阿倍の口から、溜息が零れた。悪意の代わりに。もしもここに向ける相手がいるならば、阿倍は容赦なく悪意を向けていたのだが、ここには、黒河しかいないから。黒河、だけしかいないから。

「──大丈夫だよ、今回は」

確信めいた、声だった。黒河の、ただでさえ力ある声が、通りの良い声が、いつも以上に力を持って、転がしていた阿倍の悪意すらも一掃する。一掃されて・・・一瞬だけ落ちる、沈黙。綺麗な空白のような、沈黙。
その空白を埋めるように、また、声が。
「大丈夫。きっと」
「・・・そう、かな」
「うん。まぁ・・・、今回くらいは、大丈夫だよ」
「・・・だと、いいけど」
現実的な思考が形にした自分の答えを、阿倍は何かの冗談のように聞いた。他人が口にした、冗談のように。阿倍の中の他の部分は、聞こえてきた声が持つ力を素直に信じていたから。たぶん、経験的なものが、更にその気持ちを確信に押し上げていた。

昔から、黒河が告げる確信めいた言葉は、外れることがない。

それはまるで・・・阿倍からしてみれば、阿倍達が知ることが出来る何かとは全く別の側面が黒河にだけは見えているようにも思えるし、阿倍達に黒河が知る側面を知る力が足りていないだけのようにも思えた。
どちらが正解、ということではなしに、どちらでもあるような気も、阿倍にはしていて。
ただ、いつだってそんな黒河を前にする度に問いたくなる言葉を、いつも通り阿倍が飲み込んだのは、黒河がその時、また微かに笑ったからだった。あの、顔を、瞼を伏せた、笑い方で。
伏せられた瞼の奥、阿倍がまだ知らないその先。まだ、教えてもらえていないその先。阿倍も、嵯峨も、他の誰も。でも、他の誰かはともかく、自分にだけはいつか教えてほしい、見せてほしいとその時、全ての会話を置き去りに、阿倍は強く、そう思った。強く、強く・・・。
出来ることなら、嵯峨よりも先に。一番に見せてほしいと、そう、思っていた。