long6-8

世の中には色々なタイプの人間がいるが、その中には、我が身に起きていることが他人にも起きる可能性があるということを思いつかないタイプがいる。
その筆頭のような茶木は考えもしていないだろうが、選択科目というものは、この高校に在学している以上、誰だって受けているのだ。おまけに種類が三択なら、誰が誰と同じ科目だったとしてもおかしくないわけで。
「そういえばさ、茶木と席、隣なんだって?」
満を持して掛けた茶月の声は、相手が手にしている筆の先に微かな震えを生み出すだけで、八割がた、その役目を終えた。半紙に落とされていた視線がゆっくりと上がり、眼鏡越しに向けられた目に初めて自分の姿が映るのが見えた。
映った姿に代わり映えはなく、ただいつもとは違い、床に直接座っている様が茶月には少しだけおかしかった。
もっとも、茶月の中で本当におかしいのは書道担当の教師だという思いもあった。正月でもなんでもないのに、長い半紙に好きな四文字熟語を書けなどと言い出した挙句、机では半紙が収まらないから床で書けという指示を出すのだから、頭がおかしいのではないかとすら思っていた。
ただ、その指示のおかげで助かることも多々あって・・・。
指示が出てから、皆が思い思いの場所で床を陣取り、半紙を広げて課題達成に向けて筆を動かし始めた。勿論、課題はこなさなければいけないのだが、茶月にはこの機会を逃す気はなくて・・・狙った場所は、幸いにも誰にも奪われておらず、気兼ねなく、陣取れた。
狙った、場所。まだ誰も半紙を広げてない場所。とても綺麗な文字を描く、その隣。
黒河の隣は、まるでその瞬間のためかのように、綺麗な空白が広がっていた。茶月が、話しかけるための空白。
「・・・うん。茶木君と、仲が良いんだよね?」
「中学校からの付き合いだから。そっちは、ウチのクラスの嵯峨君と阿倍さんと仲が良いんだって?」
「・・・まぁ、小学校からの付き合いだから」
適当な文字を書きながら茶月が窺っていたタイミングは、一応、間違ってはいなかったらしい。投げ掛けた問いに微かな驚きを示したものの、さして抵抗もなく黒河からの返事があった。茶月とは初めて口を利くのに、その辺りの『初めまして』的なやり取りすらなく。
滑らか過ぎる始まり。きっと茶木が色々話しているからなんだろうなと推測を立てつつ話をしてみれば、多少の間はあるけれど会話は打ち切られることなく進む。
・・・ただ、茶月は滑らか過ぎる、とは感じていた。引っ掛かりを作らないように気をつけているのではなく、取っ掛かりを忌避するための滑らかさのような気が。
意図的な意志がそこにあるなら、それをむやみに荒らしても意味はないし、価値もない。そのことをお互い分かっているタイプで、分かっているのも分かっているのだろうと茶月は確信していた。とても近いタイプ。
でも、黒河がどう思っているのかまでは茶月には分からないが、似ているけれど決定的に違うタイプでもあるという確信もあった。それが分かっているのが、たぶん、違いだと。
数秒の沈黙。計られる、否、図られるタイミング。茶月の目に留まるのはお手本よりずっとお手本らしい文字。選ばれた単語は『恒温動物』。これは人間が好きだという遠回しの告白か、変温動物なんて認識する価値もないという嘲りか、かなり迷う。
ちなみに、茶月の右手が握っている筆が書いた単語は『春夏秋冬』。これはべつに、四季を愛してやまないという意思表示ではない。どちらかといえば茶月は、夏はくるなと思っているし、冬は真冬だけは一瞬で通り過ぎてほしいと願っていた。
「アイツ、超いい加減なこと言ってた。全然、綺麗だよね」
じっと見ているうちに、自然と茶月が思い出した茶木の言葉。黒河の字の美しさに引き出されて洩らした茶月の感想に、当の黒河はレンズ越しの目を微かに見開いてその疑問を映す。
「なにが?」
不思議と年より幼く感じる、問い。
「字だよ。茶木が俺と同じくらい綺麗だなんていい加減なこと言ってたんだけどさ、全然、黒河君の方が綺麗だなって思って。習字でも習ってた?」
お世辞ではなく、本気で思って茶月が口にしたそれに、黒河の目はもう少しだけ、見開かれる。
しかし開かれた目はすぐに微かな柔らかさを感じさせる形に解け、黒河は苦笑に近い微笑を浮かべて肩を竦める。
「習ってたけど、そんなに長くはないよ。っていうか、茶木君の、全然いい加減じゃないと思うけど? 綺麗だよ、字。習ってたの?」
返された問いに、今度は茶月自身の顔に苦笑が浮かび、茶月はなるほど、この問いにはこの笑みが浮かぶものなのかと変な納得をしてしまう。
「うん。でも、俺も同じ。続かなかった」
続けるつもりもなかったそれに強まる笑み。振り払うように一旦消して、それから茶月は途切れた続きを結ぶ。
「まぁ、茶木ほど短期じゃないけど」
「え?」
「アイツ、三日間無料体験出来るってのに自分から申し込んだのに、半日で嫌気がさして来なくなった。だから続かなかったって言っても、茶木ほどじゃないんだ」
アイツ、根性なさすぎ・・・とまで茶月が続けると、結んだ先に黒河の滲むような笑みが見えた。本当に微かなものではあったけれど。
「仲良いね」
笑みに混じって、そんな声が聞こえてきた。何気ない、何の意図もない呟きに似た声。深く考えないで発したものだとすぐに分かったけれど、そんなことは茶月には関係がなかった。それはチャンスだったから。滑らかな会話の中に入り込んだ、黒河が避けていたはずの取っ掛かりだったから。
逃すわけなんて、ない。
「そっちだって、マジに仲良いだろ?」
一瞬にして、黒河の笑みが離散する。
「休み時間ごとに、こっちの教室呼ばれてない?」
離散した後、霧散した笑みを探して茶月が口にすれば、どこかから掻き集めてきたのか、辛うじて黒河の顔に戻ってきた笑み。明らかに先ほどまでとは違うそれを貼り付けて、黒河は答える。「まぁ、そうだけど」と。
そうなのは、知っている。だから茶月が知りたいのは、その先。もしくは、すぐ隣。少しだけ、迷った。もう少しタイミングを計るべきなのか、否かを。けれど迷った末に結局茶月がその迷いごと振り切ったのは、人類の無敵の味方、好奇心という力が背を押したからだった。
「でも、小学校からずっとつるんでる女の友達って、珍しくない?」
「・・・そう?」
「たぶんね。ってか、俺、いないから、余計そう感じるのかも。ねぇ、女友達って、どんな感じ?」
一気に攻め入った。・・・茶月のイメージの上では、だったが。そしてそのイメージ上の攻撃に、黒河は大きな反応はしなかった。ただ、小さな反応だけは見せる。ほんの少しだけ視線を彷徨わせて、小さな、沈黙。
それからすぐに戻ってきた黒河の視線は、今まで見た中で一番真っ直ぐな視線を茶月に向けてくる。真っ直ぐで・・・それなのに、全く噛み合わない視線を。
「阿倍、中身が男っぽいから・・・あんまり女友達っていう感じじゃないよ」
「そうなんだ」
「うん。良く言うとがさつで、悪く言うと乱暴っていうか」
「・・・それ、どっちも良く言ってないっていうか、悪く言ってると思うけど」
貶しているとしか思えないそれは、口調は真面目で、声は柔らかだった。とても嬉しい事実を告白するような、素晴しく誇らしいことを自慢するような。気の所為、なのかもしれないが、茶月にはそう聞こえた気がして。
その時ふいに茶月が思い出した、教室で交わされる合図。それに感じた、微かなズレのようなもの。茶月にはあの時感じた正体の分からないものの一部が、今、目の前に提示されたような気がした。こんなに近い距離で、示された気が。
今の茶月の位置からは見えにくい、全体像。面白いと感じずにはいられない、その、原因と理由。そして茶月にとってきっかけでもある、温和な優等生でしか在り得なさそうな人間の、鋭すぎる眼差し。
「一応、褒めてる気がしないでもないんだけど・・・」
笑みを滲ませた溜息。
「その、褒めてるんだか褒めてないんだか分かんないような感じだと、全然褒めてることにならないよ」
それに応えて、同じような笑みを滲ませた声を返して・・・返しながら、茶月は半ば観察に近い状態で、その黒い瞳へ視線を注ぐ。
今は穏やかな色を浮かべている、黒。あの時、強烈に茶月の興味を誘った攻撃性を潜めている、黒。見間違いでもなんでもなく、確かに激しい強さを内包していた、黒。茶月の興味は、尽きない。
この黒も、この黒が見つめる先も。尽きない感情を茶月が改めて自覚すると、その途端に蘇るのは、思い出すのは、いつかの茶木の言葉。
『よっぽど人間が好きなんだな』
思い出す。いつだって残念なほど鮮明に、茶月は思い出す。少しだけ離れた場所で突如、話し始めた教師の声。ざわつき始める教室。命令せずとも動き出す茶月の両手。その両手が勝手に片付け始める眼前の道具。やがて聞こえてくる、終礼。
その音の中ですら、茶月は思い出す。思い出す時はどんな時だって、どんな状況下でだって思い出さずにはいられない。茶木はきっと一度だって思い出さない『かつて』を、繰り返し、繰り返す。