long6-7

茶月は、どちらかと言えば彼女より彼の方に興味が惹かれていた。理由は茶木が彼女・・・、阿倍に興味を惹かれたから・・・ではない。ただ、全然関係がないわけでもなかった。関係がなかったら、説明がつかないから。興味を惹かれた、その、きっかけの。

──あの、窓から茶木を見下ろす、凍えた黒い目。

名は体を表わす、等という、普段は使わない慣用句が茶月の中に出てきたのは、その目が今まで誰の目にも見つけたことがないものだったから。たぶん、一瞬の逃避のようなもの。
暗く、深く、冷たい河を連想させる目。今まで何度か茶月が見かけた時は、そんな目をしていた覚えはないのに。
隣にいた茶月のことなんて一欠けらも視界に入らないように、一心に茶木を見ていた。それが茶月が興味を惹かれたきっかけ。
茶木は意外と要領が良いタイプで、他人に積極的に嫌われるような人間ではないし、たとえ誰からも嫌われるような人間相手でも、あんな冷たい目、他に見たことがなかった。見たことが、なかったから・・・茶月は、興味を惹かれずにはいられなかった。
興味と、予感。ただ、その予感を茶月は口にしなかった。浮かれている茶木に悪いと思った・・・からではなく。
いい気味だと、そう思ったからだった。

**********

「次の授業だっけ?」
「あー・・・俺もそうだと思い込んでたんだけど、一晩寝たら冷静になったみたいで、思い出した。次の授業、あのブッチョの都合で自習。だから席替えは再来週なんだよ。週一回の授業がなくなるって、どうかと思うよなー」
「・・・へぇ」
登校中、交わす会話は当然のように昨日の続きで、相槌を打ちながら、冷静になったのは自分も同じだと茶月も気づく。気づいて、初めて冷静でなかったのだと知った。冷静でなかったからこそ簡単に、そう、あまりも簡単に・・・思ってしまったに違いないと。
いい気味だなんて、思いそうでも思わないように気をつけていたのにな。
言葉や表情にしなかっただけマシかと、それだけに安堵して歩き続ける茶月の目に、見えてくるのは咲き残る桜と、散った桜の隙間を埋める緑のコントラスト。学校の敷地の外から張り出す枝に、入学式の日には流石に圧倒された。
今は咲き残りだけを連ねているのだとしても。
「大分散ったな」
思い出してつい茶月が洩らせば、視線の先を追って気づいたのか、茶木の少しだけ残念そうな声が応える。
「そーだな。入学式の時は凄かったのにな」
「塀に沿って、ずっと続いてたもんな」
塀の中の学校という空間を守るように、連なっていた桜。今は緑を混じらせている姿を横目に、二人は校門を潜る。傍を通り過ぎる自転車や、何を急いでいるのか走り過ぎる教師、そして前方を歩く他の生徒達。・・・の、中に。
話題に上らせていた姿を、二人は見つける。
「うわぁっ・・・やっぱ、噂はしとくもんだな」
茶木から洩れる、楽しげな声。噂をすれば影、なんて、本当か嘘か分からない慣用句を使った茶木の言葉に、茶月は特に返事はしないまま、思う。きっと自分達が見つけた姿は、それぞれ違うのだろうなと。
茶木が見つけたのは当然、阿倍の姿だろうが、茶月が見つけたと思ったのは違う姿だった。視線の先にいるのは、三人。阿倍と、その隣を歩く、嵯峨。そして二人の真ん中、でも一歩後ろを歩く、黒河。
茶月が見つけたのは、黒河だった。逆に、茶木は黒河の姿が見えているのに見つけてはいない。阿倍の姿を、茶月が見つけていないのと同じように。人間は、興味の対象以外を見つけない生き物だから。
「ああやってると、普通っぽいんだけどさ・・・全然違うんだよなぁ」
「ふーん。まぁ、そういう時もあるんじゃない?」
そうして違うものを見つけながらでも、二人の会話は噛み合う。噛み合っていると信じている人間と、噛み合っていないと自覚している人間の組合せなら、案外どうにかなるもので、茶木の方は相槌以上の反応を求めていないのだから、どうにでもなる。
だから適当な相槌だけを返しながら、茶月は見ていた。興味を惹かれた、その姿を。そして見ているうちに・・・いっそう興味を惹かれていくのが分かった。面白いと思わずにはいられない。まるで、何かの劇のプロローグみたいに。
いっそ男友達といった対等な表情で何かを言っている阿倍と、その阿倍に少しだけ呆れた顔で何かを言い返している嵯峨。対等な二人のそのやり取りを、一歩引いた位置をキープして聞いている黒河。その黒河に、時折振り返っては何かを訴えている二人と、肩を竦めてその訴えを躱しながら、決してキープした位置からは離れない黒河。
茶木には阿倍しか目に入っていないので、その面白さに気づくことはない。でも、黒河に興味を持って、だからこそ黒河の位置から全体を見ている茶月には、その黒河の位置とそこから見える二人の様子に面白さを感じずにはいられない。
不自然な組合せ。男女比もおかしいし、立ち位置もおかしい。少なくとも、茶月にはそうとしか思えないそれは、面白い見世物に感じられた。それも、誰もが目にしているのに、茶月ひとりが認識出来る、特殊な見世物。
茶木のような人間は一生、気づかない。そしてきっと、あの三人のうち、二人までは認識していない。ただ、残りの一人がどう思っているのかは茶月にはまだ分からなくて・・・。
「茶月?」
気がつけば、茶月はすっかり相槌を忘れていた。怪訝そうな茶木の声で気づかされ、悪い、ぼうっとしてた、と謝れば、少しだけ大袈裟に騒ぐだけでそれ以上の追及は受けない。本当はぼうっとしていたのではなく、物凄く集中していたのだが。
「・・・まぁ、いいけど」
「茶月?」
「急ごう。チャイム、鳴るよ」
促せば、茶木はやはり大袈裟なくらい慌てる。落ち着いて時間を確認すれば、そこまで慌てないでも良い時間だと分かるはずなのに。それでも顔見知りには多少大袈裟なリアクションを取るのが茶木のキャラクターで、つまり、立ち位置の違いなのだろうなと茶月は思う。
見る側と、見られる側。認識する側と、認識される側。この違いがあるからこそ面白いと思うし、いい気味だとも思うし、思うからこそ・・・茶月は、興味が惹かれてしかたがなかった。
あの、意志を持って一歩引いている姿。一歩引いているのに、意思を持ってすぐ後ろを歩いている姿。
黒河稔が立っているのは、一体どういう位置なのか?

──いつだったか、他人を観察することが物凄く好きなのだと教えたことがある。

茶木がそれを聞いて酷く感心した顔をしていたのを、茶月は感動的なほど鮮明に覚えている。鮮やかな記憶の中で、茶木は間をおかず、大して何かを考えた様子もなく言った。
「よっぽど人間が好きなんだな」と。
選択肢が一つしか存在しない答えを口にしたかのようなその声に、滅多に出会わないほどの不理解に出会ったことも、茶月の鮮明な記憶の一部だった。
人間が好きだから人間を見るという、茶木の答え。アレが、茶木勇志と茶月英士の違いの全てで、他の友人より長く、近く共に在る今の全て。少なくとも茶月はそう思っていた。
だからこそ、茶木が見えていないものを目の当たりにする時、あの瞬間をよく思い出す。
よく、思い出す。
「・・・それはそれとして、だけど」
案外、独り言というものは誰にも聞かれないものだし、聞かれたとしても聞かない振りをするという暗黙のルールが素晴しいほど浸透しているもので。つまり誰にも聞き返されない呟きを転がしながら茶月が向ける視線は、一列隣の前方。
きっと茶木が阿倍を見ているのも、話に聞く限り似たような位置関係なんだろうなと想像しつつ、じっと窺う相手はつまらなさそうな顔で机の上にその視線を落としている。教科書を見ているのか、ノートを見ているのか、それとも何も見ていないのか。
そこから隣に二つずれた列の前方へ視線を移せば、そこには俯く男子の姿。まるで指し示したかのようにひとりを挟んで同じ最前列に並ぶ二人は、時折、何かの合図のように視線を交わしている。
茶月の興味は、黒河に向かうものの方が強い。でもあの二人に全く興味がないのかと聞かれればそうでもなく、なにより、一歩引いて一人の人間がずっと見ている・・・いや、もう見守っているとすら感じる行為をし、その眼差しを甘受している人間、という意味では興味が沸いていた。
大体、あの三人の関係性もよく分からないけど、あの二人の組合せにしても分かんないもんな。
茶木情報だと、付き合っていない、お友達。・・・らしいのだが、割合何でも真に受ける茶木からの情報だと、それだけでもう茶月は信憑性を疑わずにはいられない。
おまけに茶月が見る限り、ただの友達にしては近すぎるというか、近寄りがた過ぎるというか。小学校からの付き合いだなんて情報もあったが、男子と女子が小学校からずっとべったりお友達として仲良しです、なんて、お前はどこのガセネタを掴まされてきたんだと聞きたくなっても無理はないだろう。
それだけベッタリ一緒なら、いっそ付き合った方が自然なんじゃないかとすら茶月は思う。茶月には彼女なんて出来たことがないので断定は出来なかったのだが・・・男女でお友達、おまけにプラスアルファで一歩引いた男一人って、何事?・・・としか茶月には思えない。
何事?・・・で、面白くないわけがない。
前方の二人は、物凄い優等生というわけではなくとも、おそらく、大きく振り分ければ必ず優等生の組に入る程度には真面目で、規律を破ることに不安を覚えるタイプ。茶月自身がそうだからこそ分かる、これは間違いないと。
だから同じタイミングで板書を写して、同じところで教科書にマーカーを引いている。そして、同じところで手持ち無沙汰になって・・・二人を眺める茶月と、互いに『暇だ』と声なき声で告げ合って微かに笑う、二人。
仲が良い。態と眉間に皺を寄せて不満を示す嵯峨と、軽く肩を竦めて呆れた表情を作り、首を微かに横に振る阿倍。
仲が良い、それは、感じる。気になってから授業のたびに茶月は様子を眺めていて、その度に交わされる合図や視線を見つければ、感じずにはいられない。やはり付き合っているんじゃないかと邪推せずにはいられない。
いられない、けれど・・・茶月が目にした、二人の表情。おふざけの、他の誰も気づいていない表情。でも、その表情にその時初めて、茶月は感じた。ほんの少しの、引っ掛かりにも似た何か。
・・・なんだろ? なんかズレているような、でも噛み合いすぎてるような?
ほんの一瞬感じただけのそれは、すぐに消えてもう欠片も見つけられない。でも気になった。だから気になった。気になって、やっぱり面白いかもしれないと改めて茶月は思う。
引っ掛かりがあるからこそ面白い、不自然だからこそ楽しい。滑らかで引っ掛かりのない自然なものなんて、面白くもおかしくもない。
茶月が見ているうちに、また交わされる合図。あまりにも親しすぎる仕種。見ていて、思わず笑い出しそうになるのを茶月は必死に堪える。大分類で優等生に入る人間は、授業中に笑い出すわけにはいかないから。
・・・でも、笑えないけど、笑いたかった。確信は強くなる一方なのだから。きっと、楽しくなると。
絶対的なまでに他愛無い茶木の願いは、果てしなく遠い。
確信が、ある。あったからこそ、見つけた笑みを眺めながら、茶月は決めていた。果てしなく遠いなら・・・是非、実際にはどのくらい遠いのか、計ってみようと。きっと、それすらも果てしなく楽しいだろうからと。