long6-5

知ってみたいと意識していれば、見る機会は増えていく。特に、黒河を意識していればその姿を見つける機会は増えたし、茶月のところへ頻繁に行けば、当然、その姿を見つけた。
その間、体育の授業もあったけれど、茶木が一方的にした約束はまだ果たされない。順番に並んでこなすだけの基礎体力測定ばかりでは、並んでそれを受けるだけで、目的の人間と雑談する機会なんて巡ってこなかったから。
だから、あの『嵯峨』とも話していなかった。尤も、茶木自身は嵯峨と物凄く話がしたいわけではなかったのだが。
勿論、選択授業もあった。当然、茶木は見ていた。当たり前に、話す機会はなかった。なかった、というより作れなかった。作れなかったけれど・・・見ていた。そしてその茶木の視線の先で、彼女は、阿倍は、やはりあの目を向けていた。
あの、鋭い、強い、真っ直ぐな目。誰も気づかないけれど、見ていた。茶木は、ずっと見ていた。見れば見るほど、見つめたくなって見つめていた。
いつ視線を離せば良いのか、そのタイミングが掴めないで。
・・・そして結局、今日の授業も相変わらず、見ているだけだった。茶木にとっての唯一の救いは、席の位置的に、向うから茶木が見難い、ということくらい。見ていても、見ていることを気づかれたりはしないということくらい。それが少しだけ、物足りない、残念、という気持ちを生んでなくもなかったが。
「それじゃあ、先週言ったように、今から・・・」
あとは、耳障りな教師の声も残念だと、茶木はこっそり思う。あの独り善がりの声を聞くだけで、何か肩が落ちそうになると。高校は授業料を払っているはずなのに、こんな人間の話を聞かないといけないのかと。払っているのは親だけど、とも。
「・・・をやるから、前から回す袋の中から番号が書かれた紙を取って、それに自分の名前を書いて・・・」
大体、こんな芸術性を欠片も感じない人間に音楽を学ぶなんて、それ自体が金の無駄だとしか思えない、とも。
「・・・に、書いた紙を入れるように」
かといって、早く終われとも思えない茶木だった。終わってしまえば、もう、見られないから。
板挟み? 二兎を追うものは何とかかんとか? 違うと茶木自身も分かっている慣用句を思い浮かべながら、前の席の生徒から回された袋を受け取る。明らかに、コンビニのビニール袋。エコブームで肩身が狭いその袋に指示通り手を入れて適当に一枚、紙切れを掴むと、隣の席の生徒に渡す。渡された生徒がまた同じ行為を繰り返して、今度は前の席の生徒に渡して・・・。
今時、こんなやり方で席替えをするのかよ、一番最後の奴は選べないだろ、そんな諸々の悪態を溜息と共に飲み込んだ茶木は、惰性のように手を動かす。そうして開いてみた紙に書かれた番号は、前方のホワイトボードに描かれた単純な絵の中で、後方の片隅を指し示す。
強引に選ばされた選択は、意外と幸運だったらしいなと、他人事めいた感想を込めて紙の端に書いた名前。あとは授業が終わったら、前の机に出しておけばいいだけ。それだけで、次の授業からは新たなスタートが切られる・・・なんて、どこかで読んだ小説の一文に良く似た感想を茶木が描いた、
その直後だった。何か、強烈な明かりが目の前で点灯するのを感じたのは。
茶木の視線は、重力より自然にその力に従い、再び斜め前方へ向かう。すると辿り着いた場所には紙切れを握り締め、前方・・・ではない方向へ顔を向けている、阿倍の姿があった。前ではなく、横へ。
一体何を見つめているのかと視線を追えば、追いついた先には彼女の隣の席で騒ぐ男子集団・・・の、中心的人物がいる。明るく笑い声を上げ、手振り身振りを加えて周りを笑わせている、茶木と同じクラスの男子が。
茶木は名前をすぐに思い出すことが出来なかった。ただ、クラスの女子が騒いでいること、隣のクラスの、そのまた隣のクラスの女子までが偶に見に来るのは知っている。つまり、スポーツマンタイプのもてる男。爽やかという単語が当て嵌まりすぎる男。
阿倍は、その男を見ていた。上目遣いで、誰にも気づかれることなく見ていた。見て・・・いるのではない。それは、そう、それは同じだった。あの教師に向けているものと同じ。見ている、なんて生易しい表現ではなく、茶木にとっては既に見慣れた、同時に今もって見慣れない目。
強く、鋭く、切りつけるような目。
あの、攻撃性があった。一切を排除しようという意思があった。死んでしまえと言わんばかりの悪意があった。そして、もう一つ。初めて見かける、少なくともあの教師に向けた目には映らなかった色があった。

──嫌悪、という色。

誰も、気づかない。誰も、気づいていない。それなのに茶木は気づいてしまった。見て、しまった。目なんて、逸らせない。逸らせる、わけがない。
どうして・・・と、そのたった一言が言葉という形に出来ず、茶木の胸の中で、口の中で繰り返される。どうしてそんな目を向けるのかと。相手はあの、存在自体が嫌悪の対象だとしか思えない教師ではなく、女子に大人気の男子なのに。それなのに、どうしてそんな目を?・・・と。
疑問だけが、際限なく積み重なる。でも、聞けない。少なくとも、茶木には聞けない。茶木の距離は見るだけの距離で、話し掛けるような距離ではない。ましてや、まだ茶木の中で予定している紹介すら行われていないし、してもらえる保証もない。
つまり、見ているだけ。疑問は重なるだけ重なって・・・いつかどうにかなるのだろうかという疑問すら、また重なるほど。
重なった疑問が重みに耐えかねて崩れ落ちるように、思い切って聞けたらいいのにと、夢見るように茶木は思う。しかし思うしかなく、他に出来ることがあるなんて思えず、じっと、瞬きすら惜しんで見つめて。
でもだからこそ、視界に入った。見るつもりで見たというわけではない。茶木が見つめていた先、その端に映っただけ。ただ茶木は視力が良い方で、見えるのは当然の結果だったのかもしれない。
阿倍の白い手。人工的な色が一切ついていない手、握り締められていたそれが、何の意図か、ゆっくりと解かれる。その動きを、茶木は見ていた。すぐに再び握り締められる、その動きすらも。そして二つの動きの間に垣間見えた、紙切れに書かれた数字。
想像すらしていなかった可能性を、想像する自由すら与えられずに奪われたことを、その時、茶木は知った。とても小さなその数字は、茶木が名前を書いた紙に載っていた数字とはあまりにも掛け離れていて、殆ど対角線上の、一番遠い数字だった。今、茶木が見つめることを自分に許している距離よりもっとずっと遠い、数字。
誰だ、意外と幸運だなんて勘違いしてたのは? っていうかこれ、あまりにもあんまりなんじゃ? つーか、やっぱりあの教師がキモイからか? 大体、席替えのやり方に問題があるって初めから思ってたんだっての! でもすみません、なんか謝るからやり直しませんか?
・・・等々、自身の声に良く似た声が頭の中で悪態大会を始めたのを、茶木はどこか遠い世界の出来事のように感じていた。近い距離の出来事なのに。
たぶん、逃避、という活動中だった。少なくとも、茶木の生命維持機能以外の全てがその活動をしていた。ただそれはつまり、身体は別の活動をしていた、ということで。
茶木の目は、まだ阿倍の方を向いたまま。殆ど動かない阿倍。その阿倍の傍で、数人の女子の視線を掴んで振り回す、もてもて男子君。名前を、まだ茶木は思い出せない。むしろ思い出したくもないと心のどこかで微かに思っていたのだが、その振り回す手の先にある、紙切れ。皆と同じその紙に、皆と同じように書かれている数字。
大した意味を持たないはずだったそれは、とても強い意味を持っていた。見ている、茶木の目には。
阿倍の数字と良く似た、数字。見間違えるはずもなく。
世の中の不条理を、茶木がはっきりと感じた一瞬だった。・・・どうして神様的なものは、一人に二物どころか詰められるだけのものを詰め込むのか? そのおかげで、何も詰められていない人間がこうして出来上がるのに。この責任、一体どうやって取ってくれるんだ。どうやってとってもらえばいいのかも分からないのに・・・等々。
「・・・んだよ、畜生」
とうとう零れた形ある悪態に、茶木の隣の席の男子が視線を寄越してくる。握ったままの紙切れ。「なんだよ、良い席じゃん」聞こえてきた悪態と紙に書かれた数字、その関連性を見つけられなかったらしい彼は、怪訝そうに、同じだけおかしそうに笑う。
「俺、真ん中。超中途半端だよ。その席、変わってほしいぐらい」
そんな良い席なら、誰だって変わってほしいんじゃない?・・・と、彼は続けて笑う。笑うから、笑い返すだけで茶木は何も言わなかった。
・・・変われるものなら、俺だって変わりたいよ、あの席に。
同意してもらうことすら出来ない、そんな願望を押し込めた耳に聞こえてきた終礼が、やけに茶木の癇に障った。
一斉に立ち上がる生徒達。すぐに茶木が立ち上がらず、少しだけ間を空けたのは、前を歩くのではなく後ろを歩く為。後ろでないと、その姿が視界から消えてしまうから。だから出て行く後姿を追って、いつだって歩き始める。
阿倍は、たった一人で歩いていた。いつだって、たった一人で。親しい女子がいないのか、同じ選択授業に親しい女子がいないだけなのか、どちらなのかは茶木は知らないけれど、とにかく、一人。
だから真っ直ぐに伸びた背を、背に掛かる黒い髪をいつだって見ている。見ている、だけ。茶木は、いつだって。
そして茶木が見ているだけの世界の中で、阿倍は唐突に立ち止まる。つられて立ち止まった茶木は、ゆっくりと顔を横に向けた阿倍の横顔と、少しだけ上げられた左手を見つける。顔の横まで上げられて、小さく左右に振られる手。阿倍の眼差しは、近くの階段を仰ぐ形を取って。
目を凝らす、茶木。左右に振られた手の意味を探す為に。凝らしてすぐに見つけたのは、最近良く話す・・・というより、良く話しかけている相手の姿。眼鏡の位置を直しながら、口元に淡い笑みを浮かべ、目を細め、軽く肩を竦めて階段を下りてくる。阿倍に向かって、下りてくる。
その下りてきた相手に、黒河に、親しげに、楽しげに、嬉しげに笑う、阿倍の姿。
近づきあった二人は、当然のように向かい合い、当然のように何かを話し始める。声は、聞こえない。ただ、とても気安い空気が離れていても茶木に伝わってきた。そして何より・・・何より茶木の目を惹いたのが、気を惹いたのが、阿倍から消えているあの瞳。一切見つからない、あの力。
突き刺すような、貫くような攻撃性。
一欠けらも、見つからない。茶木が隣の教室で見かける度に消えているのと同じように、黒河と向かい合っている様にも、見つからなかった。つまり、あの二人には向けられない。他の人間には、どんな基準なのか茶木には分からないくらい無差別に向けられているのに。
たった二人にだけは、ただ、笑う。
どうしてと、その一言だけ、一言だけでいいから形にしたいのだと、再びそんなことを茶木は思う。口に出来ない、形に出来ない思いを、確固としたものに変えるように、何度も何度も、思う。たった一言、なのに。
「あー・・・また前だよ。ってか、今とほぼ変わらない席ってのが意味分からん」
たった一言に、支配されていた身体。ふいに耳に飛び込んできた声に、茶木の肩が無意識に跳ねた。その振動を利用して振り向けば、教室から出てくるあのもてもて君とその仲間達の姿がある。不服そうに、憂鬱そうに新たな席に対する不満を述べながら歩いて、茶木に近づいてくる姿が。
茶木は、一度も個人的に話したことがなかった。だから動けないでいる横を、そのまま通り過ぎるだろうと、そう漠然と思ってもいた。ところがぼうっと見ていた茶木のその視線は、ふいに顔を向けてきた相手の視線にしっかりと捉えられる。少しだけ開かれた目、それから、これは人気が出るなと納得出来る、人懐っこい笑みを浮かべて。
「席、超良いとこ、当たってたろ?」
一番後ろの端だよな? ・・・と、いきなり掛けられた声がいきなり事実を言い当てるので、茶木は驚きのあまり、返事が出来なかった。どうして知っているのか、不思議で。でも口に出来なかった疑問は顔に出ていたらしく、彼はあっさりとその答えを口にする。
「さっき、机にクジ、置くとこ見えてさ。羨ましいなーって思って」
目には言葉どおり純粋な羨望が映り、そのあまりに素直な眼差しに、茶木は抱いていたはずの嫉ましさが解けていくのを感じた。解けて緩んで・・・つい、零してしまう。
「・・・じゃあ、変わってやろうか?」
変わっても良いのかどうかは、分からないけど・・・そう続けながら、変わってやろうか、ではなくて、変わってほしい、なのだと訂正する。口に出してはしない。茶木の中の理性的な部分が、それは駄目だと押し留めるから。
でも、茶木の心情的にはまさにそうだった。変わりたかった。変わって、ほしかった。どうしても、たった一言が。たった、一言でいいから・・・。
「・・・え? マジで? つーか、なんで?」
驚きを滲ませた声は、当然のように疑問を形にしてきた。どうして? それはそう、思うだろう。茶木は他の全ての人間にとって幸運な席を引き当てたはずなのだ。それを不運に部類される席と変えようとするなんて、彼でなくても『なんで?』だろう。
だからといって、説明することは茶木には出来ない。詳しい説明はするよりはむしろしてほしいくらいだったし、簡単な説明は恥かしすぎてしたくなかった。その為、必然的に口に出来るものは偽りだけになる。咄嗟に思いついたにしては上出来で、同時に、咄嗟に思いついたに相応しい程度に捻りのない、嘘。
「俺・・・ちょっと、目が、さ。そんなに良くないんだよね。前のボード、見え辛くて」
苦笑は、演技なのかそれとも捻りのなさに対する本物の反応だったのか。茶木自身分からないそれに、すぐに返る問い。
「そうなの? 眼鏡とかコンタクトは?」
余計なことを聞きやがって、そんな感想が、耳の奥から聞こえていた。深まった苦笑は、もう、理解すら遠い。
「どっちもなし。なんか、面倒で」
視力検査の結果は、もう誰にも言えないとか、でも茶月には言えるとか、そんなどうでも良い考えが、茶木の胸の内で楽しげに行き交う。一体何が楽しいのやらという、呆れたような感想も浮かんで、そうかと思えばすぐに消えた。
嬉しげな、輝かしい彼の笑みによって。その笑みだけで・・・もう、次の展開は広がる必要もないくらい、決定的だった。
「じゃあ、マジでいいんだよな? 俺、あとでブッチョに言っとくから!」
「・・・あぁ、うん。よろしく」
弾んだ声でそれだけ言って、周りの集団に自慢しながら、彼は歩き去る。その後姿を眺めながら、茶木はあの太り気味の暑苦しい音楽教師に『ブッチョ』という、蔑称なのか愛称なのか判じかねる呼び名がついていたことを思い出す。他の生徒が呼んでいるのを聞いただけで、茶木自身は口にしたことがないのだが。
でもそんなこと、茶木にとって今はどうでも良かった。つまり、どうでも良くないことがすぐ目の前にあったのだ。茶木の心臓が、少しだけ早いリズムを刻んでいた。口にしてしまった偽りの所為か、それとも、偽りが齎した結果の所為か。

「教室、戻るの?」

突然聞こえてきたその声に、その瞬間、茶木は本気で飛び上がりそうになった。心臓が、少しどころか異常値に達するリズムを刻み、喉の奥では引き攣った音が押し潰される。混乱、混乱、大混乱・・・でも、急速に収束。
「黒河」
茶木は数歩先に、自身を見ているその姿を見つけた。声を掛けてきた、相手の姿を。思い出せば茶木から見えていたわけで、それなら黒河が茶木の姿を見つけてもおかしくないわけで。
「戻るの?」
もう一度掛けられた声に茶木は頷いて、収まってきた心音に溜息を一つ飲み込んでから聞き返す。「そっちは?」と。
「戻るよ」
「そっか。・・・あ、じゃあ俺も戻るから、一緒に戻ろう」
「・・・うん」
茶木が大股で近づいて黒河の横に並ぶと、すぐに二人揃って教室へ向けて歩き出す。大して遠くないその先を漠然と思い描きながら、その時茶木はふと、気づく。黒河から声を掛けてきたのは初めてだと。
気づいてしまうと、何だか少し、嬉しかった。態々戻るのかと確認するということは、一緒に戻ろうと誘われる可能性に気づいていただろうし、それはつまり、誘われても構わないと思っていたはずだと。
少しだけ親しくなれたのか、もしくは慣れてくれたのではないかと、そんな可能性を見出したからこそ感じる、嬉しさ。茶木はそれをしっかり持って、短い道のりを歩く。時折、互いの選択授業の内容などの、他愛無い会話を挟んだりして。
横顔に感じる真っ直ぐな視線、その力を感じながら・・・。