long6-4

黒河の表情の意味を問うことは、茶木には出来なかった。すぐにやってきた教師がつまらない知識を披露している間に、取り落とした何かを拾うように、あっさりと黒河の顔には表情が戻っていたからだ。当たり前のように寡黙で無表情な顔が。
その横顔をこっそり覗き見ながら受ける授業は、当然、右から左に聞き流すだけで、何の身にもならない。ただ、いつもより圧倒的に緩やかな時間の流れを感じるだけ。切実なほど、終わりを願うだけ。
願わずともいずれは訪れるのに、聞き分けのない子供のように、茶木は何度も、何度も願って。ようやく終わりを告げる終礼が鳴った時には、小さく喜びの呻き声を洩らすほど願って。・・・早速、横を向いて声を掛けた。
「あのさ」その途端、あの黒い瞳が茶木に注がれる。「さっきの続き、あの二人って・・・」考えないで開いている茶木の口は、その先を失い動きを止める。
でも、短い休憩時間の喧騒の中、真っ直ぐに届く声が探す先を不要にする。
「小学校から一緒なんだ」
淡々と、何の味付けもされていない声。事実だけを、差し出す声。でもそれだけで充分だった。その事実だけで、充分だった。それだけあれば、終わらずに済む。続きを繋ぐことが出来る。茶木にとっては、それだけで充分だった。
「小学校から一緒って、結構凄くない? 小中一緒とかはよくあるけど、高校までって・・・。俺は中学から一緒の奴が隣にいるんだ。茶月っての」
「サツキ・・・」
「お茶に月で茶月。俺の名前と結構似てるだろ? そっちは? あの二人」
「嵯峨と阿倍。男の方が嵯峨で、女子が阿倍」
もう聞いていた名前、茶木が流れでもう一度聞いてみたそれに、黒河は淡々と抑揚のない声でとても真面目に答える。茶木に向けてくる視線は、一度も離れない。じっと、瞬きの少ない黒い目が、眼鏡のレンズ越に注がれる。
何かに隔てられている、そんな事実が信じがたいほど、真っ直ぐに。
初めてだった。殆ど初めて、茶木は黒河と向かい合った。それで初めて、茶木は気づく。普通の大人しい文学少年の印象が、やはりただの印象に過ぎなかったことを。
向き合った目には、力があった。少なくとも茶木が抱く普通の文学少年のイメージよりは遥かに強い、力が。・・・でも、茶木にとって初めてではない。勝手に抱いていたイメージと、掛け離れた強さを感じるのは。
「あ・・・」
小さく零してしまった茶木の声に、黒河が少しだけ目を細める。しかし茶木は曖昧な笑みに『なんでもない』という意思を乗せて誤魔化し、それでも蘇る時間に深く、納得した。似た経験が、一体いつ、誰に対してのものであったのかを思い出したから。たった一時間ほど前、茶木がすぐ傍にいた相手。
何となくだけど・・・茶月に似てるんだ。
茶木の目から見た印象としても、そこからのイメージとのずれも、とても良く似ている気がした。初めて茶木が茶月を認識した時も、普通の文学少年というイメージを持ったし、話してみて、そのイメージよりずっと強い感じを受けたのも同じだった。そう、同じ。同じに、感じて。
「なんかさぁ・・・」
自然と浮かぶ笑みが安堵を滲ませているのを、茶木自身、その時感じていた。入学して数週間、ずっと多少なりとも張り詰めていたのだと、知っていた事実を茶木は改めて知る。新しい環境に加えて、茶月とクラスが分かれてしまったので、心細かったのかもしれない。
特別淋しがり屋とかじゃないんだけど、絶対、違うんだけど、と何度か茶木の胸の内だけで繰り返される、呟き。
「なんか、黒河って・・・」
違うけど、でも多少は・・・と、そんな呟きも零れた後、今度は実際に声が出る。
「茶月に似てる」
口に出せば、茶木の中で勝手に抱き始めている親近感はいっそう、強まった。一番親しい友人と似た感じの人間が同じクラスにいる。その事実は、いまだ慣れない環境下ではそれなりに重要だった。否、大分、重要だった。少なくとも、茶木にとっては。
何故なら親しくなれる可能性が高く、そして学校生活において、同じクラスに行動を共に出来る人間を作ることは必要不可欠だと、茶木は確信していたのだ。
「そう?」
勿論、黒河の方がどう感じているかは別だということは茶木にだって分かっていたが、似ている茶月といまだに親しくしているのだから、ほどほどには親しくなれる可能性が高いはずだと・・・そう、思ってしまった。
「そうそう。なんか、超似てるって! 今度さ、体育かなんかで合同になったら、話してみろよ。絶対似てるから!」
おまけに茶月と黒河が話している姿を見てみたい、そんな願望まで生まれてしまった茶木が期待を込めてそう勧めれば、あまり表情のなかった黒河の顔に、少しだけ呆れたような苦笑が滲んで。
「そういうの、自分じゃ分からないだろ、普通」
馬鹿だなぁ、という感情が、口には出さずとも黒河の声に滲んでいた。ただ、茶木が腹を立てるような本気の感情ではなく、他愛無く思ってくれているのだと分かるもので、茶木にしてみればそんな反応も茶月に似ている気がして、益々、親しみを感じる。
そしてその親しみが・・・背を、押した。まだ会話を選ぶくらい腰が引けていた茶木の心を、励ましてくれた。酷いことや失礼なことを言いさえしなければ、きっと大丈夫だと。
「いいじゃん、話してみれば結構分かるかもだろ? って言うかさ、そん時は俺もあっちの二人と話してみたいから、紹介的なもん、してよ」
「嵯峨と・・・阿倍?」
「そうそう。ほら、まだ知らない人間ばっかりだから、お友達増やさないと」
ふざけた、口調。茶木は笑って告げて、それからまだ残っている躊躇が一瞬、目の前をよぎるのを感じたが、すぐに振り払った。大丈夫、この程度の軽口で本気で怒るような奴じゃない、と。
・・・但し、その時茶木が念頭に置いていたのは黒河ではなく、茶月だったりするのだが。
「つーかさ、あの・・・アベさんって・・・」
会話に割り込むように茶木の脳裏に浮かぶ、二枚の絵。あまりにも違う表情と雰囲気を持った、一人の絵。同じ人間を描いたなんて、どうしたら信じられるのか分からないほどに。
「どっちかと、付き合ってたりするの?」
なんか、凄い仲良かったからさー・・・なんて、とってつけたような続き。ついでに、俺も彼女作ってみたい、なんて、何度も思った気になって口にしたことがある言葉もつけ足して。
黒河は、大きな反応をしなかった。ただ、小さな反応はした。茶木から逸らされなかった目が、ほんの一瞬だけ下向きに逸れて、それから口元に笑みだと思える形を作る。良く見れば分かるぐらいの、本当に小さな笑み・・・の、形。
「それ、阿倍に言ったら怒られるよ」笑みの形をした口から零れる、起伏のない、声。淡々としているわけではない。ただ、何の起伏も感じられないだけ。「阿倍、そういう風に思われるの、凄い嫌がるから」また、同じ。同じ、声。その同じ声で、今までで一番はっきりした言葉が響く。
「友達だよ。全然、友達」
ほんの少しだけあったはずの笑み、その形は既にない。真っ直ぐな視線が、事実を事実として告げる。力在る、目。
「・・・あ、そう、なんだ」
嘘や誤魔化し、冗談といったものが全く当て嵌まりそうにないその黒河の目に、茶木が返せたのはそんな間の抜けた返事だけ。でも、軽く頷いた黒河に気にした様子はなく、次の言葉も、何もない。
代わりに聞こえるのは、本日最後の授業の始まりを告げる予鈴。いつも以上に間の抜けた音。そしてその音と同時に入ってくる、教師。
慌てて前を向いて教科書を取り出した後、茶木が横目で窺った時には、黒河はもう教科書とノートを広げて前を見ていた。会話の終わりの言葉すらなく、区切られた生活に切られた続きを気にする様子もなく、ペンを手に取って。
さらさらという音が聞こえてきそうなほど軽やかに動くペンは、とても綺麗な文字を綴る。茶月と、同じ。雰囲気が似ている奴は字まで似ているのかと思いながらも、茶木も同じようにペンを動かし、比べるのもおこがましいほど汚い字を綴る。教師の話は右から左に聞き流して、書くことだけに集中。・・・いや、本当は手以外は別のことに集中していた。
友達だよ、そう、黒河は言った。つまりあの阿倍の表情は、友達用なのか? 考えれば考えるほど、茶木の中で謎は深まる一方だった。授業中、一時間にも満たない時間の中ですら、少しだけ増えた知識が無限に広がり続けた。
友達だよ、そう、茶月に似た黒河は言った。あの彼女は、つまり普通に友達になれるような女子ということなのか? 男子と普通に友達、しかも二人もいるなんて感じの女子には見えないのに? 女子の友達はまだいないのだろうか? 外見は大人しそうな子なのに、男子と?
でもそれならあれは、友達がいない空間だったからあんな目をしていたのだろうか?
茶木の中で無限に増えた疑問は、有限を求めて彷徨う。黒河が返してきた答えは、普通の返事だった。
でも・・・その意味が知りたいと、茶木自身、よく意味の分からないことを思う。思って、しまう。知りたい、知りたいと、願ってしまう。初めてだった。茶木にとってそれは初めてすぎて、何が初めてなのかすら分からないけれど・・・、

ただ、知ってみたいと──具体的に、思ってしまっていた。