long6-3

彼女が、明るく笑っていた。


大声を上げているわけではない。ただ、楽しげな笑みを顔に浮かべて、何かを言っているのだ。茶木が何度も見かけたあの攻撃性など皆無で、幼ささえ感じる表情で話す。話、掛けている。
驚いた。茶木は本気で、声すら失うほど驚いた。彼女が、まるで普通の人間のように笑っているから。他人の死を願っているのではないかと疑うほど攻撃的だったのに、ただ、笑っているから。
だから驚いて、何も言えずに固まった。固まっていた。すぐ目の前にいる友人を、放っておく形で。
目を態と見開いて、肩を竦めてはすぐに屈託のない笑顔で笑う。笑う。笑う。ただの、少女のように。ただの、少女でしかないように。
「茶木?」放ったらかしにしている友人から、茶木にもう一度掛かる声。視線が同じ方向へ向かうのを感じて、茶木はようやく自分の友人と同じように放ったらかしにしていた口を開く。
但し、吐き出す声は情けないほど抑えたもの。休み時間の教室内で彼らを気に掛ける者なんて、一人もいないのに。
「わりぃ、ちょっと・・・すっげぇ、吃驚して」
「何が? ってか、あっちの奴ら?」
「そう。その、女子の方。選択さ、一緒なんだよ、あの子。でもうちのクラスじゃないなーって思ってたんだけど・・・このクラスだったんだな」
「・・・つーかさ、選択、うちとそっちで合同だろ? そっちにいないなら、うちにいるに決まってるだろ。なんでそんなに驚いてるんだよ」
「だから、いると思わなくって」
「だからって何? だから、そっちにいないならうちにいるだろ。それ以外のどこにいると思ってたんだよ」
茶月の呆れた声。でも、そんな声、茶木にとってみれば日常的に聞いている声なので、気にもならない。だから気にせず、考えず、普通に答えた。
「どこっていうか、何にも考えてなかった」
そう、何も考えていなかった。いない、同じクラスじゃない、そればかりで、自分のクラスにいないならどこにいるのかなんて、茶木は一瞬でも考えたことがなく。正直に、答えた。思うがままに、答えた。
茶月は、返事一つしない。
「・・・茶月君。茶木君のお願い、返事、して?」
返事は、ない。代わりに茶木に向けられる、真っ白な目。
とはいっても、黒目が白くなったとかいう、そんな生命の危機に晒されているわけではない。文学的な意味での白い目ということで、つまりは、そう、つまりは茶月の危機ではなく、茶月が危機的状況に追い込んでいるということ。対象は、勿論・・・。
「スンマセン、マジ、スンマセン。だから返事してください。んでもって、その冷たい目を止めてください。結構、マジで淋しいです」
中途半端な敬語での茶木の懇願。四割は冗談だが、残りの六割は『マジ』だった。何故なら白い目が、本当に真っ白だったから。
「茶木・・・少しくらい考えないと、マジでそのうち、動物園で展示されるぞ」
「展示? 動物園?」
「思考しない人間は人間じゃない。だから人間の形をした、世にも珍しい生き物的な展示されるんだよ」
まったく・・・と、溜息を吐きながらの茶月の言葉は、最高に辛辣だ。この辛辣さに中学生時代からずっと付き合っている自分はマゾなのではないかと、茶木は時折抱く危惧をその時も数秒、抱いた。
その後すぐに、辛辣ではあるけれど一応見捨てないでいてくれるので、マゾなのではなくて友情に厚いだけなのではとも思う。出来たら後者であってほしいと願うのは、茶木が一応、思考する生き物だからだが・・・今はそんなことは置いておいて。
「で? あの女子がどうした?」
やはり見捨てないでいてくれる茶月の言葉を、茶木は嬉しく思う。ついでに、自分がマゾではなくて友情に厚いだけだと証明された・・・と思い込もうともしていた。
「あの子、知ってる?」
質問に質問で返した茶木に、それでも軽く肩を竦めた茶月は、大して嫌な顔もせずに答える。
「阿倍だろ。苗字しか覚えてないし、話したこともないけどさ」
出席番号一番だから、自然と覚えた、と続いた言葉に、やっぱりあ行か、等とどうでもいいことを茶木は思う。
「ちなみに、隣は?」
会話を続けながらも向けていた茶木の視線が、ようやく彼女・・・阿倍と親しげに話している隣の男子の姿を捉える。真面目すぎない程度に真面目そうな、普通らしい普通の男子。
「・・・サガ、だったと思う。なんか、漢字が難しくて覚えてないけど」
上がる、笑い声。その瞬間だけ男子のことも気になったが、結局のところすぐに茶木の意識も視線も再び一点に集約される。
「あの・・・アベさん? 選択の時さ、席、やっぱり一番前で、俺の席、後ろの方でさ、見えるんだけど・・・」
思い出すまでもなく、思い出される眼差し。しかし今、向けている茶木の視線の先には、普通に笑う、一人の少女がいる。いる、けれど・・・選択授業の時にも、確かにいた。茶木の、視界の先に。
「選択の先生のこと、今にも刺し殺しそうな物騒な目で、ずっと見ててさ」
それも、毎回・・・と、今まで以上に抑えた声で茶木が教えると、茶月の目が驚きで見開かれ、その開かれた目の中に冗談みたいに真面目な茶木の顔が映り込んでいる。何度か、瞬き。それから、眉間に皺。
「・・・ソイツ、なんかしたのかよ?」
尤もな疑問。あの教師を見ていて、茶木も抱いた疑問。「違うと思う」そして、すぐに否定した疑問。
「アイツ、そんな大それたことが出来る感じじゃない」
絶対に違う、それは見る度に強固になる茶木の確信で、今もって崩れる気配はない。
「じゃあ、何で?」
怪訝そうな茶月の声。それは、当然の疑問。当然のように抱いて・・・答えは、まだない。
おそらく表情で察したのだろう。それ以上の疑問の追及はせず、代わりに微かに目を細め、茶月は彼女、阿倍のことを見ている。理由を、探すように。でも、きっと見つからない。茶木はそれだけは確信していた。いや、それだけを、確信していた。
笑い声が、上がった。
「・・・笑うんだな」
「茶木?」
「すっごい攻撃的な目か、教室出て行くとこしか見たことなかったから、なんか、不思議な感じ。ああやって、笑ったりもするんだなって」
「・・・そりゃ、するだろ。機械じゃないんだし」
「そっか。・・・そう、だよなぁ?」
あの音楽を学ぶべき場所で目にしたものと、今、実際に目にしているもの。同じ人間の行動なのに、どうしても結びつけられない茶木がそれを伝えれば、淡々とした声で諭されて。
当たり前なのかもしれないと、茶木もそう、思った。思ったが、しかしこうして笑う姿を実際に目にしていると、何とも形容しがたい気持ちになる。言葉が見つからない歯痒さに、つい、目の前の茶月に縋るような目を向けて、理由も分からず頼ってしまいそうになるほどに。
元より、よく知る相手ではない。話したことすらなく、今日初めて席を知ったくらいの相手。おまけに興味を感じてはいても、それは積極的なものではなく、受動的に眺めるだけのものだったはずで。
・・・けれどその時、茶木は思ってしまった。知りたいと。知りたいのだと、思ってしまった。
「茶月、あのさ・・・」何を言うつもりだったのか。茶木自身、分からなかったが、分からないままでよかったのかもしれない。突然、それは聞こえてきたから。
「阿倍、嵯峨」
よく通る声だった。少なくとも、茶木の耳にはそう聞こえた。どこにも引っ掛からず耳の奥に入ってくるような、とても気持ちの良い声。男の声に、気持ちが良いも何もないと茶木は考えていたが、理論立てて考えるよりずっと、ずっと簡単にそう感じて。
誰の声なのか、考える必要はなかった。茶木の視線の先、見つめる二人の元に、すぐにその声の主は姿を現したから。とてもよく知る姿で、現れたから。とても見慣れた姿で、現れたから。
だから茶木は驚きのあまり、感情を失った声で相手の名を零す。「黒河・・・」あまりに感情が聞こえないから、先は一瞬、誰の声なのかと疑問に思う。勿論、茶木自身の声なのだが。
「クロカワ? 知ってんの? アイツ」
「知ってる。・・・つーか、席、隣」
視線は逸らさないまま口にした答えに、茶月が「へぇ?」と義理だとしか思えない反応を見せる。ただ義理でも反応してくれるだけ、茶木にとっては有り難かった。義理でも一緒に注視する先を見ていてくれるのも、嬉しいことで。
「あっ、黒河、丁度いいところに・・・」
茶木が頼もしさすら感じて共に見つめる先で、嵯峨が楽しげな声を上げる。顔に、笑み。親しいのだと、その反応だけではっきりと感じられた。黒河に向ける嵯峨の声と表情に、それぐらいの気安さが滲んでいたから。
「丁度いいってなんだよ?」
そしてそれは、応える黒河も同じ。
「今さー、阿倍とも話してたんだけど・・・」
近くの壁に軽く凭れ掛かりながら話し掛ける嵯峨と、向かい合う黒河。二人を見上げて会話に混ざる、阿倍。
そこには黒河が来る前に交わされていた二人の会話の親しさが、そのまま残っていた。黒河も含めて親しい三人組ということが、他者にもはっきり分かるほどに。高校に入る前からの知り合い。茶木にも茶月にも、それだけは分かった。そして茶木には他に、多少の驚きを感じる新発見もあって。
「・・・意外」
「何が?」
「寡黙で孤独を愛する文学少年っぽいのかと思ってたんだけど・・・べつに、そうでもないんだなって思って」
独りでいることを畏れない、茶木は黒河にそんなイメージを抱いていた。だから席が隣にも関わらず、口を利くこともなかった。小説を取り出して読んでいる姿に、声を掛ければ嫌がられるのではないかと、そう、漠然と思っていたから。
ところが茶木の視線の先の黒河は、二人と会話を続けている。二人・・・というより、茶木にとって注目すべきは二人ではなく、その内の一人だけだった。
阿倍は、黒河とも普通に会話をしている。あの、目の醒めるような攻撃性はそこにもない。皆無、だった。
でもだからこそ、茶木は余計に気になってしまう。
いつも攻撃的だとか、偶々、虫の居所が悪かったとかならそこまで気にはならないのに、茶木が今、見る限り、そして選択授業で見かける姿を思い出す限り、彼女は理由を持ってあの攻撃性を発揮しているのが分かった。
そして分かってしまったからこそ、とても気になってしまった。どうしてと、思ってしまった。どうしてと・・・聞きたくなってしまった。
真っ直ぐなあの眼差しが、焼けつくようにとても鮮明だった所為もあるのかもしれない。
「つーか、寡黙で孤独を愛する文学少年じゃなかったとしても、だからって誰とでも仲良くなります、みたいなオープンな奴とは限らないと思うんだけど?」
まるで茶木の考えを見透かすような、茶月の言葉。ような、ではなく、完全に見透かされていると確信し、正しい意見だと理解していた茶木だが、しかし・・・その時には既に、茶木の中には珍しいほど強い感情が在った。いつもは流されるだけの感情が。
「オープンじゃないかもしれないけど、ちょっと話しかけるくらい大丈夫だろ?」
だから、食い下がる。茶月に食い下がっても仕方がないと、分かっていただろうに。
「・・・まぁ、そうかもだけどさ」
少しだけ態とらしい、溜息。茶木にも意味は分かっていた。ただ、従う気はなかった。そしてそんな茶木を応援するように鳴り響く、予鈴。間延びして数回鳴るその音が終わる前にと、皆が一斉に動き出す。所定の位置に戻る為に。所定にされた位置に戻る為に。
「じゃ」という一言と、軽く振った手の動きだけが、茶木と茶月の一時的な別れの挨拶。すぐに人が密集しているドアに茶木も同じように密集し、なんとか抜けたらすぐに教室へ向かう。目は、辺りを窺って。
落ち着きなく見渡す茶木の視線は、目的の人物を探していた。左右に向けて、何度も、何度も。
でもそれもすぐに終わる。探していた姿は、目の前を塊になって歩く複数の女子の集団を超えた場所に在った。背を伸ばし、真っ直ぐな姿勢で歩いている。その姿勢の良さが騒がしい集団と一線を画していて、騒がしさすら近寄らせない。
所詮、隣の教室。たった数秒でも迷えば、戻るべき場所に戻ってしまう。ましてや、遮る集団が幾つもあっては追いつけるわけもなく。
分かっているのに急く感情が茶木の背を押したが、足を縺れさせてしまい、結局茶木が追いつくより先にその姿は教室内に消える。茶木が慌てて入った時には、既に自席の椅子を引いていて。
目にしたら、急いていた茶木の気が更に急いた。それで半ば駆け寄って隣に位置する自席の椅子を引けば、酷くみっともない音が響く。黒河の時は、何の音もしなかったのに。
でもそのみっともない音が、茶木の最後の背を押す。茶木自身が感じている情けなさで、背を蹴飛ばされる。
「仲良いの?」
座ることもしないで、片手を椅子の背に、もう片手を机につけて茶木が掛けた声。俯いて、何かを取り出そうと鞄に手を入れていた黒河は、その動きを止めてゆっくりと顔を上げる。
静かに茶木に向けられる、瞳。立ったままの茶木を見上げるその瞳は、驚くほど黒目が黒い。天井に点いた光りを反射せず、全て呑み込むように黒く。
茶木はふと、阿倍を連想した。強烈な攻撃性を放つ、あの黒い瞳を。
「なに?」
茶木がじっと見つめる先から聞こえてくる、僅かに怪訝そうな声。つい先ほども耳にしたはずなのに、初めて聞く気がするその声は通りが良く、口調も短いながらはっきりとしている。茶木としてはもっと、文学少年らしく篭った、大人しい声と口調を向けられると思っていたのに。
「さっき、隣にいただろ? 俺も、いたんだけど・・・凄い、仲良さそうだったから。あの二人と。だから・・・」
ちょっと気になって、茶木はそんな当たり障りのない言葉を続けるつもりだった。それ以外に、続けようもなかったから。ところが予定したその先を、そのまま流れるように続けるわけにはいかなかった。
何故ならとても頭の良さそうな、冷静そうな黒河の顔に、瞳に、纏う空気に──茶木は、戸惑いすら感じそうなほどの驚きを見てしまったから。
たった一瞬のこと。でも、その一瞬をなかったことには出来ないほど、それはとても、とても強かった。