アイツ、何したいんだろう、というのが選択科目として選んだ音楽の授業での、教科担当に対する茶木勇志の一番初めの疑問で、三番目の感想的な感情だった。
ちなみに、一番初めに向けた感情は『微妙』で、二番目は『無理』だった。勿論、良い方の意味ではない。
授業開始とともに自身の経歴を自慢げに語り、趣味趣向を陶酔して語り、授業方針と採点の仕方をさらりと流すように語ってからまた自分の半生に話が戻るのだから、『無理』にもなろうものだ。
早々に話を聞くことを放棄したのは、おそらく教室に集まっている生徒のうち、八割くらいだった。選択科目なので、クラスが別の者も多く、何より、高校入学してからまだ数日、クラスメイトとすら馴染んでいない状態で、当然、親しげな雰囲気なんて醸し出されていない。
しかしそれでも授業が始まって数十分で一斉に教室に倦怠感が溢れ出し、横に繋がる連帯感じみたものまで生まれたのだから、ある意味において、語られる内容は相当なものだろう。相応のものかもしれないし、双方のものかもしれないけど。
とにかく、壇上で熱弁を振るい続けている教師すら含めて好き勝手な人生を謳歌している、教室内での茶木の疑問だった。浮かんだ、それは。
そう、だから・・・初めは飽き飽きしていた感情が促すままに教室内に投げていただけだった茶木の視線。目的も定めず、亡羊と漂わすだけの時間は数分程度。数回往復しただけでそれすら飽き飽きし始めた行為を、意図せず終わらせようとしたその時、憶えたのだ。違和感に近い、引っ掛かり。
通り過ぎた地点に引き戻そうとする力、逆らう意志もなく引き戻され、引っ掛かるままに向けた茶木の視線の先は、二列右隣、前方、一番前の席。
真ん中より後方に当たる位置に座っている茶木からは斜め前に当たるそこに、おそらく苗字が『あ行』の女子が前方を向いて座っていた。少しだけ丸めた背中、机に両膝を立てて、開いた掌で頬を包むようにして顎を乗せた女子が。
真面目そう、それが茶木の第一印象。
真っ黒な髪と、その髪を後ろの低い位置で一つに結ぶヘアスタイル、髪を結ぶ黒いゴム、化粧っ気のない横顔、それに何のアレンジもない制服。スカートの丈も規定通りで、周りが短い中、その長さは逆に目立つ。膝が隠れるスカートなんて、教室内を見渡しても他に見当たらないのだから。
ただ、彼女が茶木の目に留まったのは、真面目そうだからという理由ではなかった。勿論、スカートの丈が理由でもない。・・・はず。亡羊と漂わせていた視線でスカートの丈が気になったのだとしたら、流石にそれは情けないので。
そして幸か不幸か、そんな情けない理由ではなく、視線が引き寄せられた理由は他にあることを、茶木自身が気づいていた。目的を持ってしっかりと視線を定め、第一印象を通り過ぎると、それはとても簡単に気づくことが出来る。
気づかない、わけがない。
それぐらい、目立っていた。どうして他の、たとえば隣に座っている派手そうな女子が気づかないのかが不思議なほどに。
化粧っ気はないけど、色白で滑らかそうな横顔。白いからこそ印象的な、黒い目。茶木から見えるのは左側だけだったが、その片方だけでも黒目が大きいと分かる、その目が原因だった。黒い部分が大きいからこそ、余計に。
瞬きも殆どせずに前方に据えられた、貫くような眼差し。
──純粋な、攻撃性。
他の一切の感情を排した、透明で、鋭角な何かを連想させる眼差し。あまりの力強さに気圧されて茶木が向けた眼差しの先には、当たり前のように興味を失っていた教師がいた。
相変わらず自分に陶酔している教師が。でも、陶酔しているだけの教師が。
何もしていないだけで、茶木には何かをしたようにも、出来るようにも見えない男。無意識のうちに断定していた事実を茶木はもう一度確認してから、ゆっくりと視線を戻した。息を、止めて。
すると戻した先には、目を逸らした数秒前より更に鋭い攻撃性を孕んだ目があった。一途、という単語を茶木は生まれて初めて、思い描く。
しかし描いた一瞬後には、掻き消していた。茶木の中で、一途という単語はもっと可愛らしいイメージをしていたからだ。目にしている眼差しは、そのイメージとは掛け離れている。
もしやこれは殺意というものかもしれない、そんな物騒な発想さえ頭の片隅に浮かべた茶木が、それ以外の大部分に浮かべた考えは『アイツ、何したんだろう』だった。何もしていないのにあんな目で見られるなんて、ちょっと考えられないと。・・・が、暫し色々考えてみても、やはり何かしたとも思えずに。
殺意を抱かれるようなことが出来るほど、度胸があるわけがない。
たった数分での断定。茶木自身、自分の観察力にそこまでの自信はなく、傲慢な断定だと言われれば反論する気もないのだが・・・しかし今も尚在る、研ぎ澄まされた刃に似た、真っ直ぐな強い眼差し。触れたら切れると承知のうえで、表面だけでも撫でてみたくなるような、白い輝きにも似た、眼差し。
艶やかで冷ややかに、滑らかで不安定な。
じっとじっと、茶木は見ていた。目を離すことが、酷く恐ろしい気がして。一瞬でも目を離したら最期、その刃が向くのではないかという予感すら抱いて。茶木勇志は、見つめ続けていた。
不安か期待。もしくは、その両方。
だから、目を離せない、離さない。たとえ茶木に向くことがなくとも、その時には既に惹き込まれていたのかもしれない。巻き込まれて、いたのかもしれない。
──あんなにはっきりした形の感情なんて、今まで見たこと、ない。
結局、何も教えてもらえない時間の間、茶木はずっと見ていた。チャイムが鳴って、皆が席を立って、茶木も席を立って。ゆっくりと向かう、ドア。その先の廊下に出て、先に出た彼女を探すことすら、自然な流れのように。
見つけるのは、少し先を歩く後姿。真面目を形にしたような、揺れる黒。
短いスカートを揺らして数人で固まり、原色を撒き散らす女子の間をたった独りで歩く後姿には、あの攻撃性は見つからない。むしろそんな単語を知らないのではないかと思うほど、大人しく。
けれど茶木は、数メートル後ろを歩いている自分が見たものを疑うことが出来ないほどには、リアリストで。
あ行の名前を持つはずの女子の名を、茶木は知らない。顔も、正面からは見てない。横顔だけは見たが、声なんて全然聞いてない。
でも、声より確かな剥き出しの感情を目の当たりにした。知っていることは、それだけ。掻き集めた知識を確認しながら戻ったクラスには、どれだけ見渡してもあの黒はなく、それでようやく、隣のクラスだということも知った。
・・・知ったが、どうあってもそれ以上のことを知りたいとか見たいとか聞きたいとか、そこまでの感情は茶木にもなかった。
席に座って、次の授業が始まれば少しずつ記憶も薄れ、遠退き、剥がれていく程度のこと。ただ、完全に忘れることもない。しいて言うなら、次の音楽の授業が少しだけ気になる程度。退屈な授業の間、その授業から開放される休憩時間に思い出して考える程度。
あの目は、感情は、一体なんだったのだろうかと。
本当に、その程度だった。・・・少なくとも、茶木勇志にとっての始まりは。
ところがその程度だった始まりが、その後、その程度で済まなくなっていくのだが、その理由は主に二つあった。一つは、ある種、必然的なもの。巡ってくる音楽の授業、その度に見つける、形になっている感情。
・・・茶木だってべつにずっと見ていたわけではない。そうではないのに、見つけるのだ。何度でも、見つけてしまうのだ。
死んでしまえ、そう言いたげな、殺意すら込めた眼差しを。
あまりに鮮明に、焼きつくようなそれを何度でも見つけるので、見つけるたびに茶木の中に焼きつけられた。見つめる目に、瞼の裏に、脳裏に。どうしてそこまでと、茶木自身、半ば呆れそうにすらなったのだが、だからと言って目を閉ざすわけにもいかず。
そして二つ目の理由。これは、一つ目の理由よりはっきりしていて、突きつけられた事実に、何も考えないでただ時折気にしていただけの我が身を、茶木は最高に呆れ返る形で思い知る。
本当なら、あの黒が教室で見つからなかった時点で気づくのが普通なのに、これはもう、物覚えが悪いとかそういう問題ですらないと。
何度目かの、目撃の後だった。茶木が隣の教室に向かったのは。いつもだったら廊下で落ち合うくらいで、あとは一緒に帰ったり寄り道したり、つまりは自分の教室以外は入らない。
つまりはつまり、その日、茶木は高校入学以来始めて隣の教室に足を踏み入れた。少しだけ環境に慣れた為、他愛無い用事で何気なく足を向け、その先で考えれば初めから分かっていたはずの現実を見つける。
茶木の中学からの友人がいる教室。入口から中を覗いて席を確認し、他の人間になるべく接触しないように一直線に目指して・・・到着した場所で、茶木は少しだけ怪訝そうな顔をした茶月英士に笑い掛けた。
大した用事ではないのだと、ちょっと遊びに来ただけだと、そんな意思表示。机の横に並んで、座っている茶月を立ったまま見下ろして。開いた口は、他愛無い用事に相応しい他愛無い形を象って・・・その動きを失う。
視線を、動かせない。何故なら向いたその視線の先には・・・あの、彼女が。
考えれば当然だった。選択授業は隣のクラスと合同。茶木のクラスにいないのなら、隣のこのクラスにいるに決まっている。決っているのに、今の今まで、その目で見るまで茶木は考えてすらいなくて。
信じがたかった。・・・というのは言いすぎかもしれないが、少なくとも茶木にとってみればそれに近かい心境だった。
「茶木?」茶木に掛けられた平坦な声は、目の前で座る茶木の友人、茶月のもの。でも、今は返事が出来ない。彼女が、茶木の意識に引っ掛かり続けた彼女が、ほんの僅か先で、彼女が・・・。
彼女が、明るく笑っていた。