long6-23

──二人は、繋がっている。

そんな漠然とした印象だけが広がる時間。無限に増殖していくそれが唐突に途切れたのは、背後から聞こえてきた良く通る声の所為だった。茶木の薄っすらした記憶の中で覚えがあるような声と、覚えがあるような名前を象る言葉。「クロ!」一番顕著に反応したのは、呼ばれた当人ではなく、茶木だった。
「教室、戻るんだろ?」
一緒に戻ろう・・・と続いたそれに茶木が振り返れば、少しだけ離れた位置に立っている嵯峨圭の姿があった。何故か、少し困ったような表情を浮かべた嵯峨の姿が。そしてその嵯峨の真横には、背筋を綺麗に伸ばした、阿倍の姿もある。
酷く不愉快そうに、茶木が魅入られずにはいられないほど純粋な、あの攻撃的な視線を・・・間違いなく、茶木に向けて。

死んでしまえと、言わんばかりの瞳。

「じゃあ」軽い、声がした。茶木が誰の声なのかを認識するより先に、声は左から右へと通り過ぎ、掴まえることが出来ずに失われ、結局それが誰のものなのかを知ったのは、耳ではなく目で捉えた情報によってだった。
茶木の視線を釘付けにしていた阿倍が、茶木の視線を磔にしていた阿倍が、その目を逸らして・・・ゆっくりと背けられる顔。隣に並ぶ、嵯峨。並んで歩き出した二人から、一歩下がった位置につく、黒河。
向かう方向は、茶木も茶月も同じ。しかしそんなことが信じられないほど自然に三人は、三人だけで歩いて行く。歩いて、その場から遠ざかっていく。振り返ることもなく、三人だけで。
その姿を、一歩も動けずに見送っていた茶木は、何も考えられず、何も出来ず、ぼうっとしているだけだった。どこから何を考えて、何をすればいいのかがさっぱり分からなくて。ただ分からないながらも、漠然と、たった数分の間に色々なことが起きたのだと、それだけは感じていた。だからこそ、立ち尽くすことしか出来なかったのだが。
「俺らも、そろそろ行かないと」
「・・・えっ? あ、あぁ・・・」
肩に軽い衝撃を感じたのと同時に聞こえてきた声に、茶木の口は勝手に間の抜けた声を零す。身体も予期していなかった衝撃に跳ねたが、その動作のおかげで動きやすくなったのか、思ったより簡単に動いた顔で声の方向を向けば、そこにはいつの間に自由を得ていたのか、いつも通りの茶月が普通に立っていた。
いつもと変わらない・・・いや、いつもより楽しげな、茶月が。あの笑みを残した、茶月が。
「・・・茶月?」
「行こう」
もう一度、感じる衝撃。動かない足を促す為に叩かれた茶木の肩は、また同じように跳ねたが、その後は大人しく茶月に従い、動き出す。戻るべき場所に向かって、あの三人が先に向かったのと、同じ方向へ。
歩き出すと途端に茶木の中に鮮やかに蘇る、ついたった今のこと。続く先に向かって行った三人の姿。その前に向けられた、阿倍のあの眼差し。蘇ったその瞬間に、また茶木は何も考えられなくなる。あの、あの、あの・・・実際に目にしたことはない、何か、空想の中の名刀、その刃の煌めきにも似た、目。それが向けられたのは、あの時、向けられたのは、間違いなく、茶木だった。少なくとも茶木はそう、思うのに。何か、癇に障るようなことをしてしまったのかもしれないのに。
哀しい? 辛い? 痛い? ・・・どれでも、なかった。どれにも、当て嵌まらなかった。理由なんて茶木自身にすら説明出来ないが、それでも茶木は確信していた。これは、そんなものではなくて──、
「・・・なんかさ、さっき、あの、阿倍さんに・・・超睨まれたっぽいんだけど・・・」
「みたいだな」
「・・・スッゲェ、ゾクゾクするのはあれかな? やっぱり、甘酸っぱい感じなのかな?」
「・・・それ、酸っぱいって言うより、腐っている方だと思うけど」
まぁ、もうどうでもいいけどさ、俺は・・・という、どことなく投げやりな茶月の声が聞こえてくる。実は茶木も茶月が投げやりになる気持ちが分からないでもなかったのだが、投げ出されては寂しい身としては、茶月の腕を掴んで「見捨てんなよ」と冗談混じりに訴えずにはいられなかった。
俺とオマエの仲だろう、と。
ゆっくりと進んでいた足が、その時、ふいに止まる。それは茶月の足が先に止まって、茶木の足がそれに合わせる形で止まったのだが・・・止まる理由が分からない茶木は、少しだけ驚いて茶月を見る。するとじっと前を見ていた茶月は、そのまま何かを呟いた。完全な独り言。すぐ隣にいた茶木にすら聞き取れないほどの小声は、おそらく口の中だけで生まれ、口の中だけで形を失っていた。
そして茶木を無視したようなその独り言の後、滑らかな動きで首だけを横にいる茶木に向けた茶月は、目を僅かに見開いて、その開いた目を微かに輝かせながら、抑えようとして抑え切れなかったらしい笑みを滲ませて口を開く。
先ほどは誰にも届けなかった、声を。
「よく考えたらさ・・・大昔じゃあるまいしってことだよな」
「はぁ?」
「だから、今時は・・・」

主人公っぽくない奴が主人公ってのも、珍しくないよなって。

「他にさ、主人公っぽい奴がいるのに、ソイツじゃなくて他の、脇役っぽいのが主人公ってのもよくあるだろ?」
「・・・まぁ、そうかも。主人公っぽい奴が主人公って、普通すぎてつまんないから、今は逆に少ないかもな」
「だよなぁ。そうだよな」
何故いきなり主人公論になっているのか、茶木にはさっぱり分からなかった。脈絡がないっていうのはこういうことを言うのかと、茶木にしては少々、高尚なことまで考えてしまったのだが、茶月にしてみれば、茶木が多少高尚なことを考えていてもそんなことは全く関係がないらしく、ひとり、何度も頷いている。茶木には、何の説明もなく。
真横にいるのに全く分からない話題が始まって、そうかと思えば勝手に終わってしまうのは流石に少し淋しい感じがして、茶木の伸ばした手は再び茶月の腕を掴む。掴んで、軽く引いて、それから言うつもりだった。何かを。しかし茶木が腕を引いたことで戻ってきた茶月の視線は、その途端、笑みの形を作る。珍しいほどはっきりとした、あの時と同じ笑み。
楽しそうな、嬉しそうな──ほんの少し、意地の悪さを滲ませたような、笑み。
「茶月?」
「戻らないとな」
茶月の方から立ち止まったのに、まるで茶木が先に立ち止まったかのように、茶月は突然また歩き出す。茶木の返事も待たず、反応出来ているのかどうかすら確かめずに足を踏み出して、次の足をまた動かして。
反応が遅れ、自然、見送ってしまった茶月の、その、横顔。茶木に見えたのは、ほんの一瞬。先を歩き続ける茶月の姿は、すぐに後姿に変わる。だから、本当に一瞬だけ。一瞬、だけだったけれど。

「・・・ちょっ、待てよ!」

その、たった一瞬だけ見えた横顔。そこに残っていた、笑み。すぐに見えなくなったその笑みは、何故か・・・そう、何故か・・・。


──初めて見かけた時の、彼女の横顔にも似ていた。