──だって、他には何もない。
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終礼の後、すぐに茶木が教室を飛び出したのは、一時間足らずで溜まりに溜まった諸々が、既に抱えきれなくなっていたからだった。そして重いそれらを抱えてどうするのかは、茶木の中でしっかりと決まっていて、廊下に出て半ば駆け足になりながら目的地へ向かう最中、向かうはずだった当の目的地・・・というか目的の人物が丁度階段を上ってきた姿を見てしまい、溜まっていたものが一気に噴出すのを堪えることは出来なかった。
「茶月!」
書道道具一式を抱えた茶月に向かって廊下一杯に響き渡るような声を上げ、驚いて立ち止まったところを突進する。当然、いきなり突撃されて物理的な痛みを感じた茶月の抗議が上がったが、しかし今はそんな些細なこと、茶木に取り合う気など全くない。茶月が感じている物理的な痛みより、自分が感じている心の痛みの方がずっと深い痛みだと断言出来てしまっている茶木にとって、友人がそんな深い痛みを負っている時くらい、ほんの少しの物理的な痛みは耐えるべきだと信じているからだった。
だから茶月の抗議には取り合わず、勿論しがみついている腕も解かず、眉間に皺を寄せて身を捩ろうとしている茶月に向かって切々と訴えた。・・・万が一にも阿倍が通りかかった際、聞かれないように小声にすることだけは忘れないで。
「ちょっと聞け! 俺の話を!」
「その前にこの腕、放せ! 苦しいんだよ! しかも教科書当たってる!」
「もう、全部俺の話を聞いてからにしろよ、まずは俺の話を聞け!」
「聞けるか! いいから放せ!」
「それがな、ちょっ、マジ、ショックなんだけど・・・」
「オイ!」
「席が! 席替えの席がぁー!」
小声ながらも半ば叫び声と化した茶木の訴えは、途中までで感情の高ぶりの為、声に詰まってしまった。額を茶月の肩に押し付けて、ドリルのように小刻みに揺らしながら力を込めつつ、言葉にならない感情を示して約数秒。・・・何故か茶月は無言だった。つい先ほどまで入れていた突っ込み的な反応すらなく、無言。
あまりにもしっかりとした沈黙が広がるので、茶木の昂ぶっていた感情すら一旦納まりを見せ、押し付けていた額を離して顔を見上げれば、茶月は不思議なくらい静かな目を向けていた。突然だろう茶木の言動に対する驚きも、怒りもなく、本当に静かな空気を纏って。
「茶月?」思わず掛けた茶木の声は、先ほどのものとは全く違う、微かな呟きにも似たものだった。ただどれだけ小さな声だろうと、ここまで距離が近ければ聞き逃されることはない。目を細めた茶月は、茶木の声をきっかけとして広げていた沈黙を破り、口を開く。
「席・・・あの子の隣じゃなかったの?」
淡々とした声で、視線を逸らすことなく向けられた茶月の問いに、一旦は収束していた諸々が茶木の中に一気に戻ってくる。そしてそれは当然、一定の方向・・・つまり茶月に向かって流れ出して。
茶月の腕を掴んでいる手にいっそうの力を込め、絡む視線にも力を込めて、茶木は全力で訴える。「それがなっ、ちょっと聞けよ!」という、何度も繰り返した単語を皮切りに、約一時間前に起こった悲劇を切々と。言葉という形にすればするだけ高まる感情は、抑えていた声すら時としてその制御をなくし、気を緩めればすぐにでも廊下一杯に響きそうになってしまう。
寸前のところで抑えながら、何とか語る悲劇の全て。語り終えるまで、茶木には周りなんて一切見えないでいた。・・・が、語り終えれば見えない振りも出来ず、自然と離れていた意識が戻ると、再び広がっていた沈黙の存在に気づかずにはいられない。
「・・・茶月?」
何度目かの、問い掛け。自然と零れるそれに、茶月はいつの間にかどこか別の場所へ向けていた視線を茶木に向けてくると、穏やかな無表情を浮かべていたその顔に、波立つように緩やかに、滲むような笑みを広げる。
形容し難い、不思議な笑み。
「茶月?」
「うん・・・アレだよね、ご愁傷様、みたいな?」
その笑みに茶木が問いの数を重ねれば、柔らかな声が冗談めいた口調で悲劇に対する感想を述べた後、小さく首を左に傾けられる。口調以上に、冗談めいた仕種で。
べつに、その口調や仕種に茶木が腹を立てたわけではない。ただ、形になっている以上の何かを含んでいる気がするそれに、開いた茶木の口はその意味を問う形の言葉を吐こうとしていたのだが、ふいに視界の端に登場した姿に気を取られてしまい、「あ」という間の抜けた形だけを作り出す。
先ほどの茶月と同じように、階段を上ってきた──黒河稔の姿。
茶木の声と流れた視線を目の当たりにした茶月が、つられるように黒河の方を見たのと同時に、気配を感じたのか、黒河もまた、視線を向ける。二人の姿に少しだけ驚いたような様子を見せた黒河は、しかしすぐにその驚きから醒めると、変わらぬ速度で足を動かし、必然的に茶木達との距離は近づいて。
一番近い距離、これを過ぎれば後は離れていくばかりという位置にまで三人が近づいた時、最初に声を発したのは茶木でも茶月でもなく、黒河だった。
「どうしたの?」
抑揚のない、声。問い掛けながらも全く興味がないかのような声を、それでも茶木は意外に感じた。全く無視はしないまでも、軽く声を掛けるくらいで通り過ぎていくようなタイプにしか思えず、自主的に問いを発したことがとても不思議な気がして。
だから、茶木は咄嗟に何も応えられなかった。瞬きを何度も繰り返す以外の反応が、取れなかった。しかしそんな茶木を余所に、茶木にしがみつかれたままの茶月は、選択授業以外で口を利く機会がないとは思えないほど滑らかに、その口を開く。
「あのね・・・」一旦、切れた言葉。その切れ目に込められた、意味ありげな空気。「茶木がさ、選択、席替えだったんだけど・・・」何故か零れる、微かな笑いの気配。誰が洩らしたのかと茶木が確認するより先に、再び・・・、
「期待外れの席になったんだって」
朗らかな声と、それに似合う明るい笑みが茶月の横顔にはあった。確かに、あった。そしてそれを見つけたすぐ後で、茶木は不思議な光景を目に、耳に、する。見つけた横顔、その視線の先にある、顔を僅かに伏せている黒河。俯いた、その顔。
見間違いでもなんでもなく、そこには笑みがあった。つい数秒前、見かけた笑み。茶月の横顔が浮かべていたのと、全く同じ笑み。黒い瞳をゆっくりと覆う薄い瞼に、僅かに弧を描く口元に、気の所為かと思うほど微かな頬の影に、笑みが。
「・・・まぁ、そういうことも、あるんじゃない?」
しかたないよ・・・と、黒河は息を吐き出すような口調でその言葉を零した。平坦な、それなのに何かを含んでいるような呟きを。何を含んでいるのか、茶木には分からない。分からないのに、微かな気配がした。否、もしかすると気配ではなく、予感だったのかもしれない。どちらともつかないほど微かなそれを追って茶木が視線を戻せば、横顔を向けたままの茶月の笑みが、まだそこに残っていた。
黒河に向けた、笑みが。
向けている先を意識した途端、茶木は、まるで俯瞰するように二人を見つめている自分に気づく。そして気づいた途端、また気づく。黒河が、伏せていたはずの顔を上げていたことに。上げた視線が、茶月と繋がっていることに。
──二人が、繋がっていることを。
何かを言おうとして開いた茶木の口は、すぐに行き先を失って開いているだけの役立たずと化す。二人を俯瞰して、俯瞰したまま見上げて、見上げたまま見つめて、どうしたら良いのかが分からずに、茶木はただ、立ち尽くす。何故、繋がっているのか? クラスも違う、普段一緒にいるわけでもない、二人が。
選択は一緒だったっけ・・・と、茶木は今更忘れていた事実を思い出したが、それが何かの役に立つわけでもなく。あまり何も考えられないまま、二人を見つめていた。視線だけで会話を交わしているようにも見える、二人を。
親しそうではなく、親しくなさそうでもなく、楽しそうでもなく、楽しくなさそうでもなく、つまりは、よく分からないままに。
──二人は、繋がっている。