やっぱり・・・茶月に、似てた気がする。
音楽室へ向かいながら、どうしても繰り返し思い出してしまう光景に、最後に出た茶木の結論は最初に出た結論と同じものだった。茶月が浮かべた笑みに似た、笑みを思わせる何か。元々似ている二人だとは思っていたが、でもあの笑みは、似ているというより同じと言った方が良いくらいな気がして。
しかも理由がいまいち分からないという点は、全く同じ。不思議と、茶木の胸に何かの後味のように残るのも、振り向きたくなるのも同じ。
ただ、勿論振り返ったりはしない。今は向かわなくてはいけない場所があるし、向かいたい場所がある。そして近づくごとに、他の考えを失っていく理由もある。大して長くない道程が長く感じられる理由も。そして交互に足を踏み出せば、いつも通り当然の結末として目指した場所へと辿り着く。
音楽室、と分かりきった事実をプレートで主張している、部屋。一般的な教室とは少しだけ違う雰囲気を持ったドアは、乱暴に閉められた証に少しだけ開いている。隙間から聞こえてくる騒ぎ声とざわめき、楽しげな笑い声。途端に込み上げる笑みを飲み込んで伸ばす茶木の手は、震えていないのが不思議なほど、激しい動揺を宿していた。
その先に、この十数日間何より楽しみにしていた答えがあるはずだった。クジの結果ではない。それはもう、どうでもいいことだった。何故なら結果は分かっていて、分かっていたから手を打ったのだ。
つまりはその打った手が確かな現実としてそこに広がっているのを、目の当たりにするだけのこと。
零れそうな笑みを意志の力だけで抑え込み、茶木は伸ばした手でドアを押し開ける。それと同時に踏み出した足は大きく前に突き出され、開かれた場所への第一歩目を、記念的な形として成し遂げて。
茶木の目は、落ち着きなく目の前の光景を彷徨う。どこから見ればいいのか、判断出来ないままに。ただそうして忙しく動き回る中、偶々教室の一番前方に見覚えのある形で記載されているものが茶木の目に入る。
名前入りの、席順。
あれを頼りに席に着けばいいのだと、茶木が今更のように理解してじっと見つめる先。知っているはずの自分の席を・・・正確には、自分の席に変わっている場所を求めて見渡す中、それはあった。それ──彼女の、阿倍あづさの、名前。そして、同時に見つけた。見つけて、しまった。
彼女の傍に、茶木勇志という名がないことを。
「・・・え?」
驚いた。茶木はその場に馬鹿みたいに立ち尽くして、ただ、驚いた。自分の声があまりにも間の抜けていることを、まず、驚いた。それから、そんなことに驚いている間が抜けた思考力に驚いた。そして、その後に・・・ようやく、まともな思考で驚いた。
どうして、どこに、俺の名が、と。
亡羊と、大きな字で張り出されている紙を眺めるけれど、一番見慣れているはずの名前がなかなか見つからない。端まで行っては戻り、戻っては行くを繰り返して、それでも見つからなくて。予鈴が鳴るまで見つからないかもしれない、そんな笑えないほど間の抜けた状況まで想像しながら立ち尽くしたのは、一体どのくらいの時間だったのか。
いつまでも繰り返しそうな無意味な時間は、唐突に終止符を打たれる。茶木がすっかり存在を忘れていた・・・存在どころか名前すら忘れていた、というよりそもそも覚えてすらいなかったかもしれない、存在によって。
「わっるい!」肩を掴まれ、同時に、酷く軽い声が耳に届いた。謝罪だと茶木にはすぐに分かったのだが、その意味も相手も分からないまま条件反射として首を動かせば、掴まれた肩の側には、どこかで見かけたことがある男子が立っていた。いかにも明るそうな、いかにも人気がありそうな、男子が。
こんな、人の中心にいつでもいるような男に声を掛けてもらう理由なんてあったっけ?・・・という茶木の疑問は、ほんの一瞬で解消された。答えを、その男子からすぐに与えられてしまったから。明るい笑みと、朗らかな声で。
「席さ、ブッチョに頼んだんだよ、俺、ちゃんと。でな? 初めは良いって言ったのに・・・なんか、昨日になって急に駄目だってさ」
「・・・駄目? え? なに・・・」
「そうなんだよな、駄目の意味が分かんねーよなぁ? でも、一人一人の要望聞いてたらキリがないってさ。そんなに目が悪いなら眼鏡掛けろまで言ったんだぜ? アイツ、超横暴じゃね? しかも一回は良いって言ったくせに・・・教師がころころ意見変えたら、駄目だよな? ったく・・・あ、でもそういうわけだから、ゴメンな? でも、俺もスッゲェー残念なんだぜ?」
物凄く軽い笑い声と、それに負けず劣らず軽い溜息が聞こえた。軽くて軽くて、すぐさまどこかに飛んでいきそうなほど、軽い溜息が。軽いのに、何故か耳から入り込んで茶木の身体を重くする溜息が。
手足すらも重くなり、動くことすらままならない状態に陥って馬鹿のように立ち尽くす茶木は、そのままだったら確実にやってきた教師に注意されていただろう。しかしあれだけ軽い笑い声を立ててはいても、一応は悪いと思っているのか、傍に立っていた男子は茶木が見つけられないでいた茶木の席を見つけて、態々その席まで腕を引っ張っていってくれる。「そんなに落ち込むなよ」と、また軽く笑ってそれだけ告げてから、その男子はすぐに自席戻って行った。
連れて行かれたその席に、茶木は意識しないうちに半ば膝から崩れるようにして座り込む。茶木の目は、別の意志を宿したかのように自席に戻っていたあの男子を追っていて、すぐに辿り着いたそこで、その、すぐ傍で、当然の結論として阿倍の姿を見つけた時・・・ようやく、本当にようやく事態を飲み込めた。
つまり、ずっと続いていた茶木の喜びは全て夢と化したということ。
持っていた教科道具一式も、茶木は肘から力が抜けたように机の上にばら撒いた。力強く置くことすら、出来ない。怒りすら抱けなかった。たぶん、心が折れるっていうのはこういう状態のことなのだろうと、他人事のように思うことぐらいしか出来ない。
教師が入ってきても、授業が始まっても、知らない音楽が流れてきても、茶木の頭の中には何も入ってこない。入ってこようとする全ての情報を、力の抜け切った身体と、パンクした思考が拒否している。
たった一つ、今、茶木の思考を占めているのは『なんで?』という主語すらない思いだけ。なんで、なんでと繰り返されるそれに、茶木自身が圧倒されて、他には何も考えられない。考えられないのに・・・自然と、首が動いて顔は一定の方向へ固定され、視線は固定された方向へ注がれる。一心に、注がれる。
初めて茶木が視線を止めた時と、視線を止められた時と同じ距離、同じ向きにいる、阿倍。近づけるはずだったのに、全く近づけなかった阿倍。近づきたいと、知りたいと、知ってほしいと痛切に願わずにはいられなかった、阿倍。視線を向ける先には、その阿倍の、あの眼差しがある。
純粋さすら感じさせる、真っ直ぐで強い、攻撃的な瞳。
前方にいる教師に、殆ど瞬きすらせずに向けているその瞳と、眼差し。目を離せないその強さに、茶木は頭の芯が焼けつく気配を感じる。目が醒めるような鮮やかさすら感じる、その強さ。
茶木が漠然と抱いていた席に対する疑問が、あの瞳によって強烈な感情に染め変わるのは次の瞬間だった。許されるのならば、大声で叫びだしたいほどの、暴れだしたいほどの、感情。両手両足を振り回し、小さな子供のように全力で駄々を捏ねられるのならば。
今は音楽の授業中。数十人の生徒がそこにいて、教師が一人いて、つまりは他の人間の目があって。他人の目を気にせずにはいられない茶木には、駄々を捏ねる度胸すらなく、震えそうな拳を握り締めるだけしか出来ない。
少しでいいから、親しくなりたい。挨拶だけでもいいから、言葉を交わしてみたい。
願う事は、茶木としては驚くほど他愛ない事のつもりだった。他愛無い、はずだ。それなのに、たったそれだけが叶わない。小さな嘘すら、阻まれる。一度は通った嘘だったらしいのに、何か、見えない手で叩き落とされるように、振り払われるように、阻まれる。
流れている、有名らしい音楽すら煩わしく感じられる中、茶木は初めて感じる軽い絶望に似た感傷に揺さぶられつつも・・・決して振り向かない阿倍の純粋な攻撃を、ただ、見つめ続けることしか出来なかった。