long5-9

──欠けることがない、完全な形で、微笑う。

「・・・誰にも説明されなくたって、分かるに決まってるじゃん。いきなり、物がなくなっちゃうんだよ? そんな事が出来るの、神様以外にいないでしょ? だから、なくなった物はお供え物になったに決まってるって・・・人間なら誰だって、そう、分かってるよ」
だから心配しないで大丈夫だよ、千鳥様はそう、仰る。完全な形の笑みで、そう、仰る。仰る、から・・・もう、揺さぶるモノはなかった。完全な形の笑みが、揺さぶられるわけがないのだから。
「そう、ですね」答えは、これ以外に有り得ない。もう、有り得ない。千鳥様の仰る通りなのだ。己のような不出来な存在だとは思うまいが、それでも・・・。
「そうですよね、『神』が成したことだと、それ以外有り得ないのだと、分かりますよね。他の生き物ならいざ知らず・・・」

人は皆、『神』の存在を認識しているはずですし。

「千鳥様のように見える人は殆どいないでしょうが、見えないだけで、皆、人だけは『神』を知っていますものね。余計な心配をしてしまいました」
簡単に浮かび上がってくる様々な『神』を祭る行い。人が成すそれらを思いながら、何度も、何度も頷いた。人は皆、見えずとも『神』を認識し、崇め奉る尊き生き物なのだから、と。それなのにあんな心配をしてしまった己が恥かしい、と。
恥かしさに僅かに伏せた顔。俯いた視界に飛び込んできたのは、何度か弾む千鳥様の靴。楽しげな仕種に顔を上げれば、唇を噛み締めて目だけで笑う、千鳥様の笑顔。まるで、笑うのを耐えているかのように。耐えているのに、耐え切れなかったかのように。
「千鳥様?」声を掛ければ、噛み締められていた唇は解ける。解けて、柔らかな音を刻む。「ね? じゃあ、早く着替えよう? そろそろ、本当に学校遅れちゃうし」早く、早く、それはあの弾む足取りと同じ。早く、早く、と弾んでいる。共に、弾みたくなるほど楽しげなそれに、気がつけば気持ちは寄り添っている。先まで、己の気持ちに寄り添っていた『何か』など、もういない。
「分かりました。今・・・移動、させます」どうしたら出来るのかは、知っている。初めから、己の中に存在している。存在、している──

向ける目、
焼きつける藍、
損なわれる前に閉ざす、
閉じ込めた藍、
溢さないよう静かに開く目、
開く目から毀れる藍、
開いている掌に向けて、

──認識は、最初に目が、次いで手が感じ取った。赤黒い、醜い手の上にその醜さを隠すようにして置かれている、藍。想像よりは軽い、重み。感じて、その途端、首筋と肩が軽くなる。軽くなることで、今まで重くなっていたことを知らされて。
無事、成せたという事実に、喜びより強く湧き上がるのは、深い安堵だった。出来ると知っていたけれど、それでも感じる安堵は強い。僅かに開けた口からは、安堵の強さに比例した、深い溜息が零れる。
しかし零した溜息は、すぐに飲み込む羽目になる。

「カミサマ! 凄い! 出来たじゃん、出来ちゃったじゃん! 凄いよっ、カミサマ!」

衝撃は、重複して降りかかる。まずは揺れる身体。上がる、甲高い、興奮した歓声。向けられる瞳の強すぎる輝き。今までで一番明るい、笑み。笑み。笑み。笑みの奔流。押し流されて、己の醜い顔からも笑みが零れる。顔を背けられてもしかたないのに、千鳥様は楽しげにいっそう笑われるから。「凄い」と、何度も仰ってくれるから。
凄いことではない。分かっている、他の、立派な『神』ならば、もっと沢山凄いことが出来るだろう。己には、物を移動させる程度しか出来なくて、それが『神』として凄いわけなんてない。・・・ない、けれど。
向けられる笑みを、嬉しいと、誇らしいと思ってはいけないだろうか?
この胸に生まれる熱を、あの引き出しにしまってはいけないだろうか?
「ねぇっ! カミサマ、着替えてみなよ。私、あっち向いてるから」弾みながら背を向けた千鳥様は、まだ興奮気味の声でそう仰る。向けられた背には、黒い髪が余韻を知らしめる為に揺れ、手にしたままの着物も、催促をするように揺れる。「早く!」千鳥様は、背を向けたまま再び促す。
不安は、手に持つ着物の上に乗っている。醜い己では、何を着たところで似合わないのではないかと。しかしその不安を、千鳥様の促す声が軽くする。千鳥様が仰ることならば、間違いはないのではないかと。少なくとも、今、纏っているものよりは良くなるのではないかと。
「絶対、似合うよ」
本当に? そう、問い返すことも出来ないまま着替える。纏っていた白を剥ぎ、剥いだ白を一旦地面に置くと、手にしていた藍を纏い、帯を締めて。真新しい生地に、自然と背筋が伸びる。自らを映す水溜りはその場になく、装いを変えた己がどう見えるのかが分からないのに、分からないとしても姿だけの問題なのに、なんだか違う、気がした。
変わった、気がした。姿ではなく、己の中の何かが。
「カミサマ? もう、いい?」
「は、い・・・ですが・・・」
「え?」
千鳥様の声に返事をしながらも、その時、気がついた。「なくなってます」そう、いつの間にか消えていた。「何が?」地面に置いたはずなのに。「纏っていた、白い一重です。なくなっています」まるで、初めから存在しなかったかのように。
見渡しても存在しないそれに、微かに感じる、不安。一瞬前までの己が消えてしまった、そんな、不安。ただ、そんな不安も長くは続かない。すぐに、消える。「カミサマ」と、千鳥様が一言、お呼びするならば。
「べつに、いいんじゃない? そんなの」地面を這っていた視線を向ければ、笑みの形に弧を描く瞳と唇。何かの、自信と確信に満ちた形。多分、己では持ち得ないその何かを掲げて、彼女はもう一度重ねる。「べつに、どうでもいいと思うよ、そんなの」と。
「いい・・・ので、しょうか? 気にせずとも」
「全然いいよ、オーケイ、全然、オーケイ」前にも聞いた、知らない単語混じりのそれは、己の戸惑いを簡単に浚う。届かない、どこかへ。「だって、もう着ないでしょ? あれ」疑問の形を取った、断定。彼女が他の答えを必要としていないことは、声の調子ではっきり分かる。そしてその断定があまりにも力強いから・・・そう、なのかと思わずにはいられない。
「着ない、でしょうか?」
「着ないよ。着たい? もしかして」着たいのか、と問われれば、返せる答えは一つだけ。
「・・・その、分からないです」なんて、情けない。己の、ことなのに。けれどその情けない返事に、彼女は小さく頷く。何度も、頷く。頷いて、高らかに告げる。
「分からないなら、大して着たい気持ちはないってこと。つまりね、二度と着ないってこと。だって、ねぇ? カミサマ」

──それ、凄い似合ってるもん。

「凄い、凄い似合ってる」
「そう、でしょうか・・・?」
「そうだよ。だから、もういいでしょ? その浴衣、着てれば。それに・・・」
込み上げる喜び。ふいに止まる時。見つめる先には、あの、完璧な笑み。少しだけ、足を引きたくなるその笑みは、一体いつの間に現れたのか? 今もまた、足を引きたくなるけれど、込み上げたまま引かない喜びが、それを赦さない。赦さない。
「それにね?」続く言葉に、何故か指先が震える。小さく、小さく震える。

「それにね、もし飽きちゃったりしたら・・・また、違う物、持ってくればいいんだよ」

もし違うのにするなら、今度は縞々のとか、いいよね。千鳥様は、完璧な笑みのまま軽やかに・・・そう、軽やかに『うたう』。──『謳う』?
己の中から湧き上がり、自然と浮かんだ単語に感じた、驚き。一体、何故そんな単語が、とも、それはどんな意味を持つ単語だったのだろうかとも思うのに、自身の中を探すことは出来ない。千鳥様が、再び口を開かれるから。謳われる、から。
「きっと、縞々のも似合うよ。絶対、似合うよ。だから・・・飽きたら、それにしようね」絶対、そうしようね、絶対だよ、絶対。何度も重なる『絶対』。重なる度に、強くなる。眩暈がするほど、強くなる。似合うと褒められる度に込み上げる喜びが、感じる眩暈を逆らわせない。
逆らう、理由すら思いつけない。
「そうしようね?」
「・・・はい」

──何もかもを押し潰す圧倒的な笑みが、そこには在った。

「じゃ、そろそろホントに学校行かないとね。遅刻しちゃうし」
圧倒的な笑みは、一瞬にして消え去る。力の、余韻だけを残して。朗らかな声に形を変えた千鳥様は、行こう、ともう一声重ねた後、歩き出す。弾むような、足取りで。僅かの間、呆然として見送ってしまった背を慌てて追い、すぐ後ろをついて歩きながら・・・思う、あの力。
何故、なのでしょう?
理解は、遠い。距離どころか方向さえ定まらないのに、それだけは知っていた。知って、いたけれど・・・「カミサマ」振り返り、新たな装いの己の姿を見て笑う千鳥様と、真っ直ぐに伸びた背が、立ち止まることだけは赦さなかった。