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「でも、人間が出来ないことが出来るんだから、凄いと思うけど」
滲む疑問を、溢れる不安を、千鳥様の少しだけ不思議そうな声は、いとも容易く消してしまう。合わせられなかったはずの視線すら、あまりにも簡単に合わせることが可能になって。真っ黒な千鳥様の瞳には、醜い上に情けない、見るに耐えない顔が映っているのに、瞳を大きく開いた千鳥様は、すぐに笑う。
とても楽しげに、耐えることなど叶わないと言いたげに笑う。
向けられる笑みにつられて浮かんでくるのは、努力すればいつかは・・・などという、痛いほどの熱さ。この熱があれば、努力し続けることも、思いが叶うことも有り得るのだと信じられる熱さ。
「千鳥様の方が、よほど凄いと思います」何処もかしこも限界なほど一杯で、最後には震える声で彼女に訴えた。凄いのだと、とても、凄いのだと。すると千鳥様は笑顔のまま、また笑い声を上げて、それからあの弾む足取りで私の脇を通り過ぎると、部屋の出入り口へ向かわれる。「ありがと。じゃ、時間だから行こっか? 服も、多分変えられるから、途中で変えよう」と仰りながら。
「変えられるのですか? 途中で、とは・・・」
「学校の途中。って言うか、真面目にそろそろ出ないとだから。ちょっとのんびりしすぎたね」
出入り口を塞ぐ扉を片手で押し開けて外に出る千鳥様の後を追いながらの問いに、振り向かずに返された答えをすぐに飲み込むことは出来ない。置いて行かれてはいけない、千鳥様はお急ぎのようだ、そんな愚かな己でもすぐに分かった事柄ばかりが頭を占めて、他の事が考えられずに。
少々急ぎ足の千鳥様の後について千鳥様の家を出て、昨夜、人が作った灯りだけを頼りに歩いた道を、今度は日の光に照らされて進むうちに、ふと解することが遅れていた単語を理解する。
『ガッコウ』、そう、『学校』のこと。千鳥様ぐらいの年頃の人間が皆、通う場所。そこで人間は・・・人間の子供は『勉強』をして、やがて大人になっていく・・・はず。ただ『勉強』というのが、いまいち漠然としているのだが・・・。
読み書き算盤、でしたか? ・・・いえ、他にも色々と学ぶはずですが、何だか知識が渾然としていて分かるような分からないような・・・? 『たいいく』というものや『かがく』というものもあるようですが・・・それはつまりは、一体どういうもので・・・?
単語だけが零れるように浮かんでくるが、形がなかなか定まらない。どういう基準なのかは自身でも良く分からないのだが、浮かんだ単語に対してすぐに理解が及ぶものと、及ばないものがあるようで。
首だけが、浮かんでくる単語の多さに引き摺られ、傾いていく。世の中が、斜めに変わっていく。「あ、カミサマ。あそこあそこ」千鳥様がもしお声を掛けてくださらなかったら、きっとそのままこの世は横に倒れていた。「あの、千鳥様・・・」立て直した視界の中で千鳥様は僅かに振り返り、眼差しだけで前方の一点を指し示す。
真っ直ぐに続く道、その先に並ぶ建物。千鳥様の家や、周辺に並んでいた建物とは少々様子の異なるそこは、扉の左右が透明で、中の様子がはっきりと見える。広げられた色とりどりの反物や、仕立てられた着物の数々。人を模した白い何かが纏ったそれらは、嘘と同じくらい目映い。
「あれは・・・」
「あそこね、着物屋さん。・・・あれ? 浴衣屋さんなのかな? まぁ、いいや。なんか、そんなような店」
「そう、ですか・・・」
千鳥様の足が止まったのは、指し示された建物から数歩分離れた場所だった。しかしすぐにまた動き、道の反対側に向かう。反対側に立っても見える、透明の先。ずっと奥の方で、椅子に座り、机に向かっているご年配。これが『そんなようなみせ』。多分、『みせ』は『店』なのだろうし、衣装を変えるという話の続きなのだろうけど・・・何故、今、千鳥様が輝くような笑顔を浮かべているのかが分からない。何か、とても楽しい事があるのだろうか? あの、場所に? それともこのみすぼらしい姿が少しでも良くなることを思い描いていらっしゃるのだろうか?
浮かぶ疑問に、またもや何も言えない。けれど気にした様子もなく、千鳥様は硝子の向うをじっと見つめている。笑顔を消して、とても真剣な眼差しで。出会って以来、初めて目にするくらい真剣な様に、その視線の先を追ってみると、どうやら人の形が纏っている着物のうちの一着に注目していらっしゃるようで。
それは深い藍の生地に、白い、落ち着いた印象の絣の柄が入った着物。帯は黒と白の二色の縞柄で、着物に併せた落ち着きを感じさせて。特徴的な着物ではなく、目を逸らせばその途端に忘れてしまいそうな感がある着物ではあるが、反面、万人が眉を顰めることがない着物でもありそうだった。特徴がないという長所がある、というか。
「どう?」じっと見つめていると、いつの間にか視線を向けていらっしゃった千鳥様が、首を少しだけ傾げながら尋ねてこられる。それはきっと視線の先の着物の感想で、つまりは千鳥様が、私が変える着物として、あの着物──『しじら織』の着物・・・否、浴衣はどうかと私に尋ねていらっしゃるのだ。
「あの、素晴しいとは思うのですが、その、あれを、私が・・・?」
「そう。派手すぎないし、丁度いいかなって。気に入らない?」
「そんなっ、気に入らないだなんて・・・!」
向けられた問いを、全力で否定する。このような身には、どんな柄の着物だろうと浴衣だろうと、勿体無いに決まっているのだから。決まって、いるのだが・・・分からなかった。この先、どうすればいいのかが。
戸惑いは、顔に完全に出ていたのだろう。千鳥様は、また楽しげに笑う。あの、真剣な表情なんて忘れてしまったかのように。そしてその笑みを浮かべたまま、ゆっくりと口を開く。優雅な、動き。それはあの時見た、花が開く瞬間を思わせる動きと同じもの。
「じゃあ、あれに決定ね」
「千鳥様、あの・・・」
「なーに?」
「あちらの浴衣と、今、私が着ている物を取り替える、それは全く構わないのですが・・・その、つまり私は一体何をどうしたら良いのでしょうか?」
察しが悪いと、我ながら思った。むしろ頭が悪すぎる、とも思うのだが、しかし聞かないわけにはいかない。何も分かっていない己では、聞かない限りこのままこの場で永遠に立ち尽くすしかなくなってしまうのだから。
恥かしさと申し訳なさを混ぜ合わせた感情を抱えている己へ対して、千鳥様は不快な顔はされなかった。尋ねられると予測されていたのか、驚いた様子すらなく頷かれたかと思うと、何故か・・・そう、何故か突然・・・。
あまりにも華やかな笑みを向けられてしまう。
「ちど、り・・・さま?」
「あのね? カミサマ」
自然と掠れてしまう声は、とても、とても軽やかな声が被さり、消されてしまう。千鳥様のその声より価値を持つ声ではなかったからこそ、余計に簡単に消えていく。中途半端に開いたまま、閉じることも出来ないでいる口は酷くみっともない。けれどおそらくそのみっともなさではなくて、もっと何か別の理由で楽しげに笑った千鳥様は、瞬きを少しの間、止めて、柔らかな形に口を開く。
「物を、あっちからこっちにって感じで移動させることは出来るんでしょ?」
「・・・は、はい」
「だからね、そうやればいいわけ」
「・・・千鳥様、申し訳ありません、あの、よく、あの・・・」
「私はあの浴衣が良いと思うけど、カミサマが他の物が良いならそれでもいいし・・・とにかく、あの店にある物をどれかここに移動させればいいの。そうしたら、あとはそれに着替えればいいでしょ?」
いつの間にか伸ばされていた千鳥様の手は、『ここ』と仰った時にその両手で場所を指し示す。赤黒いこの手を取って、その中に、あの藍の浴衣を移動させるのだと。移動させて、着替えればいいのだと。
なるほどと、とても簡単に思った。たったそれだけのことが、何故説明していただくまで分からないでいたのかと。己の手に向いた視線を再び先にある藍の浴衣へ移せば、はっきりとした確信が傍に寄り添う。出来る、と。出来る・・・が、寄り添う確信のすぐ背後に唐突に現れる、何か。強い力を持ったその存在は、認識するより先に千鳥様の前に現れる。己の、口を通って。
「あの、千鳥様・・・」強いはずのそれは、情けない口を通ったことによってその強さを失う。「なーに?」千鳥様が促して下さらなかった、強さと共に存在自体が消えていくしかないほどに。
「その、ですね? 先ほど千鳥様が仰られた内容は分かりましたし、私にも出来ることではあるのですが・・・出来る、のですが、行って良いこと、なのでしょうか?」
「なんで?」なんで、その声は愉しげで、軽やか。力強さにも満ちていて、それ故に益々、己の声は頼りなく掠れていく。存在しない自信が、存在しないのに失われていく。
「その、あそこにある物は・・・『売り物』ではないでしょうか? 私の中にある知識では、その・・・人間は『売り物』を必要とする際、『金銭』の交換を行うとあります。・・・が、ま、間違っています、でしょうか・・・?」
「ううん、間違ってないよ」
「そっ、そうですか! あの、でしたらやはり、移動させるわけにはいかないのですよね? 私は・・・人間が持つような『金銭』は持っていませんから、交換が出来ませんので」
無様に震えていた声は、最後は多少の芯を持った声を作り出すことに成功した。他でもない、千鳥様が間違っていないと仰られたから。しかし形にするべき言葉を全て形にした後、千鳥様は何も言われなかった。ほんの僅かの、沈黙。ただ、黒い瞳が放つ眼差しだけは、一瞬たりとも離れない。貫くように、真っ直ぐに、力強く注がれる。
喉に、強い力を掛けられたような感覚。どれだけの力を掛けられたところでどうなるものではないのに、何故か苦しい。何故か痛い。もう、駄目だとすら告げられる。己の中の、誰かに。何かに。
「カミサマ、あのね?」
けれど告げられる言葉に応えるより先に、沈黙から滲み出たような千鳥様の声が届き、千鳥様の表情に、一つの笑みが蘇る。それはとても『綺麗』な笑み。・・・ただ、綺麗すぎる所為なのか、直視することが耐え難いほど『完璧』な笑みで。
ほんの僅か、身体が後ろに下がりそうになるけれど、続いて聞こえてきた「カミサマ」という千鳥様の声に、もう、動けない。千鳥様が何かを仰るというのなら、動く意思すら剥がれていく。
「カミサマがさっき言ったことは、合ってるよ。大丈夫、間違ってない。・・・でもね? それって、人間のことなの。人間同士での、ルールなの」
「人間同士の・・・『るーる』?」『るーる』『るーる』・・・『ルール』だ。確か、決まり事、のはず?
「だから、今は別にそんな事、気にしなくていいの。だってあっちは人間だけど、カミサマは『神様』じゃない? そりゃ、まだ暫定神様かもしれないけど、でも、とりあえず人間じゃないし、神様になる予定だし。その神様予定のカミサマが、自分が使う物を使う為に移動させるんだよ? 全然、オーケイ。絶対、オーケイ。お金なんて払わなくたっていいし、払わなくっていいから持ってないんだって」
滑らかな、言葉。何処までも、何処まででも流れる、水の流れに似た、言葉。ほんの僅かでも気を余所にやっていたなら、しがみつくことすら出来ず、すぐに何処まででも流されてしまいそうな・・・そんな、言葉。
流されて、いた。少なくとも、少しも流されなかったわけではない。・・・のに、全てを流されることなくその場に踏み止まったのは、一体、何によるものなのか。何に、しがみついたが故なのか。想像すらつかないまま、それでもその場にいた。その場に、踏み止まっていた。踏み止まって、声を発していた。「ですが・・・」と。頼りないその言葉の後に、何を続けるつもりだったのかも知らずに。そして重ねられた流れに、結局、何も知ることが出来ずに。
「あのね、カミサマ。一緒なの、同じなの、ほら、あれ・・・」
「あれ?」
「そう、あれ・・・うん、ほら、知らない? お供え物って?」
「『おそなえもの』・・・『お供え物』、えぇ、存じております」人が神に感謝や祈りを込めて差し出す、供物。そう、知っていた。その知識は、己の中にもある。
「だからね、それと一緒なの。人の物を神様が受け取るんだから、一緒でしょ? でも、お供え物に神様がお金払ったりはしないじゃない? する? そういうこと」僅かに、傾く首。傾いても、逸れない眼差し。探すより先に、探されている感覚。探されている感覚があっても尚、探す、己の中の知識。探す、探す、隅から隅まで、探す。「・・・いえ、そのようなことは、しないと思います。少なくとも、知識としては持っていません」隅から隅まで探しても、存在しない。
「でしょ? だから・・・いいの、お金なんて払わなくたって。あのお店の人だって、自分の店の商品、『神様』が気に入って持っていったんだったら、嬉しいに決まってるし」
「・・・あの、こんな、まだ、『神』と呼べないような者が持っていったのだとしても、でしょうか?」
「『神様』に、なるんでしょう?」
「はっ、はい」
「だったら、べつにいいじゃん。今は微妙でも、カミサマがちゃんとした『神様』になった頃には、お店の人も嬉しいよ」
「そう、でしょうか・・・」
「そうだよ」
「そう、ですか・・・?」
「そうだよ」
笑みの形は、少しだけ変わる。完璧な美しさに、どこか、何かが加わった形に。輝く、何か。それが何かは、はっきりとしないけれど、先ほどの何故か身を引きたくなるような思いは消え失せ、今は反対に、引きつけられる。否、惹きつけられる。
「そう、ですね」視線は自然と、あの、藍へ。あれを、手元へ。まだ、胸を張って『神』と名乗れるわけではないけれど、必ず、あの着物を供物として胸を張って纏えるようになるのだと・・・決意は、その決意を目の当たりにした誰かに揺さぶられる。揺さぶられ、零れる、ふとした疑問。
「千鳥様、しかしですね? その・・・供物として持っていったのだと、あの店の者は分かるものなのでしょうか?」自ら捧げたのではない、供物。失われた物がそうであると、誰にも説明されない者は察することが出来るのだろうか?
戻した視線。向けたそれで捉えた千鳥様は、何故か笑っていらっしゃらなかった。目を大きく見開いて、時間が失われたように何の表情も存在しない。けれどそれもほんの数秒。失われた時間が戻るように、花が唐突に開く瞬間のように、彼女は再び、笑う。
──欠けることがない、完全な形で、微笑う。