long5-7

「おはよう、カミサマ」
「・・・おっ、おはようございます」
時間は、連続していなかった。あれだけ明けないと思っていた夜は、気がつけばその姿を失っていて、一体いつの間に現れたのか、窓の外には青い空と白い雲と、目映い光が満ちていた。
そして振り向けないでいた場所から聞こえてくる、声。嬉しさのあまりつい振り返りそうになるのを寸前で堪えて返した、酷く不恰好な返事。己でも分かっているその無様さを、千鳥様は笑ったりはしなかった。・・・すぐには。
「かっ、みさまって・・・あれ、だよね」確実に過ぎた数秒の後、聞こえてきた声は笑いを堪えたもので、しかも意味が分からないものだった。『あれ』というのが何か、全く予想がつかないし、笑われるほど無様だったのは承知しているが、笑われるまでに数秒を要した理由は分からない。
分からないけれど、振り向いて尋ねるわけにもいかない。
「千鳥様、その・・・」振り向いても良いですか、そう続けるはずだった言葉は、千鳥様の笑い声混じりの「丁度良いから、そのままこっち向かないで、待ってて」というお言葉に遮られる。それからすぐに聞こえる、何やら身動きされる音。振り向いてはいけない、そう言われても、一体何かと気になって。
「あの、千鳥様? 何故、まだ振り向いてはいけないのでしょうか? 何を、されているのでしょうか?」
「あぁ、着替えてるの。だから、振り向いちゃ駄目でしょ?」
「お召し替え、ですか?」そういえば、昨日も就寝につかれる前に、同じことを告げられた。見てはいけない、と。寝姿と、同じ。見てはいけないものが、二つ。
「あの、千鳥様」どちらも、自分の知識にはない知識だった。それを思えば、すぐに思い出すのは夜の誓い。促されるように躊躇いながらも掛けた声に、千鳥様はとても軽いお声で「なーに?」と返事をしてくださった。お召し替えの最中だというのに、気分を害した様子もなく。だからこそ、申し訳ないと思いつつも、安心して続きを口にした。知らないことは、一つずつ学んでいくしかないのだから。
「人間にとって、寝姿以外にもお召し替えの姿を見られることも、不快なことなのでしょうか?」
「不快っていうか・・・マナーとして駄目でしょ? マナー・・・あ、でもマナーっていうか、犯罪だよね、人の着替え見たら」
「罪、ですか? では、人間は召し物を変える際は、誰もその姿を絶対に見てはならないというわけですね? しかし・・・一体、何故召し物を変える姿を見ることが、罪なのでしょうか? やはり人間はその行為を見られることを不快に思う、ということなのでしょうか? 私にはその辺りのことが良く分からずにいるのですが・・・千鳥様?」
「・・・う、ん?」
「どうかされましたか?」
「き、気にしないで。あ、でもカミサマって・・・ちょっと、人間のこと、まだ全然、分かってないよね」
千鳥様の声は、笑っていた。声だけではなくて、前触れもなく目の前に現れたその顔も、笑っていた。一夜ぶりの千鳥様。出会った時と同じ召し物を纏われて、櫛を手に取って黒い髪を梳かし始める。その千鳥様に「はい。私もそう思います。思いますので・・・これから沢山学んでいかなければと、そう思っております」と答えれば、梳かした髪を首の辺りで一つに括った千鳥様は、櫛を置きながら何故か俯く。肩を、震わせて。
何かおかしなことでも口にしてしまったのでしょうか?・・・不安の種が胸の奥で転がるのを感じたのは、千鳥様が下を向いたまま、顔を上げてくださらないから。額に掛かる黒髪を見つめて、朝のご挨拶から今までのやり取りを振り返ってみるけれど、思い当たる節はない。節はないが、上がらない顔に不安は芽を出し、やがて夜の記憶を咲かせる。不安と、疑問に占められた記憶を。
・・・聞いて、いません。
思い出す、大切な問い。千鳥様との、約束。己の、どうしても譲れない思い。捨てきれない、望み。
「千鳥様」掛ける声は情けないほどの不安が滲む。どうして思い当たらなかったのかと、そんな不安に。望みは、彼女にしかない。けれどその望みを叶えられるかどうかを、確認すらしていないのだ。「なーに?」俯いたままの、千鳥様の軽やかな返事。
「お聞き、していなかったのですが・・・私、は・・・何から、どうやって、千鳥様をお救いすれば宜しいのでしょうか?」力を、込める。全身に。たとえどんな答えだったとしても、その答えに応えるだけの力がなかったとしても、あの時のように、逃げ出さないように。嘆くだけ、泣くだけではないように。足りない力を掻き集めて、応えられるように。きっと、否、間違いなく──救いは、二度と与えられないのだから。
「ダメだよ、カミサマ」
瞬き一つの間に世界が切り替わるように、千鳥様は躊躇なく顔を上げられた。瞳を大きく見開いて、唇は両端を上げて、もう一度、重ねる。「ダメだよ」と。
「ダメだよ、カミサマ。聞いちゃ、ダメ」力ある眼差しが、輝きを持って注がれる。自信のない、弱々しい私の声など掻き消して、ただただ、圧倒的に存在する。「・・・駄目、ですか?」力に押された身では、理解もしてない言葉を復唱するので精一杯。身体に溜めた力は何の意味も成さず、行き先も見つからないまま霧散する。
「ダメだよ、ダメ。もう、ダメダメ。全然、ダメ。全部、ダメ」
「駄目、駄目・・・」
「そう、ダメ。聞いちゃ、ダメなの。あのね、カミサマ」

──何から、どうやって助けるかを考えるのも、『救う』ってことの一部なんだよ。

「だから、聞いちゃダメなの」
「そう、なのですか・・・? 考えて、お救いしなくてはいけないのですか?」
「そうそう、そういうものなの。人間ってね、そういうもの」
「『そういうもの』、ですか?」
「言わなくても気づいてほしい、聞いてほしい、分かってほしい、知っていてほしい、そういう生き物。丁寧に説明して分かってもらうなら、そんなの当たり前だから嬉しくもなんともないの。救いでもなんでもないの。そう思う、生き物なの。だからカミサマも、私に聞かないで、自分で考えてくれないと。考えて・・・救ってくれないと」
「そう、なのですね・・・」
「そうそう、そうなの。カミサマ、大変だね」
「はい?」
「いっぱい、いっぱい勉強しないと、人間のこと。そうじゃないと・・・考えられないでしょ?」
弾むように、千鳥様はそう、仰った。それから返事を待たずに、あの、『私の』引き出しがある机に向かい、脇に置いてあった鞄を取り上げ、中身を確認し始める。小さく何度か頷きながら確認している千鳥様の背中を見つめる、返事の期待すらされていない身は、それでもまた一つ、教えていただいた人間の知識を反芻する。

──問わずとも答えに辿り着く。辿り着ける。それが人が『神』に求める姿。

難しいものですね・・・それとも、私が不出来なのでそう感じてしまうのでしょうか?
自然と傾く首。気づいて真っ直ぐに戻しながら、答えはどちらも正しい気がした。人は他の生命体より高度な知能を持っているのだから複雑で難しいだろうし、この身は不出来で他の神々ならば簡単なことでも、とても難しく感じてしまうだろう。
だからといって、諦めるわけにもいきませんが。
「あ、そうだ。ねぇ、カミサマ。今、ちょっと思ったんだけど、カミサマが着てるその服って、カミサマの衣装なの? 他はダメ?」
「他は、駄目・・・とは・・・?」
決意も新たに胸に刻んだ思いは、新たな決意として力強さを与えてくれるより先に、鞄を手に振り返った千鳥様の問いによって意味を失う。軽やかな足取りで近づいて、すぐ目の前から見上げてくる、黒い瞳。光りを閉じ込めたようなその瞳に見つめられたら、もうそれ以上考えることは出来ない。
愚かしく、言葉を復唱すること以外には。
「あのね、それ、ちょっと・・・アレでしょ?」
「『あれ』ですか? 申し訳ありません、千鳥様。まだ人間の事は不勉強でして・・・『あれ』とは、何の事でしょうか?」
「・・・ごめん、ちょっと」
何故、詫びられたのか。物を知らず、その所為でご迷惑ばかり掛けている己ならいざ知らず、何故、千鳥様が? 分からない、また、分からない。けれど千鳥様は口を片手で押さえ、首を横に向けて目を閉じてしまわれる。肩を小刻みに揺らして、時折、苦しげな咳を零しながら。
何が千鳥様を苦しめているのかも分からず、何もして差し上げられない無力で愚かな身が本当に呪わしくて。せめてもと思い伸ばした手は、一夜明けたとしても変わることなど有り得ない、赤黒く醜い手。目にして、己ですら引っ込めてしまいそうになるけれど・・・千鳥様は昨夜、握ってくださった。握って、この場所まで連れてきてくださった。
きっと、大丈夫。そう、信じて。
動きを止めた手を再び動かし、僅かに身体を折り曲げていらっしゃる千鳥様の背へ、その片方を添える。力はあまり込めない。上下に、ゆっくりと滑らせる。この身に宿る知識が教える、人間が苦しげに咳をする際に好む行為。
「千鳥様、大変申し訳ありません」
「・・・ど、は・・・に?」
「目の前でこんなにも千鳥様が苦しんでいるというのに、私にはまだ、このようなことしか出来なくて・・・本当に、申し訳ありません。私は、無力で無知なこの身が呪わしくて・・・」
最後まで、言葉を重ねることは出来なかった。何故なら背に触れながら真剣に重ねた言葉に、千鳥様は大きく震えて・・・酷く咽ながらも、笑い出したのだ。
・・・何故、でしょうか?
どうされたのですか、とは尋ねられなかった。根拠はないのだが、今、千鳥様に問いを重ねれば、いっそう笑われる気がしたから。何も言わず、行わず、ただ笑う千鳥様がこちらに意識を向けてくださるのを待ち侘びる。しかし千鳥様が笑いを収め、待ち侘びていた意識が向けられた途端、問いかける間すらなく、その口は開かれる。
まだ微かに震える、唇で。
「のろ、わしくなくて、いい、から・・・うん、ねぇ、だから、服、取り替えたらダメ? 今、着てるそれ以外は着ちゃダメとかあるの?」
「取り替える・・・ですか? その、構わないとは思うのですが、何か問題でもあるのでしょうか?」
「問題はないけど、傍で見てる私としては、それ、微妙なんだよね。なんか、ちょっと・・・死んじゃった人みたいだし、それにその白、ちょっとみすぼらしい気がしない? だから出来たら、別の服に変えた方がいいと思うんだ。病は気から、みたいな諺もあるくらいだし、着てる物変えたら、もっと神様的な気分になるかもだし」
ねぇ、そう思わない?・・・と尋ねてくる千鳥様に促され、自然と視線は存在の始めより纏っている衣装へ向かう。白一色の、一重。帯も白、素足に草鞋、それ以外には何も纏ってない己の姿。
死んだ人みたい、という千鳥様の印象はよく分からないが、それでも言われてみれば、確かに少々みすぼらしい気もする。白は薄汚れているような気がするし、草鞋も解れている気がする。纏っているのが己でさえなければそんな気もしないのかもしれないが、醜い、汚らしい姿を持つ己では、白はあまり見栄えがする色ではなかった。
この一重を纏っている所為で、余計に惨めな気持ちになるのでしょうか?
見つめれば見つめるほど、そんな気もしてくる。白が、己の醜さを際ださせている気すらもしてくる。何より、千鳥様があのように仰っている以上、他にこの姿を見つめる者がいた場合、やはり白が合わないと思うのだろう。それならば千鳥様が勧めるように何か別の物を纏って、少しでもこのみすぼらしさをどうにかするべきで。
千鳥様が勧める通りにしたい。ただどうしたらいいのかが分からない。暫し考えてみたのだが、結局、今の己では考えても分からないだろうと己に見切りをつけ、じっとこちらを見つめる千鳥様のお知恵を拝借するべく、問いを重ねることにする。
「千鳥様がそう仰るのならば、きっとその通りなのだと思います」
「・・・ふーん?」
「ただ、その・・・どのようにして着物を変えればいいのかがよく分からないのです。それに、変えるといってもどのような物に変えればいいのかもよく分かりませんし・・・。お聞きしてばかりで大変申し訳ないのですが、教えていただいても宜しいでしょうか?」
「・・・生まれたばかりの神様ってさ、皆、カミサマみたいな感じなのかな?」
「千鳥様?」
「人間って、大人になるほど劣化するんだよ。生き物は全部そうかもだけど、人間は特になんだよ」
「劣化、とは・・・」
「劣る姿に変わるってこと。まぁ、べつにそれはいいんだけど」
問いに重ねられた、答えを必要としない問いと、それに続く独り言めいた呟き。『劣化』の意味は知っているが、今、そんな単語が出てくることが不思議だった。不思議、だったのだが・・・千鳥様は向けてくださっていた視線を逸らすと、手にしていた鞄を逆の手に持ち変え、それからもう一度、私を見上げてくると、音が聞こえてきそうなくらい急に顔に笑みを広げて「変身とかって出来ないの?」と、尋ねてくる。「っていうか、カミサマって今、どんな事が出来るの? どんな力があるの?」とも。
「どんな力、ですか・・・?」
「うん。空飛べるとか、一瞬で別の場所に行けるとか、人間を思うがままに操れるとか、心の中を覗けるとか、未来が見えるとか・・・あ、過去が見える、とかでもいいけど。ねぇ、どんな事が出来るの?」
「出来る事・・・」重ねられた、幾つかの例。考えたこともなかった問いに、己の中の知識にその例を重ね、その上で更に『出来る事』は何かを探してみる。己の中を隅から隅まで見つめ、探す。決して、見落としたりしないように。そう、見落としたりしてはいけない。いけないのだ。
見上げてくる千鳥様の瞳には、間違いなく『期待』が在るのだから。
「・・・千鳥様、あの、ですね・・・」
隅々まで探し、もう見落としなど絶対に有り得ないと断言出来るまで探してから発した声は、我ながら酷く情けなくて、自然と肩が下がるのが感じられた。千鳥様と目が合わせ辛く、みすぼらしい草履とそこから覗く不恰好な爪へ視線を合わせる。途切れてしまった言葉の続きを紡ぐ直前まで思っていたのは、何故なのだろう、という思い。何故、己は姿だけでなく、何もかもが、こんなにも・・・。
「申し訳ありません」
「なに?」
「おそらく、なのですが・・・」おそらく、などと、なんて情けない、無様な言葉なのか。「おそらく、まだ、大したことは出来ないと思うのです」分かっているのに、また重ねる『おそらく』。先のことなど分からないのに、保証も出来ないのに、続きがあるかのように『まだ』などという単語まで重ねて。
「べつに私に謝らなくてもいいんだけど。でも、結局、具体的に何が出来るの?」
「・・・その、ですね、先ほど仰られたような、現在以外の時間を見たり、人の心を見たり、その心に影響を与えたりすることは出来ないと思います。そういった・・・形がないというか、捉えにくいものを捉えることは、とても力がいることで、今の私には出来ないのです。また、私自身に影響を与えることも難しいです。私が別の場所に移動したり、空に浮かんだりといったことです。私は・・・認められてもらえていないとはいえ、本来『神』で在る為に始まった者なのです。『神』に影響を与えることは、『神』自身の力であっても難しいです。ですから、今の私に出来る事は・・・その、私や・・・いえ、私と、『神』以外の存在や物に対して、物理的な力を与えることぐらいでしょうか?」
「物理的な力・・・ってことは、そこに在る物とか人に対して、手で触ったりしないで押したり引いたり出来る、みたいなこと?」
「そうですね。それと、やはり私と『神』以外の何かに対してなら、先ほど仰られたように宙に持ち上げることも、別の場所へ瞬時に移動させることも可能だとは思います」
「へぇー?」
「・・・つまり、ですね、その・・・そのぐらいのことしか、出来ないというわけなのですが・・・」
目を、合わせられなかった。恥かしくて、申し訳がなくて、同じくらい哀しくて、とても千鳥様を見つめることが出来ない。仮にも『神』で在ろうとする者がこの程度のことしか出来ず、この程度のことしか出来ないのに己がさも『神』であるかのように、自身に影響が与えられない。こんなに無様なことが他にあるのだろうかとすら思う。
何より、この程度のことしか出来ない己に、千鳥様を『何か』からお救いすることが可能なのかどうかが不安で・・・。

「でも、人間が出来ないことが出来るんだから、凄いと思うけど」