[PR] この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。
『じゃあ、ここをあげる。今日からこの場所は、カミサマのものだよ』
とても簡単に告げられたので、とても簡単な出来事のような気がしてしまった。けれどすぐ気づく。簡単なことではない、と。少なくとも、この身にとっては。しかし感激を受け、表わしきれないほどの謝意を告げなくてはいけない出来事だと悟った時には、すでに少女──千鳥様は就寝の準備に入られてしまっていて、とても言い出すことは出来なかった。もう少し早く気づければ、少しでも伝えられたのに。
胸に、微かな後悔。けれど同じだけ、弁解。神で在ろうとする身には相応しくないと承知しているのに、それでも・・・仕方ないと、声なき声で洩らす、呟き。
あまりにも驚きと感動と感激を立て続けに感じすぎて、一つ一つに反応する間もなかったのだから。
**********
問えなかった行き先を知ったのは、その場所に着いてからだった。考えれば分かる場所、千鳥様のご自宅。他の建物と違いがあまり見つからない建物は、手を引かれて招かれた途端、他の建物とは全く違う意味を持つ。
初めて足を踏み入れた、人が作った箱の中。背後で聞こえた、箱が完全に閉まる音に、不思議なほどの喜びが湧き上がってくるのを感じた。己の奥底から、突き上げてくる喜びが。その喜びは、箱至る道のりで予感していたものと同じ。人の作り出した灯りが照らす道を、手を引かれて歩きながらの予感。
目指すべき、目的となる先が在ること。囲われた場所に、招かれること。つまり喜びの理由は、この存在が許されたが故という理由、ただ、それだけ。ここに居ても良いのだと、その態度ひとつだけでこんなにも心が満たされる。
──ここからは、逃げ出さないでよいのですね。
背を向けている先から微かに聞こえる、寝息。起こさない為にも呟きは声には出さず、つい首を捻って千鳥様の姿を確認したくなる気持ちも抑え、振り向かない代わりに彷徨う視線を向けるのは、正面に位置する机の引き出し。千鳥様が使われているという机は、細く長い引き出しがひとつと、その横に大きさの違う引き出しが四つ、並んでいる。その内の一番上の引き出しは鍵がついていて、一番下は他の三倍近く大きい。間の二つはほぼ同じ大きさで、二つのうちの上の引き出しは、殆ど中身が入ってない。・・・否、入っていなかった、だ。今は、その僅かな中身を他の場所に移した代わりに、たった一つ、とても大切な物が仕舞われている。この身には相応しくない白。初めて差し出された、たった一つの持ち物。『気に入ったなら、あげる』握り続けていた手を見て、笑いならが口にされた申し出に、もう何度目かの喜びが込み上げてきたのはまだほんの少し前のこと。
せっかく頂いた白い布を、仕舞う場所も力もない身に、使ってないからとその場所まで与えていただいた。『ここはカミサマにあげるから、好きに使えばいいよ』耳の奥で、何度も繰り返し、思い出す。喜びを伴って、何度でも、何度でも。
許されること、与えられること、受け入れられること、この身にそんな事が起きるなんて信じがたいが、信じがたくとも感じる喜びが事実だと教えてくれる。こんな喜び、現実以外に起こりようがないのだと。
手を伸ばし、もう一度あの場所を引き出して、中に仕舞ってある布を見つめてみたいという気持ち。同じだけで込み上げる、大切に仕舞ってあるのだから開けてはいけない、という気持ち。そしてやっぱり同じだけ込み上げてくる・・・この喜びを与えてくれた方を見つめたい、その為に振り返りたいという気持ち。
でも、振り返れない。千鳥様との約束を、違えるわけにはいかないから。それだけは、絶対的なほど許されないし、許せないから。
『私、もう寝るけど・・・寝顔、見たりしないでね。悪いけど、起きるまであっち向いてて』就寝につかれる間際、温かな布に包まれながら彼女は告げた。眠っている姿を見られることは、人間にとってあまり気分の良いことではないから、と。
眠りを、私は知らない。存在が始まった瞬間より、恒久の時を見つめ続けることを義務付けられる存在・・・になるはずだったこの身には、眠り、というものは備わっていないのだから。だから、その間の姿を見つめられるということがどういう気持ちなのかも当然分からない。分からないが、しかし千鳥様が不愉快であるなら、それは決して行ってはならない行為だ。
千鳥様は、これだけの喜びを与えてくれたのだから。そして、続く希望を与えてくれたのだから。
そんな彼女を不愉快にさせるだなんて、たとえ彼女の意識がなくとも許されることではない。だから振り向きたくなる気持ちを押さえ込み、目の前にある『私の』引き出しを、その先にしまってある『私の』白い布を思い出しながら、いずれやってくる朝を、千鳥様の目覚めをひたすら待つ。千鳥様を見つめることが、話しかけることが許される時を。
しかし、私は色々知らないことが多いようですね。これから、出来うる限り早く、沢山のことを学んでいかなくてはいけないのでしょうね。
視線を固定して、訪れる時間を描きながら思うのは、あまりにも頼りない己の知識に対する危惧。初めから己の中にある程度の知識があるので気にしないでいたが、千鳥様と接したあの短い時間の中で、己の中にある知識があまりにも少ないことに気づかされたのだ。人が眠る姿を見られることを不快に感じる、だなんて、己の知識を探しても見つからない。つまり、知らないことだ。
もしかすると、一番知っていなくてはいけない『人間』の知識が、一番足りていないのかもしれない。そんな、気がした。人は他の生命体より、ずっと多種多様で、進化が激しい存在。それだけは今の知識ですら知っているし、それならばこんな神もどきである身に備わっている程度の知識では不十分なのかもしれない。不十分どころか、知らないこと、分からないことばかりなのかもしれない。
でも、それでは困る。困る、のだ。己は神で在りたいわけで、神が人について全く分かっていないだなんて、神として相応しくない状態であるし、何より、神で在る為には・・・『人間』である千鳥様をお救いしなくてはいけないのだ。その為には人についてもっと学ばなくてはいけないし、もっと知らなくてはいけないし、考えなくてはいけないし・・・あぁ、でも・・・。
結局、私は何から千鳥様をお救いすればいいのでしょうか?
振り返りたい、衝動。突き上げる、不安。揺れる、思い。振り返りたい、振り返りたい、振り返りたい・・・見つめたい、問いかけたい。見つめて、問いかけたい。千鳥様、千鳥様、千鳥様。私を神にしてくださると、そう言ってくださった千鳥様。浮かれすぎていたのだと、振り返れない今になって気づいてしまった。肝心なことを、お聞きしていなかったのだと。
どうしたら、私は、『神』で在れますか・・・?
──夜は、まだ明けそうにない。
**********
──夜は、いつまでも明けない。
唇を噛み締めて泣く、子供がひとり。否、独り。
悔しさと哀しさと虚しさを、全て混ぜ合わせた痛みに耐えて、声すら出せずに泣いている。泣けば泣くほど惨めになり、惨めさがいっそうの涙を生み出すことを承知しているのに、それでも流れる涙を抑え切れない。
拭う者も、共に泣く者も、悼む者すらいない事実が痛みを重ね、手を差し伸べる者がいないのに、その場に誰もいないわけではない事実が、痛みを別の形へ変えていく。受身の感情ではなく、攻撃的な、感情に。
嫉むような、恨むような、呪うような・・・その、全て。
明けない夜の中、子供は独り、呟く。声なき声で、呟く。
『絶対に、許さない』
呪文のように、同じ言葉を三回。呟くごとに、胸に刻む。忘れないために、刻む。刻めば傷になり、痛みになるのに、それでも刻む。誓いと、同じ。絶対に忘れない、絶対に、許さない、絶対に、絶対に。
救ってなんか、やらない。
絶対に、仕返ししてやる。恨みで出来た木霊が、そこかしこに響き渡る。受け取る者すらいない世界で、何度でも、木霊する。泣き声混じりに、木霊する。慰める者なんて、現れたりはしないのに。
それでも、泣き声は続いている。ずっと、ずっと続いている。今も尚、続いている。いっそうの、攻撃性を滲ませて。許さない、そんな叫び声を混じらせて、何度でも、何度でも。黒い世界に、何度でも。けれど、何度声を上げようとも、どれだけ泣き続けようとも・・・。
夜は、まだ明けない──