──私のことを、救ってほしいの。
「もし貴方が私を救ってくれるなら、私、誰が何と言っても、貴方のことを『神様』だって信じる。信じて、貴方を『神様』にしてあげる。絶対、してあげる。ねぇ、どう?」
「どう、とは・・・」
「嫌?」
「いえっ! 私は・・・私、は・・・『神』で、在りたいです。『神』で、在りたい、のです」
それ以外に望むことなど、何処にもなく。必死で否定と肯定を繰り返せば、少女は満足そうにまた、頷いて。伸ばしたままの手を更に突き出し、何かを示しているようなのだが、一体どうしたらいいのかが分からない。頭の中は空白が詰まっていて、何かを考える余地なんてなく。
すると少女は伸ばした手を動かし・・・固く、固く白を握り締めたままの両の手を、また何の躊躇もなく手に取った。白く細く、美しい手に取られた、醜い手。軽く握り締め、確かめるように何度か握る力を変えられるけれど、その手が離れることはなく。
しっかりと手を握り締め、少女は再び、その口を開く。
「それなら、お互いに約束しよう? 貴方は私を救う、救われたら、私は貴方を『神様』にしてあげる、ね? 名案」
「は、い・・・」
「じゃ、そうと決まったら、そろそろ帰ろっか。っていうか、貴方、一緒に来れるよね? ここにいなきゃいけないわけじゃないんでしょ?」
「え? えぇ、私は、何処にも・・・」何処にも居場所はないです、口にすればとても淋しく哀しく思えるそんな言葉を口にする前に、少女は「それなら、決定」と笑いながら断言し、握り締めている手を軽く、引いて。それは椅子に導いてくださった時と全く同じ仕種で、今度は椅子から立ち上がる手助けをしてくださり、それだけではなく、今までにない方向にこの身を導いてくださる。あの木の下ではなく・・・この場所から出て行く、方向。逃げ込んで以来、足を向けたことが一度もない方向へ。
足が、引かれていく身体に素直に従って交互に踏み出されるのが、信じがたかった。信じがたかったが、見間違いようもない事実で。逃げ込んで以来この地から離すことが出来ないでいた足が、他の誰でもない、私自身によって縛り付けていただけだったと思い知る。
何も言えないまま踏み出した足は、何の苦もなく囲う緑を抜け出ていた。
「あ、そういえば・・・貴方、なんて言うの? 名前、聞いてなかったけど」
囲いから出た途端に消えた緑と、何処までも伸びている黒い道。道を挟む人間が作ったのだろう建築物。幾つも、幾つも、途切れることなく連なる様に不思議なほど息が詰まり、視線は定まらないで左右を、前後を行き来する。そしてそんな落ち着きを失った視線には、常に少し先を歩く少女が映っていて・・・後姿と僅かな横顔しか見えないでいたその少女が、首だけを動かして振り返り、尋ねてくる。
答えがそこにあることを、信じて疑わない眼差しで。
「な、まえ・・・私の、名前、は・・・」一欠けらの疑念もない眼差しに、足は自然と止まり、気づいた少女の足も止まる。手は、少女の手の中。いつの間にか片手だけになっており、いなくなったもう片方には、あの白い布がしっかりと握りこまれている。少女の足を止めさせてしまっている、分かっているから急いで答えを探すけれど、見つからない。・・・本当は、見つからないと、探す前から知っていたけれど。
「・・・あり、ません」そう、ないのだ。「ないの?」ない、わけではないのかもしれないけど。
「あった、のかもしれません。そう、かもしれませんが・・・私は、逃げ出してきてしまいました。名を、与えられる前に」
呼び起こす、自らの中に最初から在る知識。名は、与えられるモノ。いや、正確には、誕生に立ち会った神々によって見つけてもらうものだと。持っているはずの、自らの名。それを持ったからこそ始まるのだから、名がない者はいない。けれど始めたばかりの身で見つけることはいかに自らの名でも難しく、だからこそ──見つけて、もらうのだ。
「・・・誕生を、立ち会った神なら見つけられるのです。始まりを、見届けたのですから。確か・・・そう、そうだったはず」
語ることで、鮮明になる知識。同時に、知りたくなくても知ってしまう事実。もう、見つけられないかもしれない、名。永遠に、知らぬままなのかもしれない己の名。「大丈夫」それなのに、少女はそんな事を断言する。酷く簡単に、同じだけ力強く断言する。いつの間に身体の向きを変え、向かい合う形になって。
「だって、貴方は知らなくても、その場にいた神様たちは知っているんでしょ? だったら、次に会う時に聞けばいいじゃない」
「・・・しかし、私は逃げ出したのです。そんな者が、何を聞けましょうか?」
「だから次に会う時はちゃんとした『神様』になっていればいいじゃない? そうしたら、ちゃんと聞けるでしょ?」
とても簡単そうに、少女は告げる。実際には、そんなに簡単な事とも思えないのに。でも、確かにその通りで。立派な『神』になれれば・・・否、立派でなくとも、せめて『神』ですと誰を憚ることなく言える程度の存在になれれば、名を問うことくらいは出来るのかもしれない。ただ、その『神』になれるかどうかが・・・。
「ねぇ」掴まれたままの手を、強く、握られる。その途端、意識は完全に少女へ。そして少女は、じっと見つめる。口元だけに、笑みを滲ませて。
「自分の名前、あった方がいいよね?」
「それは・・・はい、あって、ほしいです」
「じゃあ、自分の名前聞くためにも、立派な『神様』にならないとね?」
「・・・はい、ならないと、いけません」
「うん、じゃあ『神様』になる為にも・・・」
絶対、私のことを救ってね。
「絶対、絶対だからね? 絶対、だよ」
口元に浮かんでいた笑みは、全身に及んでいた。華やかな、笑み。明るい、強い・・・そう、それはつい先ほどまでこの身を照らしていた、そして今、周辺にも点在する人が作った灯りによく似た、笑みだった。
人が、作る灯りに良く似た、笑みだった。
「あ、の・・・」何を、聞こうとしたのか。聞くべきものなら、山のようにある。結局何処へ向かうのか、つまりは何をすればよいのか、少女が告げる『救い』とは、何をどうしたら得られるのか、どう、したら──『神』に、なれるのか。
浮かんでいる笑みに感じるモノは、何なのか。
問いは喉で固まって、一つとして零れることはない。だからこそ、その場に立っていること以外に何も出来ないでいる愚かなこの身に、少女は言葉の続きを求めることなく、身を翻す。再び見える、背。しかし顔はまだ、こちらを向いたまま。楽しげな笑みを浮かべた顔。
「まぁ、でも本当の名前はいつかって事にしても、今、呼べる名前がないと不便よね。貴方、貴方って呼んでたら、一体どなた、って感じだし」
「・・・どなた、とは?」
「何か、適当な呼び名が必要だけど・・・どうしようか?」
呼べないと不便、その言い分は分かったのだが、付け加えられた言葉の意味が分からずに、思わず小さく疑問を零してしまう。どなたと言われても、この場合は名のないこの身を指していると思うのだが。
しかしそんな疑問を余所に、少女はゆっくりと歩みを再開して、少女に引かれた自身も再び歩き始める。ただ、相変わらず少女はこちらを向いていて、前を向かずに歩いている様に、危なくないのかと少々心配になる。口に出そうか出すまいか、悩んでいると少女の悩みが解決する方が早かった。
「・・・ま、いっか」
「『いっか』、ですか?」
「暫定、『神様』だもんね」
「ざんてい・・・『暫定』、ですよね?」
「とりあえず・・・」
かみさまって呼ぶけど、いいよね?
「それが一番、無難な気がするし」
「・・・その、お気持ちは嬉しいのですが・・・お話しました通り、私は『神』にはまだ、到底相応しくなく・・・」
「いいの、いいの。私の中では、貴方に対して呼びかける時はカナ表記で、本当に『神様』って呼んでいるわけじゃないから。ま、渾名みたいなものかな。それなら、いいでしょ?」
「はぁ・・・」
否、とは言わせないという空気が確かにそこにはあった。あった、と思う。けれど曖昧な返事を洩らした途端、少女がまた、華やかに笑うから、もうそれ以上何も言えなくなってしまう。どんな言葉より強い説得力を持ってしまう。
「じゃあ、決定。貴方のこと、これからは『カミサマ』って呼ぶから。それで・・・私、名乗ってないよね?」朗らかに下される、決定。そして続く問いかけに、声は出さなくても理解をしてなくても、反射だけで頷いた。
まだ、知らない少女の名前。想像がつかないけど、考えることも、予想することすら出来ないけれど、それはきっと、きっと、とても重要なことだから。『少女』の名。離すことが出来ない、白。
「私はね、ちどり。すもり、ちどりっていうの」鳥の巣に、守護の守、それに漢数字の千に、生き物の鳥。「・・・って書いて、巣守千鳥。でも、巣守って苗字があんまり好きじゃないから、千鳥でお願いね」
お願いね、ともう一度繰り返して、じっと、力ある眼差しを注いでくる。頷くまで許さない、そう、告げられている気がする眼差し。素直に縦に首を振れば、少女は──『巣守千鳥』という名の少女は満足そうに頷き返して、また前を向く。前を向いて、後ろを向いていた時よりは心持ち早く、足を進める。
つられて足を速めながら抱える、『千鳥でお願い』とはどういう意味だろう、という疑問は胸の中。意味がはっきり分からずに足を動かしながら考えること、数秒。満足のいく答えは出ないけれど、おそらく話の流れ上そうだろうと予測が出来る答えを見つけて、見つけたその答えを吟味してから口を開く。お願いされた以上、きちんとその意味を把握すべきだと思ったから。
「つまり、その・・・」
「え? なに?」
「つまり、私は貴女を『千鳥様』とお呼びすればよいということですよね?」
「・・・は? 千鳥、さま?」
何故か、沈黙。何故か、停止。振り向いた少女は・・・千鳥様は、目を丸くして私を凝視。初めて見る、表情。どうしてそんな顔をされるのか、分からないから生まれる混乱。
おかしなことを口にしたつもりはない。当然の結論を口にしただけ。少なくとも、そのつもり。全部は理解出来なかったけれど、少女は『千鳥』という名前で呼んでほしいと言っていたのだろうし、だからこそ、その名に敬称をつけて呼んだだけ。
こんな醜い存在に手を差し伸べ、『神』にという分不相応な思いを叶える術を与えてくださった、そんな方に対する最上級の敬称をつけて呼んだだけ。それなのに、何故こんな沈黙が生まれたのか。
じっと見つめ合う時間は、どのくらい存在していたのか。失われた時間を取り戻してくれたのは、やはり少女、千鳥様だった。唐突に、鮮やかに、落ちていた時間を拾い上げ、高く、高く放り投げる。
響き渡る笑い声は、あまりにも明るい。
「ちっ、千鳥、さま・・・さま、ね。さま、かぁ・・・まぁ、いいんじゃない? うん、いいよっ、べつに!」
「はぁ・・・そう、ですか」
楽しげなそれに、返すのはまたもや間の抜けた相づちだったけれど、少女──千鳥様には、全く気にした様子はなかった。本当に、本当に楽しげに笑うばかりで、どうして笑っているのかも分からない。分からない、けれど・・・弾けるような、笑い方。それは先ほどまでの笑い方とは全く違っていて、あの、形にならない何かを感じるようなことは一切ない。そう、一欠けらもないから・・・こちらの笑い方の方が良いなと、生意気にも思ってしまった。
そうして生意気で不遜なことを考えていると、ふいに上げていた笑い声を収めた千鳥様は、顔に相変わらず満面の笑みを浮かべたまま、酷くはっきりした声で告げる。
「これからよろしくね、カミサマ」
「・・・はい、宜しくお願いします、千鳥様」
告げられた言葉に応えれば、途端に再び聞こえてくる、笑い声。理由は分からずとも、笑ってくれる原因がこの身にあるのだということは分かって、それを、ただ嬉しいと感じる。始まりの笑い声には、羞恥と哀しみ、痛みと苦しみだけがあったのに、今は、嬉しいと。だから、思わずにはいられなかった。強く、強く思わずには、いられなかった。
──嬉しいと思うこの笑い声で、二度目の始まりを始められたのだと。