「学校はね、卒業証書貰う為に通ってるんだよ、皆。そういう、決まりだから」
己の中にある『学校』の知識とは大分違う知識を、初めて得た。やはり、己の中の知識はかなり古いらしい。時代遅れ、というものか。存在が始まったばかりなのに既に遅れているなんて、情けないことこの上ない。
「今はね、家族っていうのは特別な意味はなくて、ただ一緒に暮らしてる人間の集団のことを言うの。養う義務がある人と、養ってもらう権利がある人が一緒に暮らしていて、その集団のことね」
それは、やはり自らの中にある『家族』という知識とは多少異なる知識だった。血の繋がり、心の繋がり、そんな繋がりが重視される存在やその集団のことを指すと思っていたのに、それは役に立たない古い知識らしくて。
気がつけば、あの運命の日から幾度目かの夜と昼が巡ってきていた。自らの無知を数えるばかりの、恥かしさばかりが重なる数日間。知っていることを数え上げた方が早いような状態に、溜息ばかりが洩れ、尋ねるばかりの我が身が居た堪れなかった。
・・・が、相変わらず千鳥様は嫌な顔ひとつされず、笑みを浮かべて一つ一つ、丁寧に答えてくださった。あの、弾む足取りと同じ弾む口調で。知らぬ事ばかりのこの身を疎むことない千鳥様に、感謝の念が絶えることは決してない。・・・ない、がしかし・・・溢れ続ける感謝の念のすぐ傍で、行き場所をなくしたかのように、微かな感情が右往左往していた。
問いを重ねるごとに千鳥様の笑みが深まるのは、何故なのだろう、と。
そして・・・深まる笑みを目の当たりにする度に感じる『何か』は、一体何なのだろう、と。
**********
──こんな私に、よく笑いかけてくださる・・・有り難く、思うだけのはずなのに。
背を伸ばし、顔は真っ直ぐ正面へ向けて、生まれえる思いや浮かぶ疑問を見つめ続けた。見つめ、考え続けた。分不相応な思いや疑問もあると承知していながら、それでも考え続けた。疑問と、千鳥様が与えてくださった答えと、答えに対して浮かぶ疑問を。
「カミサマ? どうしたの? 正座なんてしちゃってさ」
「自問自答しております。自らの、不甲斐なさを含めて、あらゆることを」
「へぇー? あー、まぁ、そう? うん、頑張れー」
「はい。ご声援いただき、ありがとうございます」
千鳥様のお部屋の片隅、あの引き出しへ顔を向け、背筋を伸ばし正座をして考え込んでいると、聞こえてきたのは心の底から不思議そうな千鳥様の声で。情けない答えではあるけれど、正直にその問いにお答えすれば、思いもがけず声援までいただいてしまった。本当に・・・千鳥様は、どうしていつもお優しいのか。
向けられるその優しさに深く、強く感謝しながら、ゆっくりと目を瞑る。そして広がる暗闇の中に、過ぎ去ってしまったここ数日間を振り返ってみた。そろそろ振り返らないと、困惑と混乱で埋もれてしまう予感がしたから。
順番どおり進んでいるはずなのに何故かとても散らばってしまっている時間を、また順番どおりに並べて見つめてみる。そうすると、千鳥様との出会いという奇跡的な時間の後、真新しい浴衣を纏って向かった学校のことを思い出す。答えを頂いたのに、解決してない不思議があった場所を。
『他の人にはカミサマの姿が見えてないから、学校ではカミサマとはお喋り出来ないでしょ? だから終わるまで自由にしてていいよ。人間の勉強したいなら、色々見て回っててもいいし』
初めて学校・・・千鳥様が行かれているのは『中学校』という学校だったが、そこの門を潜る前に小声で告げられたお言葉に従い、この数日、千鳥様が学校で勉学に励む間は学校内を、そこにいる人間達を勉強の為、見つめていた。
千鳥様と同じ年頃の子供達、子供達へ勉学を教えるのだろう『教師』たちが動き回る学校は、人間を学ぶ上でとても良い場所だと・・・そう、思っていた。少なくとも、初日の数時間ぐらいまでは。ところがその初めの数時間が過ぎる頃には疑問ばかりが生まれていて、確かだと思っていた知識すら役に立たなくなってしまった。
持っている、知識・・・『学校』とは、勉学を学ぶ場所、という知識。しかし見て回る限り、学ぼう、という意識がある子供は少なく、皆、早く勉学の時間が終わらないかと切望しているのだ。少なくとも、そんな願いを口にする子供ばかりで。それなのに毎日、決まった時間にやってきて、同じ場所に座り、どう見ても教師の話を聞かずに時間を過ごす。・・・一体、何故なのか?
おまけに当の勉学の内容も一部は謎が極まるものだった。呪文のような不可解な言語を学んだり、数字と絵を組み合わせたものを書いたり、学友に固い鞠のような物をぶつけたり。学友に物をぶつけるなんてことを何故学ばなくてはいけないのか、全く理解が出来ない。
それにもう一つ、不思議に思ったのは、千鳥様の笑顔だった。学校にいる間、千鳥様が浮かべているのは、全て己に向けてくださるモノとはどこかが違う笑みで。あの完璧なものではないそれは、完璧ではないのに不完全ではなくて、どことなく、遠く感じた。己から、ではなくて、その他全て、笑みを向けている学友すらも、遠く、遠く。・・・気の所為、だと思うのだが。
──不思議、というのなら、学校より千鳥様のご家庭の方が不思議かもしれませんが。
不思議、というか、数日間で目の当たりにした千鳥様のご家庭の様子は、また、己の中の知識とは多少、違っていたのだ。『家族』という定義がそもそも己のそれは古いらしく、その所為か、千鳥様の日常生活に少々の違和感を覚えてしまう。
まず、千鳥様がご家族と顔を合わせられている姿をあまり見ない。・・・否、あまり、というより、千鳥様とご一緒させていただいて以来、一度も見ていない。更に重ねれば、そもそも千鳥様のご家族がどのような方がいて、どのように生活されているかが分からない。
お食事は、常に別々。己の中の知識では、人間の食事は一日三回なのだが、千鳥様は朝食を食べられないし、昼食は学校で『給食』という物が出るので、ご自宅ではお食べにならない。そして唯一、ご自宅で食される夕食は一階の調理場に用意されてあるものをお部屋まで運んで、そこで食べれていた。食べ終われば、器を元の場所へ戻す。つまり、お一人で食べられる。
不思議だと、思う。己の中の知識では、自宅で成される食事は家族揃って取るものとなっているし、ご家族が他にいらっしゃらないならともかく、食事を取りに行かれる際にも、器を戻される際にも・・・奥の部屋から、複数の人間の気配がしているのだ。食事を、されている気配が。
あの気配は、千鳥様のご自宅でよく感じる気配で、つまりこの場所で生活されている、千鳥様のご家族に違いないと思う。思う、のに・・・何故、千鳥様はお一人で食事をされるのか? 初めは、疑問に思わなかった。次いで、お聞きしても良いのかを迷った。そしてとうとう本日、口が開いて尋ねてみれば、返ってきたお答えは「いいの。場所が一杯一杯だから」というもので、いまいち、分からなかった。
更に不思議なのは、千鳥様のご自宅では毎朝、日も昇らぬ時間帯に誰かが忙しく立ち回る気配がするし、その気配は日が昇る直前に外へ出て行ってしまうのだ。そうかと思えば日が昇り始める頃、別の気配が入ってきて、慌しく動き回ると、階下の奥の部屋へ向かい、そこで静寂が戻される。
そしてその静寂が暫し続いた後、千鳥様が目覚められるのだ。
何だかとても不思議だった。同じ建物に住まわれているのに、皆、それぞれの時間で動き、顔を合わせている様子がない。違う、時間で生活されているようで。『家族』というものは、皆、同じ動きをするものだという知識があるので、私なんて数日経った今でもご家族や千鳥様の動きが少々馴染めないでいるくらいだ。馴染めなくて、それで・・・また、余計なことを重ねてきいてしまったくらいだった。
「こちらには、千鳥様の他にはどなたが住んでいらっしゃるのでしょうか?」と。
尋ねなければ良かったと、すぐに悔いた。それは千鳥様が、向けられた問いに目を僅かに見開くと、次の瞬間、開いた目を細めて黙ってしまわれたから。聞いてはいけないことを聞いてしまったのかと、愚かな問いを発してしまったのかと、酷い動揺に襲われて。しかし申し訳ありませんと、謝罪をする直前に千鳥様の顔にいつもの笑みが戻り、楽しげな、明るい口調で仰るのだ。「何人か、住んではいるよ」と。
意味が、分からなかった。じっと注がれる眼差しの存在を意識しながら考えて、考えて、考えて・・・しかしいくら考えても分からなくて・・・気がつけば、懲りもせずにまた問いが自然と零れていた。己の、口から。
「・・・分かりません」
「それ、人間のテストで書いたら、多分、あとで先生に呼び出されるよ」
零れた言葉に、千鳥様はとても簡単に反応する。「呼び出される、とは?」ただ、どういう意味なのかが分からず尋ねると、千鳥様はやっぱりとても簡単に教えてくださる。「怒られるってこと」と。
「そっ、それは本当ですか?」
「そりゃ、勿論。あのね? カミサマ、答えが分からなくても、分からないなりに考えて、考えて、沢山考えて何か答えを見つけなきゃいけないの。『分かりません』なんて答えじゃ、人間社会では駄目なんだよ。許してもらえないの」
「許して、いただけない・・・」
ここ数日間考え続け、昨夜から今朝に掛けてもずっと考え、夜の帳が明け、朝の光りを浴びても尚、分からないでいたのだが、そこまで考えても出ない答えを尚、どうあっても出さないといけないらしい。朝日が痛くて、もうとても考えられないと思うのだが、それでも答えを出さなくては許していただけない。少なくとも、人間の世界では。
随分、厳しいのですね、人間社会というものは。
実感として初めて知る人間社会の厳しさに、溜息のようなモノが零れそうになる。しかし本当にそんなモノを零すわけにはいかない。人間が皆、そのような厳しさの中を耐え抜いて生きているというのに、『神』たる存在で在ることを願っている、目指している己が弱音を吐くわけにはいかないのだ。
そうです、答えは、頂いているのです。そのお答えが理解出来ないからといって、諦めるわけにはいきません。理解出来なければ、出来るようになるまで考え続ければいいのです。頑張り続ける、だけです。
胸に、決意を。胸元に、握り拳を。それ以外には持てずとも、それだけは持てると信じなくてはいけない。明日の朝日は、痛みを感じずに迎えられるように・・・と、そこまで考えて、ふいに感じた。違和感、というものを。
一体何故、また増えた疑問に諦めることなく考え、何気なく向けた視線の先には時間を刻む時計がある。普遍である時の読み方は、人が作った物であろうと流石に読めるし、数日とはいえ繰り返し経験したことも、覚えている。時計が刻んだ時間は、千鳥様が毎朝この部屋を出られる形を示していた。
「千鳥様」掛けた声、向けた視線。もうお出になる頃かと思いますが・・・と、そう掛けるはずだったのに、呼びかけただけで続きはない。何故なら向けた視線の先の千鳥様は、見たことのない姿だったのだ。いつものお召し物でもなく、寝巻きでもない、お召し物。上半身には赤と白の横縞の、袖が長いけれど生地が薄そうなお召し物で、下は学校で少年達が履いていたのと同じ形の長い履物。生地が厚くて、色はくすんでところどころ掠れているような青。
「どうかしたの? カミサマ」黙っていると、千鳥様が先を促してくださった。「その、もうお出になる時間ではないかと思いまして。それに・・・お召し物がいつもと違われるのですが、今日はいつものお召し物ではなくて良いのですか?」
学校へは、『制服』という決まったお召し物を纏わなくてはいけないはずなのに、何故か今日は違うお召し物なのか。一体何故かと今更ながらに問いかければ、千鳥様は一瞬、不思議そうな顔をされた後、すぐに私の問いの意味を分かってくださったらしく、小さく上下に頭を動かしながら答えてくださる。
「今日はね、学校、ないから」
「・・・ない? ない・・・ないのですかっ?」
「は? ・・・あぁ、そっちの『ない』じゃなくて、休みってこと」
「お休み、ですか?」
「そう。学校はね、一週間・・・七日間のうち、五日、行けばいいの。残りの二日はお休みで、勉強しなくていいんだよ。毎日勉強してたら、疲れちゃうからね」
だから制服も着ないし、いつもの時間に家を出る必要もないの・・・と仰る千鳥様はいつも通り笑っていらっしゃるけれど、いつもよりもっと楽しげで、学校に行かないで済むことが嬉しいことであるとはっきり感じられた。
つまり、勉強とはやはり好んでするものではないのかと改めて思えば、蘇るのはこの数日間、ずっと見つめていた他の人間の子供達の様子。確かに、喜んで勉強に勤しむ者はいなかったのだが・・・己の知識の中には、学ぶことが出来るのは喜ばしいこと、という漠然とした認識があって・・・。
「千鳥様」思わず掛けた声は、我ながら酷く沈痛な色をしていた。「どうかした? カミサマ」対して、千鳥様のお返事はやはりいつも通り軽やかで。尋ねてばかりのこの身を疎んでいる様子が感じられないのを救いに、またもや問いを重ねてみる。
「その、私の中で、学ぶ事は喜びであるという認識があるのですが・・・違うのでしょうか?」
「あぁ、昔はそうだったんじゃない? 今でも、多分学びたくても学べない人達にとってはそうだと思うけど・・・でも基本、私たちみたいに何もしないでも勉強する権利を与えられている人間で、勉強を喜んでする奴っていないんじゃないかなぁ」
「・・・つまり、その、私の知識は古い、ということなのでしょうか?」
「まぁ、今の時代とは合ってないかもね。カミサマ、頑張らないと」
恐る恐る重ねた問いは、朗らかな声で肯定され、知らず、肩が落ちた。『現在』という時間に合った知識を所有していないのならば、この時代を生きている人間には役に立つはずもなく、当然、千鳥様のお役に立つわけもないのだから、落ち込まずにはいられない。だが、千鳥様が応援してくださっているのだから、落ち込むばかりでもいられない。
応援してくださっているということは、見捨てられたわけでも見限られたわけでもないのだろうから。そう、それならば、まだ努力することは出来る。努力しようとすることは出来る。
存在を見てもらうことすら出来ない、あの時と比べたら遥かに恵まれてすらいる。
「千鳥様」振り返れば、寒くて淋しくて哀しかった時間が探す必要もないほどすぐ真後ろに見つかる。前ではなくて後ろに見つかるからこそ、真っ直ぐに千鳥様を見つめられる。「頑張ります、千鳥様。私は、頑張りますから」不恰好な手を握り締め、不恰好な握り拳を作って宣言すれば、僅かに目を見開いた後、千鳥様は・・・何故か、開いた目を細めて。何度か、繰り返される瞬きの後、軽く唇を噛み締め、口角を上げる。
「そっか」
上がっていた口角が解け、最初に聞こえてきたのはその一言。溜息のようなその声は、掻き消えそうなくらい細く、小さいのに、決して砕くことが出来ない硬質な塊のように、その場に頑なに転がって。
ご飯食べて顔を洗って戻ってくるから、ここにいて、そう告げた千鳥様が転がった塊を素通りして部屋から出て行かれる。その様を言葉を挟むことなく見送るだけだったのは、転がった塊があまりに頑なだったからかもしれないと・・・そんな考えが、何故か胸の中を転がった気がした。