long5-11

──千鳥様を待つ時間は、夜であれ朝であれ昼であれ、酷く長い。

出て行かれた千鳥様は、実際の時間の流れが信じがたいほど長く感じる数十分で戻って来られた。僅かに横髪を濡らし、目の動きを確かめていらっしゃるのか、何度も、何度も瞬きをされてから向けられたお顔には、あまり見かけたことのない表情を浮かべられていた。何と表したら良いのかが分からないけれど・・・しいて言うならば、行き先が定まっていない感じがする、表情。
「千鳥様?」不思議に思って掛けた声に、真っ直ぐ机の方へ向かわれた千鳥様は答えない。ただ、通り過ぎる間際に合わさった瞳がじっと、何かを訴えるような色を滲ませていた気がした。その意味を考えている間に机の横にしゃがみ込んだ千鳥様は、学校へ向かわれる時とは違う鞄を取り出し、その中に何か、書物を詰め始める。入れては出して、出しては入れて、己には分からない選別の果てにやがて鞄は閉められ、背を向けていた千鳥様はこちらに振り返りながら唐突に仰られる。「顔を洗ってたら思い出したんだけど、期限だったから、図書館、行かないとなんだよね」と。
「・・・期限、ですか? 『としょかん』、と申しますと・・・」口にしながら、胸の内でその単語を必死で探す。たとえ古い知識ばかりだろうとも、全く知らないよりは古くなっていても多少の知識がある方が、やはり良いだろうから。「図書館、知らない?」探している間に聞こえてきた、千鳥様の声。まるで書物のページが捲られるように、探していた知識が目の前に広がる。『図書館』、そう、知っている。持っている、知識。
「読み物を・・・借りられる、場所ですよね? その、皆の共用物としてその施設に所有されている本を、一定の期限の間、借りられる・・・と、私の中の知識ではそうなっているのですが、その、また・・・」間違っていますでしょうか、そう続けるはずだった言葉は、鞄を持ち上げて歩き出した千鳥様によって遮られる。「大丈夫、合ってるから。・・・まぁ、凄い説明文みたいな知識だったけど」という、意味が分からない箇所が少々ある、肯定によって。
自然と傾く首。しかし千鳥様はまたもやこの身を素通りし、扉へと向かう。ただ、今度は置いていかないで下さった。扉の前で足を止め、振り返って声を掛けてくださる。「その期限がきてる本があるから、返しに行くの。カミサマも、一緒に行くでしょう?」そう、声を掛けてくださる。
一緒に、そのお言葉がどれだけこの身にとって価値があるか、きっと千鳥様はご存じない。お声の軽やかさに、それが感じられるけれど・・・まだ何もかもが不十分なこの身では、あの言葉の価値をご説明することは出来なくて。まだ、出来ないけれど・・・。

「はいっ、ご一緒させていただきます」

せめて、頂いたお言葉、その価値に報いる為に、早く人間の事を沢山学んで、学んで、学んで──千鳥様を『何か』からお救いしたいと思う。勿論、自身が『神』で在りたいからという理由が第一にあるが、それと近しいほど、思うのだ。
喜びを、喜びでお返ししたい、と。

**********

初めての経験、というものは、何かしらか胸が高鳴るものらしく、千鳥様のご迷惑になっていると十分承知の上で、それでも高鳴り続ける胸の鼓動を抑えることは不可能だった。いつもとは違う景色が、いつもとは比べようもない速度で流れていく様を目の当たりにしては。
「・・・まさか、自分より図体のデカイ相手と二人乗りをする日が来るとは思わなかった。ってか、自分が漕ぐ役だとは思わなかったって言うか・・・」
「申し訳ありません、千鳥様」
「まぁ、重さを感じないからまだいいけど・・・ねぇ、飛ぶとか高速で走るとかって、やっぱり出来ないの?」
「全力で走ることは出来るかと思うのですが・・・」
「いや、全力で頑張りますなんて、誰だって出来るでしょ。そうじゃなくて、高速でだよ。自転車乗ってるんだから、追いついてくるなら高速じゃないと無理じゃん」
「この素敵な乗り物の速度と同じほどの速さで走ることは、難しいかと・・・」
「分かってるよ、さっき一回聞いたもんね。分かってるから、乗せてあげてるんだし。・・・でもね、分かっちゃいるけど、ついもう一回くらい言いたくもなるわけ。だって、ちょっと、予想してなかったからさ」
まさか、図書館行くのに荷台にカミサマ、乗せていく羽目になるなんてさ・・・と呟くように口にされる千鳥様の後ろで、千鳥様には悪いと思いながらも心は周りに向かっていた。初めて体感する速さで過ぎ去っていく、周りに。
──千鳥様と外に出るまでは、何も考える必要もないほど当たり前の行動しかとっていなかった。・・・が、外に出て、庭の片隅に向かい、初めてそれを目にした後、それまで滑らかだった千鳥様の動きが止まられたのだ。『自転車』を、目の前にして。
まぁ、確かに、動きを止めるしかなかっただろう。聞けば図書館までは多少の距離があって、自転車で行くより他に妥当な手段がないとのことなのだ。しかし自転車は一つだけしかなく、ましてやこの身は人間からは見えぬのだから、自然、答えは一つに縛られてしまう。縛られて・・・こうして今、千鳥様が漕がれる自転車の後ろの席に座り、過ぎ行く景色を楽しんでいる、と。
「しかし便利な乗り物があるものですねぇ、歩くより、遥かに早いです」
「まーね」
千鳥様の後ろ、本来なら荷台に使うという網目状の硬い板に跨って、千鳥様の両の肩にそっと手を添えながら口にするのは心の底からの感嘆で、零したそれに千鳥様は柔らかに同意される。返ってきたお声のその柔らかさに嬉しくなりながらついでに尋ねた「でも、何故学校にもこれで向かわれないのですか?」という問い掛けには「そういう決まりだから」という、あまり納得がいかないお答えが返ってきて。
何故そんな決まりがあるのか、納得しかねるがそれが人間社会の決まりごとなのだと言われれば、そうなのかと頷くより他にない。しかしどうも、人間の社会では理解しかねる決まりごとが多いとしか思えないのだが。
「大変、ですね」つい零す、それは半ば、己へ向いた溜息。「何が?」しかし千鳥様には聞こえたらしく、取り巻く風の声の間から意味を問う声が聞こえて。「人間は決まりごとが沢山あるようなので、大変だなぁと」返す声。本当は、その決まりを一つずつ覚えていかなくてはいけない己が身の大変さを実感していた部分もあるのだが、弱音のようなそれを語るのは気恥ずかしく、あえてそれは語らなかった。
「そうでもないよ、人間って、縛られたくないって言いながら決まり事で雁字搦めにされるのが大好きな生き物だから。自由にね、憧れるのが好きなの」
「自由に憧れる・・・ですか? それなのに、不自由なのがお好きなのですか?」
「そう。憧れってね、手が届かないから憧れるの。人間って、そういう馬鹿みたいに複雑な生き物なんだよ。だから・・・大変なのは、人間じゃなくてその人間に関わらなきゃいけない『神様』の方かもね」
可哀相だよね、そう、千鳥様の言葉は締め括られる。締め括られた時の彼女の顔は、後ろからは見えないし、背中と後頭部だけしか見えないその姿は、終わりを意味しているようでそれ以上声を掛けられなかった。けれど声を掛けることが出来ずとも、もし叶うなら、その言葉を語られる時の千鳥様の顔を、瞳を見つめたかった。流れる景色の傍で、そう、思う。何故なら千鳥様のその締め括りは、軽やかさや笑みを一切含まない、平坦なほど滑らかな声で語られたから。だから・・・いつもとは違う表情をされていたのではないかと思って。
・・・だから。
何故と説明することは難しいけれど、違う表情を、千鳥様の表情を、見つめてみたいと、そう、思って──けれど締め括られた言葉は再開を迎えることなく、終わりに到着する。緩やかに減速する乗り物は、やがて決定的に停止し、いつも通りに戻られた軽やかな千鳥様の声が「着いたから降りて」と促せば、跨った場所から離れるしかなく。
降りてからすぐ窺った千鳥様は、自身も降りて自転車を引き摺りながら・・・いつも通りの千鳥様でしか有り得なかった。

──大変かもしれませんが、可哀相ではないと思うのです。

少なくとも、私はそう思うし、どれだけ大変でも人に関わってみたいと思うのです。・・・そう、告げることが出来ないまま、千鳥様の後を追って概観以上に何故か四角く感じる建物の中に入った。足を踏み入れ、背後で閉まる透明な扉。四角が四角く完成された途端に感じる、静謐な沈黙に、次に踏み出すはずの足が止まりかけた。初めて感じる種類の沈黙に、気圧されて。それでも止まりかけた足を動かしながら辺りを見渡せば、この空間と同じ沈黙を纏う人間が疎らに点在し、点在する人間に立ち塞がるように本を押し詰めた壁が乱立している。そして押し詰めた本からも発せられる、沈黙。
四角い建物に一杯まで押し詰められている沈黙。外に零れないのが不思議なほどの量なのに、重みすら感じるその沈黙は何故か息苦しくはない。不思議に思ってもう一度辺りをゆっくり見渡せば、沈黙と同化した紙のリズムが聞こえてくる。重みを持った、軽やかさが。軽やかさ・・・千鳥様の笑みや足取りとはまた違う、軽やかさが。
「返却、お願いします」沈黙と沈黙に同化したリズムに傾けていた耳が、その時、丁寧な千鳥様の声を見つける。視線を向ければ、鞄の中から取り出された本が、低い机の上に置かれ、その机の向こう側にいる人間がその本を手に取って何かをし始めたが、千鳥様はそれ以上その場に留まることなく、足を先へ進めてしまう。
視線は常に左右に流され、足は迷いながらも奥へ、奥へ。疎らだった人間は疎らですらなくなり、やがて誰もいない片隅へ辿り着く。そこで突然振り返った千鳥様は、眼差しだけで私を呼ぶと、沈黙を荒らさない微かな声で告げる。「自由にしてて」と。
それは初めて学校へご一緒させていただいた時と同じ状況で、だからすぐに意図は飲み込めた。この場では、千鳥様と会話を交わすことは出来ない、だから千鳥様の用が済むまで、この場を好きに散策しているようにとの意味。「自由にしてて」告げられた言葉が、胸にもう一度蘇る。『自由』、先ほど上がった話題。人間にとっては望むべき忌避。ならば、目指すべき『神』という存在にとっては、どんな意味合いなのだろうか、と。
自由──誰の干渉も拘束も受けない状態、つまりそれは、誰にも何も指示されず、全てを己だけで選ぶこと・・・想像する、自由の世界。誰も、誰も、誰も。想像して、肩が震えた。己の想像の仕方が悪いだけなのかもしれないが、浮かぶ世界は、何だか酷く広くて、広すぎて、広すぎるほど広いのに、己ただ独りしかいなくて。
とても、寒い気がした。そして、その寒さにとても覚えがある気がした。
・・・やはり、良いものではないのでしょうか? 
考えれば、そんな結論に達した。伸ばしても伸ばしても、誰にも何も届かない圧倒的な虚無や孤独、哀しみが『自由』という言葉に含まれている、そんな予感。
寒気、というのだろう、感じる震えを振り払いたくて向ける視線の先には、千鳥様のお姿はなかった。この箱の中のどこか好きな場所に行かれてしまったのだろう。学校にいる間は、色んな場所を見て回っていたし、今もそうしていていいのだと分かってはいたけれど・・・抱いた『自由』の印象に、踏み出した足は千鳥様の行方を求めて止まなかった。
四角い箱の中、敷き詰められた本の道をそのお姿を捜し求めて歩き続け、何本目かの道を歩いているうちに、視界と思考は目の前から剥離する。眩暈のように、求める己の気持ちの方へと傾いていく。探し続ける、求め続ける己の思いと行動、その理由の方を探し始める。
何故、探すのか。何故、求めるのか。何故・・・そう、何故、関わりたいと思うのか。不可解で手に負えないかもしれない『人間』。思い出す、約束と己の願い。けれど、思い出しても納得には至らない。『神』で在りたいという願い、願いを叶えてくれる人間、人間、人間。
・・・ですが私が知るのは千鳥様だけです。
ふいに、見晴らしの良い場所に出た気がした。目の前にある全てが取り除かれ、圧倒的なほど遠い景色が目の前に突きつけられる、そんな気が、確かにした。した、はずなのだが、その見晴らしが良い景色の真ん中に見つけた姿に、目の前に突きつけられたはずの全てが一瞬にして消え去ってしまう。
本の背を指先で辿る、千鳥様がいらっしゃった。軋むほどに詰められている本の背を、人差し指でそっと辿っている千鳥様が。辿って、辿りきると離れ、離れたかと思うとすぐ傍の別の本の背へ移る指先。
じっと、静かな眼差しを注ぐ千鳥様が。
何の、表情も浮かんではいなかった。それなのに、無表情の下から強い感情が滲み出ているかのようだった。抑え切れない、何か。器にした掌で掬った水、溢れて、零れ落ちる滴が、掌から溢れ出るような。その、滲んだ、溢れた感情が何であるのかは、考える必要もなく分かった。見つめる己の目から、染み入るように感じられたから。嬉しそう、楽しそう──幸せそう。どれもその通りで、けれどそれよりもっと強い。ただ、的確な言葉が見つからない。見つからない、けれど・・・足は、意志から離脱して動き出す。
「・・・お好きなのですか?」もう、聞く必要もない問い。口にしてから、声を掛けてはいけないのだと思い出したけれど、肩を跳ねさせて振り向いた千鳥様は、辺りを一度見渡してから答えてくださる。微かな、あの時と同じ、沈黙を尊重した声で「好きだよ」と。
「本はね、好き。凄い、好き。だって・・・」

目を、瞑っていられるから。

「だから、好き」好き、凄く好き・・・繰り返し繰り返され、やがて本へ戻っていく視線と指先。引き止めることが叶わないそれは、とても大切に形成され、再び刻まれた文字を撫でる。・・・否、愛でる。
そう、愛でると評するのが相応しいほど、優しい仕種だった。そして、特に優しく愛でられた本は、やがて息苦しい陳列から解放され、千鳥様の両の手に大切に抱かれる。一枚、また一枚と捲られ、それ自体が持つ意味を価値に変える。
堪らないほど優しく繰り返されるその行為を、ただ、見つめていた。注がれている眼差しを、ただ、見つめていた。そうして見つめているうちに蘇る、千鳥様の言葉。目を、瞑っていられる・・・でも、こんなにも見つめているのに? 大切に、見つめているのに?
瞑っていられる目は、注がれるあの眼差しとは別のものなのでしょうか?
不思議に思う。また分からないことが増えたとも思う。でも、疑問が増えたことを残念だとは思わない。こんなにも、そう、こんなにも幸せそうな眼差しがここに在る、ここに在るのを見つめていられる、それならば残念なことなどあるわけがなく。
見つめる先、唇が、微かに刻む形。刻まれた形を知らず、けれど刻んだ後に残される喜びの余韻を見つけて、胸に込み上げてくる、何か。込み上げて、喉元を通り過ぎ、唇から零れそうになる直前に押さえ込んで、初めてその形を知る。知らなかった『笑み』の形。その笑みを滲ませる、千鳥様の横顔。優しく捲られる、大切な何か。出会いからいつだって、笑みを浮かべ続けている千鳥様。
でも、あんな笑みを浮かべてくださったことは、未だない。未だない、その事実が、形を持って胸に落ちる。

──あの笑みが浮かべられるよう、その手助けが出来たらどれだけ良いでしょうか?