──あの笑みが浮かべられるよう、その手助けが出来たらどれだけ良いでしょうか?
同じように笑っていただきたいし、その手助けが出来たらと思うし、それが出来るようになるのが千鳥様を『お救いする』ことなのかもしれないとも思う。しかし未だ何からお救いするのかも分かることが出来てない不出来な己に、すぐに何かが出来るとも思えず。
思えないのに、それでも笑ってほしいと望む己は『神』で在りたいと願う身でありながら、あまりにも傲慢なのかもしれない。否、きっと傲慢なのだろう。醜い己がそんな精神を持っていることすら許されないだろうに、諦めが悪く、理解も悪く、おまけに傲慢で・・・。
「・・・そうは思うのですが、しかしながら分不相応にも、願いを捨てきることが出来ないでいるのです」
「・・・カミサマ、ごめん。カミサマが物凄く真面目なのは分かってるし、その真面目なところは結構イケてると思うんだけど・・・」
「千鳥様、『いけてる』とは、一体・・・」
「ダブルでごめん、それは後」
「『だぶる』・・・」
「とにかくっ、話が見えないんだって。さっきから何、言ってるの? 願いって?」
図書館で数冊の本を借りられた千鳥様が漕がれる自転車の後ろ、再び乗せていただいて、人気のない道を進みながら交わす会話は、大きすぎれば偶に出会う人間の不審を招き、小さすぎれば風に消されて聞こえない。出来うる限りの調整を利かせてのそれは、己にとっては痛切な訴えだったのだが、千鳥様には何やら訳が分からなかったらしい。己も、千鳥様の言葉のうち、幾つかが分からなかったのだが、それは脇に置いておかなくてはいけないらしいので、今は忘れて・・・そういえば、途中までは胸の内の独り言だった気もする。
「いえ、その、何と申しますか・・・」独り言だった部分を改めて説明しようとすれば、酷く言葉に詰まった。けれどおそらく、それは簡単なことのはずだった。ただ、己にとっては喉に詰まるほど大きな存在だというだけで。
「カミサマ?」前を向きながら、不思議そうな千鳥様の声。その声は、あの四角い世界で聞いたものとは少し違っていて、気の所為かもしれないけれど感じるその違いに、胸におかしな違和感を覚える。喉に詰まっている何かと、根元を同じにする何か。その正体を見極めることが出来ず、喉を詰まらせたまま、零れた。無様なほどに、何の装飾もされていない形が。「思ったのです。本を、ご覧になっている千鳥様を見て」思った・・・否、思うより先に、知った。きっと、知らされた。
「とても、嬉しそうで、幸せそうでした。私も、あそこにあった本が齎したのと同じ幸せを、千鳥様に差し上げたいです」
まだ、お約束したように千鳥様を救うことも出来ず、だからこそ『神』とは到底呼べないこの身で、何を不遜なことをと思われるかもしれませんが・・・最後は、消え入るようなか細い声になっていた。風が吹けば彼方まで吹き飛ばされて、すぐ目の前にある千鳥様の耳に一欠けらだって入らなかったのではないかと思えるほど、微かな声に。
・・・千鳥様は、暫しの間、何も仰られなかった。沈黙し、前だけを見つめ、私を乗せて自転車をひたすら漕いでいらっしゃった。返事すら、なく。
やはり己の厚かましさが、不遜な発言がご不快を買ってしまったのかと、そう思ったが、しかし千鳥様の背中からは不快な思いは感じられない。代わりに、揺れる何かを感じた。揺れて、揺れて、揺れて・・・走る自転車から、転がり落ちてしまいそうな何かを。
「千鳥様? あの、今、どちらに・・・?」
零れ落ちてしまうかもしれない何かを追って周囲に向けた視線は、見覚えのない景色を見つける。てっきり、ご自宅に向かっているのかと思っていたのだが、見かけない景色はその考えを否定して。そっと声を掛けながら、返事は戻ってこないような気がしていた。何故かは、分からない。ただ揺れている千鳥様は、己の問いに耳を傾けてはくださらないのではないかと、そんな気が。
「ここなら、あるよ。カミサマからもらえる、幸せみたいなの」
しかし唐突に、動いていた景色が止まり、驚きの中に千鳥様の静かな声が響く。問いの答えとは少しだけ違うけれど、確かに一つの答え。降りるように促され、千鳥様ご自身も降りられて向かうのは、すぐ目の前に建つ長方形の建物の中。一歩入り、辺りに視線を向ければそこもまた、数々の本が圧倒的なまでに空間を埋め尽くしていた。
ただ、先までいた図書館とは明らかに空気が異なる、場所。
棚、押し込められた本、それだけは同じ。けれど表紙が見えるように並べられた本や、微かに流れてくる音楽、目映いほどに明るい光りがあの空間とは空気そのものを別の物にし、何より・・・あの、評しがたい柔らかな静寂と沈黙が、ここにはない。
ゆっくり進む千鳥様の後を追う、己の行動も同じ。同じ行動を取りながらこの場所を考えて、考えて、考えて、涌き出る知識に、教えられる。ここは『本屋』。金銭と引き換えに、あらゆる書物を得る場所。
借りる、という行為と、買う、という行為の違いだろうかと思う。漂う、雰囲気の違いを。それとも、もっと違う何かがあるのだろうかと考えながら追った先、千鳥様はふいに、奥まった人気のない場所で立ち止まる。まるで、先の繰り返しのように。
「千鳥様?」見渡す周りに他の人間がいないことを確認してから掛ける、声。今度こそないかもしれないと思っていた返事は、己のちっぽけな不安など知らぬ気にすり抜ける。千鳥様は私に小さく指先を動かして近づくようにとの意志を示されると、従って近づいた私へ、更に口の動きだけで『耳』と、一言告げられる。耳・・・耳を、寄せるようにと、おそらく、そういう意志。
躊躇は、千鳥様に耳を近づけることではなく、赤く爛れた己が耳を、千鳥様に近づけてしまうことに対して感じたもの。小さな桃色の唇が、万が一にも穢れたらと、そんな不安だけが重なる。重なる、けれど・・・『耳』と、もう一度告げられたら従わないわけにはいかない。従わずには、いられない。
傍にと──そう、言われたならば。
近づけた耳、どうか穢れませんようにと捧げることも出来ない祈りに似たものを抱え、じっと、意識を向けた先。少しだけ上向いた千鳥様の気配。表情は、見えない。・・・見えないが、何故か笑っていらっしゃらない、気がした。自転車の、後ろに乗っている時と同じ。笑っていらっしゃらない気がする時ばかり、お顔を見られないのか、お顔を見られないからこそ、そんな気がするのか。それとも・・・それ、とも?
「ねぇ、カミサマ? さっきの、本当?」微かな、囁き。溜息に、似た。「さ、さっき、と申しますのは・・・」混乱が、理解を凌駕する。理解が必死の抵抗。その攻防を見下ろす千鳥様が、上向いたまま重ねる言葉。「幸せを、あげたいって。私に、図書館にいた時みたいに、そう、言ってたでしょ? あれ、本当?」あれ、本当? 本当に、本当? 重なる『本当』。早く、早く支えないと、崩れていきそうで。崩れてしまいそうなほど、頼りなくて。
「ほっ、本当です!」張り上げる、声。一人にしか聞こえず、張り上げずとも聞こえる距離なのに、顔を見て告げることも出来ないのに、それでも張り上げて。湧き上がる、沈黙。促される、熱。『羞恥心』というのだと、今更ながらに知るそれに、何も言えないでいると、耳に滑り込む『本当』の続き。
「ならね、それならね、お裾分け、してほしいな」楽しげな、声。でもそれなのに、何故か・・・やはり、笑っていない気がする。どうしてなのかは、分からないけれど。確かめることすら、出来ないけれど。「お供え物の、お裾分け。あっちの棚にね、私の好きな本があるから・・・それを、この前みたいにカミサマのお供え物として移動させて、ね? それで、そのお供え物を、お裾分けしてほしいの。それ、貰えたら・・・凄く、嬉しい。凄く嬉しくて、幸せな気持ちになると思う。ねぇ、カミサマ」
ねぇ? 駄目? 嫌? ねぇ、ねぇ、ねぇ・・・千鳥様の声が、耳の奥で反響する。耳の奥から、更に奥に入り込んで、そこでまた反響する。ねぇ、ねぇ、ねぇ・・・反響したものが反響して繋がっていく反応を、どこまでも追いかけていく己の意識を自覚する。止めようもない、自覚。認識出来るのは、千鳥様が幸せを望んでいること、千鳥様の幸せを、己が望んでいること。お裾分け、お裾分け。お供え物なら、良かったはず。そう、千鳥様は仰っていて。千鳥様が、仰っていて。
そう、いつか、必ず立派な『神』にと、誓うから。
「あの、本。あの、平積みになっていて、表紙に男の子二人が描いてあるヤツ。表紙の上の方に、タイトル書いてあるでしょ?『月にゆびきり』って」
細く白い指が、少しだけ持ち上げられて指し示す先。並べられてる本、順番に見ていくと、確かにある、本。目の大きな少年が二人、描かれていて、千鳥様が仰っている題名。見つけたら、もう迷わなかった。考えることすらない。方法は、既に知っている。じっと、見つめて意識するだけ。己が手の中に、と。
ふっと、何かが離れる感じ。一瞬の後、今度は何かが己の手の中に落とされる感触。視線を落とせば、そこには先ほどまで見つめていた本。供え物として取り寄せた物。・・・千鳥様に、お裾分けするべき物。
「カミサマ」小さな、けれど形ある千鳥様の声。驚いて少しだけ離した身体。距離を作って見つめる直前、一度、腕を強く引かれる。「行くよっ」鋭さすら感じされる声を、掛けられながら。離された手。そして翻る、背。慌てて追った先では、既に自転車に跨り、今にも漕ぎ出しそうな、千鳥様。置いて行かれまいと急いで後ろに跨ると、自転車は今までにない速度で走り出す。どんどん離れていく『本屋』と、おそらく向かっているのだろう、千鳥様のご自宅。
上手く、物事を考えられないまま、それでも自転車は千鳥様が漕がれるだけ進み、後ろに乗せていただいているだけのこの身も進む。片手を、千鳥様の肩に置かせていただきながら。もう片手で・・・千鳥様に渡すべく、供えられた本を握り締めて。