long5-13

「千鳥様、こちらを・・・」
差し出すのは、当然だった。全ては、その為だったのだから。部屋に入ってすぐに差し出すのも、当然だった。すぐにでも喜んでいただきたい、その一心だったのだから。しかし差し出した本を受け取り、輝く瞳で笑みを浮かべ、楽しげな、嬉しげな声で「ありがとうっ、カミサマ」と勿体無いお言葉まで頂きながら、得た笑みと言葉に喜びだけを感じるには二つ、気になる点があった。
鞄を少々乱暴に置き、本を手にしたままベッドへ身体を投げ出して、輝く瞳のまま、紙面へ眼差しを注ぐ千鳥様。・・・の、笑み。・・・が、どうも、こう、何と評すれば良いのかがさっぱり分からないし、妥当な言葉を見つけることが出来ないのだが、それでも・・・違う、気がした。あの、図書館で見た笑みとは。心から喜んでくださっているのは間違いないと思う。思う、のだが、あの瞳と笑みの輝き方が、どうも違う。どう違うのかは上手く評せないが、しいて言うなら・・・圧倒されるほどの、熱に溢れているというか。
何故なのでしょうか? 少々、近寄りがたい熱のような気がするのは?
首を傾げる疑問は、もう一つ。自転車の後ろに乗っている間、目にしていた本。その、本に巻かれた紙に書かれていた、文字。その文字の意味がいまいち分からず・・・「あの、千鳥様」とても楽しげな千鳥様の邪魔をしてしまうのではと思わなくもなかったが、何かに強く促されるように、どうしても今、尋ねずにはいられなかった。
「なーに、カミサマ」
「あの、一つお伺いしたいのですが・・・その、本に巻かれている紙なのですが・・・」
「紙? あぁ、帯のこと?」
「オビ・・・そう、言うのですか? あの、でも、それに書かれていることは、その、どういう意味なのでしょうか? 『二人の少年が織りなす、誰にも言えない恋、その最初の物語』とあったのですが・・・あと、その下の方に『ボーイズラブの決定版』ともあるようですが、その『ボーイズラブ』とは、何ですか?」
とても不思議な文言だと思った。織りなすのが『恋』であるなら、織りなしているのは少年だけではなくて、女性もいるはずだろうに、あの文言ではまるで少年達だけで織りなしているように取れてしまう。それに、またもや探しても見つからない単語。英語、という言語なのは分かるのだが、しかし『ボーイズラブ』というのは一体どういう意味なのか?
申し訳ない、そう思いながらも口にした問いに、何故か沈黙が落ちた。楽しげに紙を捲っていた千鳥様の手が止まり、じっと、時間がその役目を忘れたかのような静止し、しかし静止の始まりを認識した次の瞬間には、静止していた事実を葬り去るかのように、時はその役目を再び思い出す。
紙面からゆっくりと上がる顔、横になったまま顔の向きだけをこちらに据え、それから暫し、沈黙。不可思議な圧力を齎す、沈黙。力は、向けられた眼差しに宿り、真っ直ぐに注がれて。何か、圧倒的な意思の力を見た気がした。
「カミサマ、一つ、教えてあげる」見せられる力、圧倒されて黙っていた最中、向ける眼差しと同じ強さの声が発せられる。有無を言わさぬ、というのは、きっとこういうことだと、それだけが分かる、声。
「あのね、ボーイズラブっていうのは、乙女の嗜みなの。乙女って、つまり女の子だけのって意味だけど。だからね、ボーイズラブ関係の事を乙女以外が口出ししちゃいけないの。目に止まっても、疑問に思っても、駄目なの。これはマナーなの。絶対のマナーなの。・・・でね、カミサマは人間じゃないけど、一応、男の人の格好でしょ? だから、カミサマも聞いちゃ駄目なの。分かる? これは、二足歩行が可能な存在、全てに共通したマナーなの」
「・・・そう、なのですか? では、その、私も、聞いてはいけない、と」
「そう、そうなの。聞いちゃ駄目なの。マナーだからね、守らないと。だからこの話はこれで終わり。・・・あ、あとね、カミサマ、私がこれ読み終わるまで、寝る時と同じように後ろ向いてて」
「何故ですか?」
「マナーだから」
きっぱりと、それ以上の全てを切り捨てるかのような言い方での断定に、切り捨てられた己はそれ以上の問い掛けをすることは叶わなかった。分かりました、と一言、了解の返事をし、夜と同じように千鳥様に背を向ける。己の引き出しを見つめ、その場で座って千鳥様が本を読み終わられるまで、今、教えていただいたことを考えながらお待ちしようと、そう、思っていたのだが。
・・・数分後、音がした。何か、こう・・・暴力的な、音が。
「ちっ、千鳥様?」振り返りそうになる身体を意志の力で押さえつけてかけた声に、返事はなかった。ただ、まるで返事の代わりのように、暴力的な音は続く。背後、千鳥様の方向から・・・方向、から?
「もうっ、ちょっ、無理―!」
「千鳥様っ? どうされたのですか!」
「ヤバイ、死ぬって!」
「死ぬっ? 千鳥様っ、千鳥様!」
続く暴力音とともに、千鳥様の苦しそうな声が恐ろしい単語を何度も繰り返され、心配で心配で、振り向きたい気持ちは更に募る。募り、腰が浮くけれど・・・途端に飛んできた「こっち向いたら駄目!」という千鳥様の鋭い声に、上げた腰を下ろすしかなく。
一体何が起きているのか、耳の奥で聞こえる暴力音が激しく反響して思考が纏まらない。しかしそれでも耳だけに意識を集中すれば、聞こえていた暴力音が千鳥様が発している音なのが分かって・・・混乱と心配は増すばかりだった。千鳥様が暴れていらっしゃるのならば、何か、体調不良で苦しんでいらっしゃるのかもしれない。『無理』『死ぬ』、これらの単語が示すとおりに。
「千鳥様っ、千鳥様! 大丈夫ですか? 具合でも悪いのですか?」背を向けている先に何度も何度も、重ねて問いかけたのだが、やはり答えはない。代わりに、続く暴力音と混ざる笑い声。しかも聞いたことがない、何やら引き攣った、笑い声。でも、とても、とても楽しげな声。
「あー・・・ヤバイ、マジ、ヤバイ。これ、絶対明後日、持ってくしかないなぁ」
全く戻ってこない返事、千鳥様は溜息混じりに独り言を洩らされる。洩らして・・・また、暴力音と笑い声を響かせる。何の説明も返事もなく。暫く聞き続けているうちに、きっと今、何を話しかけても返事は戻らないだろうという諦めにも似た感情が湧き上がり始めた為、もう何も言わずに大人しく背を向けて黙っていたのだが・・・胸に生まれる疑問は尽きない。
同じように本が理由なのに何故、図書館で本を手にしていた時とはここまで反応が違うのか? 特に、笑い声が・・・決定的に、違う、気がする。何か、色々な意味合いで違う気がするのは何故なのか? それに、千鳥様が何度も口にされている『やばい』とは? ただ一番気になるのは・・・己は聞いてはいけないという『ボーイズラブ』というものは一体なんなのか?
乙女の嗜み、ということは、他の女の方も嗜んでいるのでしょうか? 
見るものといえばあの引き出しだけの状態で、首を傾げて考える。続く音に、嗜む、というものはこの暴力的な音を伴うものだっただろうか、とも。考えて、考えて、考えて──夜まで断片的に続いた笑い声、夜が過ぎて朝を迎え、また思い出したように紙を捲っては発生される暴力音。その度に胸に蘇る疑問。
ただその翌日、千鳥様にまた同行させていただいた学校で、疑問の内の一つは答えを得ることになる。教室内、その、片隅で、千鳥様が親しくされているご友人、三人と共に、あの本を開いて・・・。
「ねぇ! これ、ヤバくないっ?」押し殺しきれてない、千鳥様の興奮した声。「あっ! それ、知ってる! 良い感じにヤバイよね!」ご友人の一人、薄茶色の髪をした女の子『サキ』さんの叫び声。「えっ? どんな感じにヤバイの?」目を輝かせて尋ねている同じくご友人の一人、高く髪を結わいた濃い肌色をした少女『アサカワ』さん。「ウケがヤバイの? それともセメ? 希望的としては両方ヤバイのが良い!」高らかに朗らかに叫ぶ背の高い少女『モモ』さん。
そして千鳥様を含めて四人、信じがたいほど合った息で上がる「それ、ヤバすぎ!」という叫び声。
・・・あまりにも多すぎた。『やばい』という単語。そして、いまいち理解不能な興奮。他にもどんな漢字を当てるのかすら分からない単語も飛び交い、しかし当然、聞くことは出来ず。分かることは、千鳥様が仰っていた言葉の正しさだけ。どの少女も弾けるような笑み浮かべ、瞳を輝かせて楽しんでいる。
楽しそう、ですね。
どの笑顔も、あの図書館での千鳥様の笑みとは違う。違うけれど・・・あの笑みを、そう望んだものではないけれど。ああやって、微笑ますことは出来ていないけれど・・・こうして笑わせることは出来るのかと、分からないものばかりに囲まれながらも、ふと、そんな思いが湧き上がる。湧き上がり・・・零れて、くる。

──楽しそう、ですね。

笑い声が、響いていた。またもや知らない単語が飛び交っていて、内容は全く分からないけれど、とても楽しそうで。初めて見た、こんなにも楽しそうな千鳥様を。そして、この学校という場所でこんなも楽しそうにしている『人間』を。
お供え物をお裾分けするだけでこんなにも楽しそうにしてくださるものなのかと、そう思えばただ、温かかった。温かくて、温かくて。笑っている少女達を、人間達を見つめながら、自然と浮かぶ光景は、この笑い声がもっと広がっていく様。千鳥様や、他の人間全てが笑っている姿が見られたなら、どんなに良いだろうと、ただ、そう思う。
楽しげな笑みだけが、広がる光景。
もしも『神』で在れたなら、もっと沢山の笑顔を作れるのだろうか? ・・・そうであるなら、良いと思う。そうで在りたいとも、思う。『神』で在れたなら。己の、ただ一つの思い。たった一つの思い。
・・・そのはずだったのに、その時、はっきりと感じた。ずれて、いく様を。変わって、いく様を。たった一つの思いが、失われることなく変わる、その様を。とても、とても自然な鮮やかさで、目の前に広がる様を。

笑み、を。

『神』で在りたい、痛切に、そう、望む。望む、それはもう始まりのすぐ後からずっと同じで絶対に失われない望み。けれど知らない、そう、時折流れる『音楽』のような千鳥様達の笑い声を聞いているうちに、一瞬、考えないと思い出せない己に気づいた。失われてはいないのに、もっと鮮やかさを伴って、目の前にある、望み。
初めに『神』で在りたいと願った、その、理由。忘れたわけでは、ないのに。

──あの時は、己の存在意義の為に『神』で在りたかった。在らなければいけないと、それが、理由。『初め』の、理由だった・・・はず、だったけれど・・・。