──『神』で在りたい、その願いが、思いが、少しではあるけれど変わってきていることを知った。『始まり』の頃とは違うそれを己の中で見つめれば、違いはその向きと明度だと気づく。己にだけ向いていたモノが前へ向き、暗闇から逃れる為だけのものではなく、明るさを目指す為ものに。
そして不思議なことに、知った途端に急に辺りが明るくなった気がしたけれど・・・きっと、これは外部ではなく、内部の明るさ。つまり、己の内部。その、灯り。見つめているうちに何度も思う。繰り返し浮かぶ光景に、何度でも思う。
いつも笑みを浮かべている千鳥様。その笑みを向けていただけることに喜びを感じるからこそ、私は笑みではなくて、笑い声を上げるような喜びを差し上げられたら良いと思う。あの図書館で見せていただいたような笑みを齎すことが出来ないのなら、せめて、楽しく笑ってほしい。思う理由など失うほどに、強く、強くそう思う。すると新しい思いが生まれた途端、新しいものが視界に入るようになる。視界に、入れるようになる。
「・・・ねぇ、カミサマ」
「なんでしょうか? 千鳥様」
「あの、さ・・・何か、ついてる? 私の顔に」
「ついている? 顔に、ですか?」
「・・・あ、いいや、もう」
向けられれば喜ぶだけだった千鳥様の笑みを、詳細に見つめるようになったのは新しい思いが生まれたからだった。まずは、色々な笑みの違い、そしてその違いが生まれる要因などを知らなくてはと、そう思って。朝から始まって学校にいる間、学校から帰ってご自宅で過ごされる間、全ての時間において千鳥様のお傍を離れないでずっと過ごしていたのだが・・・何故か当の千鳥様から、少々意味合いが分かりかねる問いを受けてしまった。しかも気の所為かもしれないが、何処となく疲れていらっしゃる気もして。
「お疲れなのですか?」と心配になって尋ねてみれば、返ってくるのは「まーね」という、現代的な肯定の言葉。聞こえてきたそれに当然、心配になって更に言葉を重ねようとしたのだが、ベッドで横になられている千鳥様から「だから好きにしてて」と言われてしまえば、それ以上、会話を望むことは出来ない。
まだ人間のことを学びきれていない身ではあるけれど、数週間の経験で学んだことはある。『好きにしてて』という言葉、初めは漠然としていて意味が分からなかったのだが、今では『構わないでほしい』という意味だと知っている。つまり、もう今は話しかけたりしないでくれ、という意思表示だと。
千鳥様の気分を害したりはしたくない。優先事項の一つである思いに従い、あの言葉が出たら次に話しかけていただけるまで声を掛けない、背中を向けてなるべく視線も向けない、それが己が千鳥様とご一緒させていただいて学んだ、人間への『気遣い』。これが千鳥様が良く口にされる『マナー』というものの一種でもあるのかもしれないと、そんなことを考えながら向けた背。
向きを変える直前に目にした、ベッドに横になってあの小さな本を捲ってらっしゃるその姿を胸に抱きながら、いつも通り引き出しを見つめてその場に座ってすぐに始めたのは、あれ以来ずっと続けている思考の続き。
笑む千鳥様と、笑う千鳥様と──そのどちらもない、千鳥様。
どういう時に笑みを浮かべられるのか、笑われるのか、またどういう時にそのどちらも失っているのか、知りたいのはその三つ程度で、たかが三つしかないのに、愚かな己では必死で見つめなければ分からず、必死で見つめても幾つかの事実以外、分からない。
まず、本を手にしていらっしゃる時が、一番微笑まれることも笑われることも多かった。そして見つめているうちに気づくのは、微笑まれるのも笑われるのも、本を手にしていらっしゃる時のものが・・・何かを比べて評することが許されていないだろう身で敢えてさせていただくとしたら、一番、見ていて嬉しくなるもので。
その他に良く笑われるのは、学校でのご友人達との会話。時折、とても深刻そうなお話をされることもあるけれど、昼食時や勉学の間の休み時間に弾けるような笑い声を響かせていらっしゃることが多い。本当に楽しげなその笑みも、傍で見ていて嬉しくなるものだ。
更に光栄に思うのは、私との会話においても偶に笑ってくださることがある。私のもの知らずな問いや、思いつきのような意見に嫌な顔をされるどころか、とても明るい笑い声を上げてくださったりもする。正直、何故あんなにも楽しげにされていたのかは分からないが・・・楽しそうに笑ってくださる、それだけで喜ばしいので、なるべく笑ってらっしゃる千鳥様の楽しい気分に水を差さないようにしている。尤も、そんな意識をしなくとも、千鳥様が楽しまれていると他の全てが些細なことに感じるので、自然と見入ってしまうのだ。見入って、私自身、嬉しくて嬉しくて・・・。
いえ、それは置いておいて、ですね。
幾つか分かったことを改めて振り返ってみると、二つ、浮き彫りになってくることがある。・・・ある、気がする。
一つには、図書館で見た微笑み。あの微笑みを見て以来、厚顔にも、己に向けていただく微笑みにお会いした頃と同じだけの喜びを感じなくなってしまっていること。微笑んでいただけるのは勿論、嬉しい。嬉し、つい見入ってしまう。けれど・・・どうしても、感じてしまうようになってしまった。
図書館で浮かべてらっしゃる笑みの方が、ずっと、ずっと『微笑んで』いらっしゃる、と。
もう一つ、これは既に気の所為でもなんでもない、事実だと思うのだが・・・否、事実、なのだが、千鳥様はご自宅にいる間、特にご自身の部屋以外にいる時は、一度も・・・そう、一度も、ただの一度も・・・。
微笑まれないし、笑わない。
「そもそも、お話されているお姿がないのだから・・・」声になってしまっている、認識した時には当然、遅かった。千鳥様のお邪魔をしない為にも、声に出さないで考えていたはずなのに、つい口にしてしまった言葉。我に返り、いけないと思って咄嗟に振り返る。振り返って、視界に何かが決定的に入るより先に、己が振り向くことすらしないと決めていたことを思い出したけれど、それすらも遅かった。ただ、取り返しは充分すぎるほど取れることも同時に知る。
振り返った先、振り返らないと決めていた先、柔らかな『ベッド』の上。本を持ち、横たわっていた千鳥様は、手にした本を投げ出した状態で、眠りにつかれていた。目にしてはいけないと言われていた、眠る姿を晒していた。
洩れるのは、安堵の息。千鳥様のお邪魔をしたわけではないという安堵、そして・・・口にした言葉を聞かれていなかったという事実そのものに対する安堵。何故かは分からない、分からないのに聞けない、聞けないのに分かっている、否、感じていることがある。こんなにもの知らずで愚かな己ですら、感じてしまうことがある。
──千鳥様に対して、口にしてはいけないこと。
口にするなと言われたわけでもないのに、感じていた。微笑まない、笑わない千鳥様のご様子に、感じずにはいられなかった。千鳥様。千鳥様、千鳥様、千鳥様。見つめる先で、静かな眠りの中にいる千鳥様。少しだけ、口元に浮かんでいるような気がする笑み。眠る姿を見ないようにと仰っていた千鳥様。それなのに、見つめている千鳥様。薄い瞼、小さな吐息、少しだけ丸めた身体。じっと、じっとじっと、じっと見つめているうちに、己の中に何かが重なっていくのを感じた。とても薄い何か。薄いけれど、確実に何枚も、何枚も、重なって。
何故か急に、思い出す。あの明るい『公園』。己にだけ、齎されない笑い声。美しい世界に在る、美しい人々。その光景を、影から見ているだけだった惨めで醜い己。通り過ぎるだけの人々、いっそう汚く汚れる頬。何故か、そう、本当に何故か・・・あまりにも唐突に、あまりにも鮮明に思い出された。たった数週間前の日々、惨めな孤独。
思い出してしまえば、際限なく思い出し続けてしまいそうな気がして、言いつけを破った視線を千鳥様から外す。けれど外した視線を今度は何処に向ければ良いのかが分からなくなってしまって・・・彷徨う視線は、やがて何度か通り過ぎた扉で止まる。何故、そこで止まるのかがよく分からず、考えて、考えたすぐ後にはその理由に気づく。扉の先、そこでは決して笑わない千鳥様。つまり、あの扉の先、この家の中に外とは違うものがあって、その違う何かの為に千鳥様は笑ってくださらなくて。思い出す、引きつけられるように幾つも繋がって、思い出す。大切な、こと。『私を救って』、己が『神』で在る条件。笑わない千鳥様、微笑まない千鳥様。
──きっと、ここに。
自ら探さなくてはいけない。そう、千鳥様は仰られた。何からお救いするのか、それを考えることも含めて『救う』ことなのだと。ならば探さなくてはいけない、そう、強く、強く思う。思って、思った、から・・・踏み出した足、初めて、己だけで。
そして立つ、扉の前。立って、初めて知る、いつもは千鳥様が先に立ち、己が通るまで開けられていた事実を。ただ開いているだけかのように、今まで、気づかずにいたそれを。ありがとうございます、知った事実に告げたい言葉を今は飲み込んで、じっと、目の前の扉を見つめて考える。この先へ行く為に、どうするべきか? 考えて、すぐに千鳥様の普段の行動が思い出される。手を伸ばし、扉についている金属を捻ってから扉を押し開ければ良い。
物質に触ることは出来ますが・・・勝手に開けても良いのでしょうか?
誰か、他の方がご覧になったら、扉が勝手に開いたように見えるのでは・・・と、逡巡を、数秒。しかしその数秒の間に思い出した、己が物質を触っていた際の他の人間達の様子に、その迷いが必要ない可能性に気づく。浴衣を纏っても、千鳥様にお渡しした本を持っていても、誰にも見咎められなかった。つまり、物質ごと認識されていない、ということ・・・の、はず。
見られても認識されないし、それならば開けても何も問題はない。考えて出した結論を何度も胸の内で繰り返して伸ばした手は、微かに震えていた。勇気を振り絞る、というのはこういう状態のことかもしれない、そんなことも思いながらそっと開いた扉、必要最低限に開けた隙間から思い切って我が身を押し出してみて。
目の前に伸びる廊下。手摺から身を乗り出せば見える、階下。緊張のあまり強張る首を動かして窺うそこには、誰もいなかった。確認した辺りの様子に全身に満ちていた強張りは一気に解け、代わりに初めての体験の嬉しさ、何か分かるかもしれないという期待を込めた喜びが満ちる。溢れそうなその思いは溢れる前に全てが絡まり、足取りは自然と軽くなる。降りる階段も、何故かいつもより短い気がしたけれど、これはきっと、気の所為。だからこそ足取りの軽さ、階段の短さ、その理由を追求することはなく・・・ただ、向かった。何処かにあるはずの、疑問の答えを探す為に。
**********
──夜は、何処までも明けない。
朝なんて訪れない世界に、一人、否、独りで嘆く声が響く。・・・否、否否、それは既に嘆きですらない。
ただ一言、あまりにも強く、強く、激しく上がる、声。広がる黒を、そのたった一言で埋め尽くさんといわんばかりに、声も枯れよとばかりに上がる、声。
赦さない、
赦さない、
赦してなんて、やらない、
赦してくれなかったんだから、絶対に、赦してなんてやらない。
報復を、復讐を、仕返しを・・・報いを、どうか。
全ては同じ意味。同じ原因をもって、響き渡る。同じ原因を持つ、複数の理由で木霊する。既に解くことが出来ない混濁の中、鮮明なものは一つだけ。ただ、一つだけ。そしてその一つだけを、叫び続ける。
泣きながら両手を振り回し、両足を踏み鳴らして、叫び続ける。
たった、独り。だから、誰も気づかぬ世界の中で。誰も、赦さない世界の中で。叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ。
──夜は、何処にも明けたりしない。