階段を下りてすぐの洗い場、その奥の、千鳥様が足を踏み入れない部屋がご家族がいらっしゃる部屋のようだった。少なくともそこから気配がするし、声も聞こえる。ただ、今まで足を踏み入れたことはない。千鳥様が・・・入られたことが、なかったから。
そもそも、千鳥様のご自宅で自由な行動を取ること自体が初めてで、なんだか足元がふらふらするというか、落ち着かないというか。視線すら定まらない理由を追求することも出来ないでいるのに、足を止めよう、引き返そうとは思えない。どうしてなのか、自問して、すぐに戻る答えは理由らしき理由を持たない。ただ、それでも・・・足を、踏み出さなくてはいけないのだと、そんな答えを誰かが口にしている気がした。
探さなくては、知らなくては、求めなくては、と。
「・・・千鳥、さま」
初めての、部屋。明るいその場所へ、初めて足を踏み入れて。いるわけのない人の名が零れ、零れた音を知った途端、何故か肩が震えた。零れた音を、知られることを恐れたのか、それとも畏れたのか。
尤も、それは不遜な恐れでしかない、抱くことすら恐れ多い。この身は千鳥様しか見てくださらないし、この声は千鳥様しか聞いてくださらないのに。
「それっ、なっちゃんの!」
肩、だけではなく、今度は全身が跳ねた。驚きの、あまり。そしてその驚きに伴ってやってきた混乱が全ての判断を狂わせ、つまりは何も考えられない、動けない。跳ねる、驚く以外は、何も。けれど・・・考える必要もないほどすぐに、上がった声の主らしき存在をすぐ傍で見つける。踏み入った部屋、目の前に広げられた食卓、そこに着く、小さな少女。立ち上がり、もっと幼い少女に向かって指を差し、見るからに腹を立てている、その様。
何度も足を踏み鳴らし、怒りを顕に所有を主張。指を指されている少女は、奪い返されまいと手にした・・・透明な器を小さな両手で抱え込んでいて。そしてもう一人、向かい合って食卓に着く二人の少女、その二人の間に座る、一人の女性。疲れたような溜息、それから「ほら、こっちにもあるでしょ」と食卓の隅に置かれていた、同じ器を差し出す。指を差していた小さな手を包み込むように、己が手で包んで器を持たせる。
包み込んで、持たせる。
お母様と、妹様がお二人、いらっしゃったのかと・・・そう、思う。けれど本当は、もっと強く思うことがあって。胸の中でずっとずっと強く、問い続けていた。どうして、と問いかけていた。
四角い、食卓。向かい合って妹様がお二人、お二人を見守るように、横の一片にお母様。四角い、食卓。四角、あるのは四辺。毎日明け方に感じる、人の気配。おそらく、あの気配の主がお父様で、つまりお父様はこの時間帯にいらっしゃらなくて。あるのは、四辺。埋まっている、三辺。誰も座っていない、一辺。少し前、お部屋で小さな丸い食卓に着いていた千鳥様。己と、二人。否、一人。否、独り。でも、あそこに空いている一辺が。
──何故、あそこは空いているのでしょうか?
座る場所がないから、そんな言葉を聞いた覚えがある。確かに、ある。でもそれならば、あの一辺は何なのか? 何故、空いているのか? それとも・・・空いて、いないのか? だから千鳥様は、千鳥、さまは・・・。
足が、勝手に後退した。一歩、二歩、また一歩、と。何歩かの後退、たったそれだけの後退で、部屋からははみ出てしまう。はみ出て、しまう。はみ出て、それでも視線は離れない。怒りながら、不満を抱きながら、諌められながら、けれどそこにある、一つの輪。一つの、輪。己の中の知識通りの、輪。家族という名の、輪。輪。輪。輪。
小さな、何かがずれた気がした。とても、とても小さい、ずれ。小さいはずなのに、あまりにも決定的に、何かがずれる予感。否、ずれた、予感。否、否否、ずれた、確信。その確信に・・・震えたのは、一体何処だったのか? 否、否否、否。
震えない場所は、何処だったのか?
完全に部屋から出た先で、ふいに上がる甲高い歓声を聞いた。幼い、歓声。幼いけれど、それは一番幼い少女ではなく、二番目に幼い少女のもの。あの時、怒りに満ちた声を上げていた少女。名を・・・何と、言っただろうか? 確かに、聞いた。けれど、思い出せない。何か、酷く混乱している、その自覚はあるけれど、あるだけではどうしようもなく。ただ、釘付けになっている視線の先、その少女が立ち上がり、笑みを、欠けることのない笑みを、『全開』の笑みを浮かべて、走り出す。こちらに、向かって。
また、肩が跳ねた。けれど当然のように少女はこの身に一欠けらだって視線を与えることなく通り過ぎ、洗い場の傍の、滑らかな素材で作られた『冷蔵庫』へと向かう。そして躊躇なく開いて中から何かを取り出す。笑みを浮かべたまま取り出された何かが、とても喜ばしい物だということは浮かんだままの笑みで分かった。ただ、それが何であるのかは分からない。身体で隠れていた、手で隠れていた、勿論、それもある。ある、けれどそれ以上の理由があった。
認識するより先に、肩が震えた。一体、何度目なのかも分からないまま、震えた。そしてその震えで認識する。駆け抜けた少女を追った視線、意識していなかったその視線の、視界の端、映り込んでいた場所。階段、下りてきた場所。その、丁度この場所を見下ろせる場所。
認識したのは、同時、だった。階段へ向けた視線。その為、今度は視界の端に移動した幼い少女。笑みが、歪む。ひびが入るように、痛みに堪えるように・・・恐怖に、耐えるように。そしてすぐさま落とされる視線は、足元へ。己が足を見つめる為ではない。見つめてくる視線を避けるためだ。それが、分かり易いほど簡単に分かって。
──底のない、洞穴のような黒。
そんなもの、見たことなんてない。ないけれど、胸の内に浮かぶのはそんな表現で。すぐ傍を、あの少女が再び駆け抜けたけれど、今度は目で追うことなんて出来なかった。顔も上げずに通り過ぎた少女が怯えているのを感じたのに、感じただけで気にかけられない。それほどに、そう、それほどに視線は釘付けになっていた。駆け抜けた少女を見つめていた瞳に。瞳に宿る黒に。黒に宿る思いに。名も探せぬ、その思いに。
釘付けに、なる視線。見つめ返すことがないその黒と、黒に染める思いと。瞬き一つないその瞳は、あの少女が怯えるに相応しいほど恐ろしく、恐ろしいほどに・・・透徹した強さを感じさせて。
千鳥様はそんな瞳で、沈黙を踏み締めていらっしゃった。
どうしてと、問う暇すらなかった。まるで全てが終わったかのように千鳥様は背を翻してしまったから。翻して、そしてゆっくりと階段を上り始めてしまったから。だから、そう、だから・・・追った。何故この場に来たのか、そんなこと、些細な問題だと思えるほどに切実に、千鳥様の後を追わなくてはという思いに全身が突き動かされて。
すぐに追いついた千鳥様の真後ろ、思考も口にすべき言葉も纏まらず、漂う沈黙と共に二階へ到着して、その途端、全てが切り替わる。切り替わったのが、感じられた。「カミサマ、いないんだもん。探しに来ちゃった」背を向けたまま、朗らかな声。きっと、それは本当。探してくださったのだろう。そしてきっと、笑っている。もしかしたら、微笑んでいるかもしれない。それが、分かる。
分かる、から・・・。
「・・・どう、してですか?」
震えていた。肩ではなく、今度は声が。それ以上に、心が。怖がっていると、知っていた。あの、少女、走り去った・・・逃げ去った少女と同じように、怯えているのだと。怯えて、けれど知っていた。説明しがたいけれど知っていた。怯えは、あの少女とは違う理由で生まれているのだと。知っている。知っていると知っている。知って、だからこそ、聞かなくてはいけなかった。
『私が、神様にしてあげる』、千鳥様はそう、言った。
足は、止まっていた。部屋のすぐ前、中に入ることなく、止まっていた。止まって、扉の前、廊下の途中。千鳥様はゆっくりと振り返る。見上げてくる、千鳥様。笑みが、あった。楽しげな顔に刻まれる、笑みが。笑ってほしい、そう、思っていたのに。
──笑わないでほしいと、初めて、思う。
「どうして・・・」どうして、の後は何と続けるつもりだったのか。二度、繰り返した。でも三度目はない。何故なら、その前に問われたから。答えはなくとも、問いは齎されたから。「ねぇ、カミサマ」穏やかで、柔らかな声。静かなその声が、何故かあの瞳と同じくらい、恐ろしい気がする。「ねぇ、カミサマ」ねぇ、ねぇ、ねぇ?
耳の奥で、何度も繰り返し、反響。思考を、気持ちを掻き回される。でも、千鳥様は笑っている。微笑んでいる。そしてそのまま、重ねられる。大切に、大切に。壊さないように、そっと口から取り出して、大切に、大切に重ねられる。
「カミサマって、悪い事も出来る?」と。
千鳥様は、とても楽しげだった。楽しげだけど・・・何も、答えられない。あの時ずれてしまったものが、もっとずれていくのを感じてしまったから。ずれて、ずれて、取り返しがつかなくなったものがいっそう届かなくなっていく、そんな、気が。
しかし答えられないでいる、そんな現実を気にすることなく、千鳥様の口は再び開く。柔らかく、緩やかに開く。赤い、唇。見たこともないほど、赤くなった唇。開いていく様に、まだこの目で見たことのない、花の姿を知った。今まで見た、見た気がしていた姿とは全く違う、花が。開いて、何か、形容し難いものを撒き散らす、そんな、姿。
「あのね、出来るなら・・・」千鳥様は、笑う。笑っている。今は、笑わないでくださいと、そう懇願する資格がこの身にもしも、あるのなら。何も許されそうにない醜い己に、そんな不遜な願いを抱くことが許されているのなら。「あのね」許されるわけがない、誰に尋ねることもなく、そう思うからこそ口にせず、口にしないでいる間に千鳥様は、また。
また、笑う。
「あのね、さっきのと、奥の部屋にいたの、二人とも・・・すっごい酷い目に、遭わせてくれない?」
笑って・・・『少女』は、千鳥様は・・・笑って、笑い、ながらそう、そう、問いかけてくる。問い掛けて、くる。
あまりに笑っているから、笑顔以外の表情がどこにも見つからないくらい笑っているから、問いの内容を理解するのにとても時間が掛かった。何度も、何度もその言葉を胸の内で繰り返し、繰り返し繰り返して、ようやく分かるくらいで。
分かっても、尚、分からないくらいで。
「どう、して・・・」どこかで聞いた問いだと、まるで他人事のように思う。そして思ってから、すぐに気づいた。己がつい先ほどから何度か口にしていた言葉だと。口にして、答えが得られなかった問いだと。「どうして、ですか?」得られなかった答え。それでも、問わないわけにはいかない問い。
「ムカつくから」
その問いに、千鳥様は今度は答えてくださった。「ムカつくから」たった、一言。一言、だけ。その単語の意味を探し出すことは、出来なかった。少なくともすぐには探せないし、それどころか一体どんな字を当てるのかすら見当がつかずに。・・・でも、聞けない。今度は、聞けない。聞けないと、思った。
だって、笑っている。
笑っている、とても、とても笑っている。
笑っている、笑って、いる。
・・・けれど、洞穴に堕ちていくような、黒。
さっきより、ずっと、ずっと深い。手が、届きそうにないほど、深い。深くて、暗い。暗くて、遠い。望んでいる笑みとは掛け離れている、そう、確信するほどに遠かった。
どうして、またそう思った。今度は口に出さなかったけれど、思わずにはいられなくて。笑ってほしかったけれど、この笑みはその笑みとは違うのだ。千鳥様の『願い』は己の力でも叶えられるのではないかと思うけれど、それもやはり違うのだ。叶えてもきっと千鳥様は笑わない。この、洞穴のような瞳をして笑うだけだ。それは物知らずな己ですら分かる。分かって、しまう。
こんな瞳をさせていては、『救った』と言えるわけがない。こんなの『救い』ではない。
たとえ、これが『救い』なのだと千鳥様が仰られたとしても、
たとえ、それで私を『神』だと信じてくださるのだとしても、
──そうではないのだと、まるで、頑是無い子供のように。
「・・・ちど、り、さま」
「なーに」
「私は・・・わた、しは・・・」目を、閉じた。開いたままでは、何かに飲み込まれてしまいそうだったから。負けて、しまいそうだったから。だから目を閉じて、閉じた瞼の裏に、その先の何かに必死で力を込めて声を押し出す。整えることが出来ないでいる言葉を、そのままの形で押し出す。
微笑まれるくらいなら、いっそ笑われてしまいたいと、初めて痛切に思いながら。
「千鳥様、私は・・・『神』で在りたいです」
「・・・その為に、私を『救って』くれるんだよね?」
「いえ、千鳥様、私は・・・」
千鳥様をお救い出来るような、『神』で在りたいです。