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千鳥様をお救い出来るような、『神』で在りたいです。

「『神』だと誰かに認めてもらうのではなく、『神』で在りたいのです。千鳥様、私は、そう願うのです。今は、今は・・・そう、願っているのです」そう、願う心がここに在る。その存在を、感じることが出来る。「まだ、何からお救いすればいいのかも分かりません。分かりませんが、何かからお救いするということは、幸せにするということだと思うのです。私は、そういう存在で在りたいのです」
「・・・信じる者は救われる」
「千鳥様?」
「神に祈りを捧げる者を幸せにする神様に、なりたいの?」
力を、感じた。向けられた問いに、強い、強い力を。目を瞑っていても分かる力に、今度こそ屈してしまいそうになる。でも、踏み止まる。必死で、踏み止まる。今、そう、他のどんな時間でも瞬間でもなく、今、踏み止まらなくてはいけないのだと知っていたから。もう思い出せない些細な時の間に、誰かに教えてもらっていた。そんな、確信がある。
「・・・違います」誰からか、なんて知らない。知る術はなく、また知る必要もない。それを、否、それだけを、きっと知っている。両手に込めた力、零れないでと願うくらいは許されるのだろうか?
「違います、千鳥様、私は・・・」そう、『私』は。「私は、『神』を信じていなくても救いたいのです。救われた、だから信じますと思ってもらえるような『神』で在れたらと思うのです。だから・・・」そう、だから。だから、こそ。
「千鳥様をお救いして、幸せになって笑っていただいて、微笑んでいただいて、そして『神』であると信じていただければと思います。それが私の・・・今の、私が思い描く『神』です。千鳥様」千鳥様、千鳥様、千鳥様。「ですから・・・先ほどのお話、出来るとは思いますが、だからといって、行うわけにはいかないと思うのです」言い切れば、千鳥様は酷く平坦な声で「どうして」と問いかけてくる。表情のない、声。聞こえてくるその声に、目は開けない。「まだ、勉強不足で理由まではご説明出来ませんが・・・」たとえ、出来ずとも。

──あの、願いを叶えても、千鳥様が笑ってくださる気がしないからです。

沈黙が、聞こえた。とても、重い沈黙が。その重さに耐えかねて開けた目が見つけたのは、じっと己を見つめる千鳥様だった。一切の、そう、一切の表情が消えた千鳥様。初めて、見た。己に対して向けられる、何の表情も浮かんでいない、その様を。あまりにも何も浮かんでいないので、心配になってくる。もしかして・・・何か、起きたのではないかと。
けれど心配して見つめ返している先で、千鳥様は静かに目を伏せられた。薄い瞼が、僅かに震えて。何故か伸びそうになる手を、どうにか押さえ込む。不用意に触れてはいけない、そんな、気がして。握り締めた手、強く、強く握って伸ばさないよう押さえ込めば、やがてその手は柔らかな温かさに包まれる。
「もう、寝るから・・・部屋、戻ろう」
目を伏せたまま、千鳥様はそれだけを告げた。告げて、握り締めたままの手を引いてくださった。部屋に、向けて。そして部屋に入った途端に離された手、消される灯り、横になる千鳥様。何も、仰らなかったが、しかし壁を向いて横になる千鳥様の姿を目にした途端、もう習いとなった動きで背を向けて座った先、与えられた引き出しを昨日の夜と同じように見つめて、ただ、思った。
己の口にしたことは、正しかったのだろうか、と。
口にした時は、正しいかどうかなど、考えもしなかった。思うままに、願うままに口にしただけで。けれど何も答えずに横なってしまわれた千鳥様の姿に、今更ながら、不安になる。もっと違う選択が、言い方が、考え方が、あったのではないかと。不安になって・・・不安、だったけれど、間違っている、とは不思議と思えない。正しかったのだろうか、と不安になるのに、間違っているとは思わない己の心がとても不思議だった。間違ってはいない、そう思える何かを己は持っているのだろうか? 考えてみて、すぐに思い浮かぶのはたった一つ。あの、洞穴の瞳。
光りが差さない、暗闇のような。
ふと、苦しくなる。身体の中心から広がるその苦しさに、全身が支配されるような気がして。苦しさの理由は分からない。分からないけど・・・いまだ、握り締めたままだった己の手。広げて見下ろせば、相変わらず不恰好で醜い、赤黒い指が十本ある。こんなに醜いのに、十本も、在る。
この醜さが、苦しさの理由?
・・・それは、違う気がした。否、違う、のだ。醜いという事実は哀しく、辛い。しかし今、感じている苦しさの理由ではない。今、やり過ごせないほどの辛さは・・・醜さ、ではなくて。十本も在る、指。不恰好でしかないのに、存在しているこの手。存在、しているのに──大した力のない、手。
今、その事実が切実なほど、理由を考えられないほど・・・辛い、のだ。

**********

苦しみを感じている間は、時間の流れは遅いらしい。だから、大分経ったと思ったけれど、あれからそう大した時間が流れたわけではなかった。
千鳥様が、横たえていたその身を突然起こされたのは。
「千鳥様?」気配だけでそれが分かり、振り返らずに掛けた声に今度は答えがあった。「駄目だ、水」まるで、独り言のような答え。それでも己に掛けてくれたのだと分かったからこそ、振り返る。すると起き上がっていた千鳥様は、ゆっくりと扉に向かって歩き出していた。「水、飲んでくる」また、端的なそれ。端的ではあるけれどしっかり伝わる意図に、出て行く姿をただ、見送った。飲んでくる、つまりここで待つようにと、そういう意味だと解釈して。
待って、いた。だから、待っていた。・・・少なくとも、数十分間は。待っていたのに、千鳥様は戻って来なかった。戻って来る、気配すらなかった。感じられなかった。感じられなくて・・・。
突然、恐ろしいほどの不安に襲われた。
それは身の内で暴れるほどの恐怖で、もう・・・居ても立ってもいられなかった。立ち上がる、必然とすら思えるほどの力で背を押され、扉の先に向かう。行かなくては、それだけを強く思う。戻って来ない、千鳥様の元へ。
探そう、決意ですらあったそれは、実行に移す前に意味をなくす。扉を出た先、廊下の先、階段の・・・途中。数段降りただけの場所にその姿を見つけたから。探す必要なんてないほどすぐに見つけた。でも、見つけただけで近づけない。
手摺に掴まり、下を見下ろしている千鳥様は、あの瞳をしていた。あの、洞穴の瞳。でも・・・あの時より、もっとずっと暗い穴。堕ちて、いきそうなほど、深い穴。
動かない足を知った。竦んで、いたのだ。無様にも立っているだけの己に、千鳥様は気づかない。階下だけを見つめている。その瞳が一体何を見つめているのかは、立ち竦んでいてもすぐに分かった。聞こえてきたからだ。女性の、声。聞き覚えがあった。千鳥様のお母様の声。内容は分からないが、誰かと話しているようだった。ただ、相手の声は聞こえない。あの少女達かとも思ったが、それにしては口調が違うような気がして。
考えている間に、足が動くようになっていた。まだ、足以外のどこかが竦んでいたけれど、無視をして強引に動かす。千鳥様の、元へ。動かし、近づいて、けれど何と声を掛ければいいのか分からず、結局何も声を掛けられないまますぐ後ろまで近づいて・・・千鳥様に倣って見下ろした先では、あの女性が、お母様が、洗い場の近くでこちらに背を向け、何かの機械を耳に押し当てている姿があった。その機械に向けて、何かを話しかけている姿が。『電話』という機械だと察したのとほぼ同時に、その機械は耳から離されていた。そして同じ色をした機械に乗せたかと思うと、こちらに気づくことなく、奥の、あの部屋に入って行ってしまう。こちらに、気づくことなく。気づいてくれることなく。
奥の部屋は、まだ明るかった。部屋の手前の洗い場も、小さな明かりが点いている。その灯りがこちらまで洩れているけれど、所詮、洩れているだけの明かりは薄暗く。薄暗いけれど、暗闇ではなく。千鳥様の横顔を見失うことはない。はっきり、見える。堕ちていきそうな、瞳すらも。
千鳥様、そう、声を掛けたいと願う。願うけれど出来ずに、ただその横顔を見つめるだけで。手摺に掴まり、既に誰もいなくなった場所をじっと見つめる千鳥様に、表情はなかった。先と同じ、表情の欠如。血の気すら失せたような白い顔に、穴のような瞳だけが黒い。唇の色すらも、失せて。
その彼女の顔に、己が見つめる先に・・・ゆっくりと浮かぶ形を、何と表すればよいのだろうか? 唇の端が上がり、頬に窪みが出来、目尻が少しだけ下がる、それ。『笑み』だと、そう、表されるものだとは思う。思うが、今まで見たどの笑みとも違うそれは、少し力を込めれば壊れそうで、とても笑みとは思えずに。
浮かべないでほしいと、また、思った。切実に、思った。
「ち、千鳥、さ、ま・・・」震える声が、ようやくその形を作る。持ち上げた両手が、伸ばせないまま不自然にその形を止める。千鳥様は、視線を向けてくださらない。誰もいない場所を、届かない奥の明かりを、なくなった姿を、見つめている。見つめて、見つめたままで・・・開く、唇は色を失ったまま、小刻みに震えていた。

「・・・絶対、許さない。絶対に」

繰り返される『絶対』の『許さない』を、問うことは出来ない。察することすら難しい。あの、お母様に関係するのだろうとは分かるけれど、それしか分からなければ、何も分かっていないのと同じで。けれど繰り返されるそれを、繰り返す千鳥様を見ていて、たった一つだけはっきり分かったことがある。身体全体に広がる震え。いつの間にか噛み締められている唇。色を失っていたその場所は、赤ではなく紫を刷き。分かる、見つめていれば、分かる。
それは、とても苦しい『何か』。
千鳥様が『絶対』に『許さない』と呟く『何か』で、とても苦しんでいることだけは分かった。苦しんで、辛い思いをされていることだけは分かった。見つめる先で、手摺に縋りつくようにしながらもゆっくりと階段に座り込む千鳥様。崩れ落ちるようなその様に、伸ばしかけた手は役に立たない。また、立ち尽くすだけで何も出来ない。見つめるだけ何も出来ない。出来ない、けれど見つめ続けた。見つめ続けて、聞き続けた。

許さない、
許さない、
許さない、

押し潰されそうだと、そう、感じた。押し潰されそうになる、その苦しさが鮮やかに感じられた。まるで、己が身に感じるように。・・・否、ように、ではなかった。思い出す、あれは、繰り返し繰り返す思いが圧し掛かる感覚は、確かにこの身に、覚えがあるもの。苦しくて、辛くて、哀しくて、振り払うことも背負って立つことも出来ずに、無様にも・・・無様にも、逃げ出したのだ、己は。逃げ出して、ただ、情けなく泣いて、泣いて、泣いて。泣くだけしか出来ないで・・・そこで、声を掛けていただいたのだ。
千鳥様に。
思い出す、己の醜さから、醜さを晒す辛さから、醜さを笑う声を聞く哀しさから逃げ出したあの時を。辛さと哀しさ、それを感じる己の心から、押し潰されそうで逃げ出した。でも、逃げ出しても辛くて、もしも声をかけていただけなかったら──きっと、押し潰されていた。
思い出す、否、蘇る。鮮やかに、眩暈がするほどの存在感を持って。

笑う、神々、
笑いかけてくれた、千鳥様、
差し出される、白、
渡された、約束、
与えられた、希望、

──救っていただいたのだと、今、改めて知るこの身は、きっと醜い以上に愚かだ。

『私を救ってね』、何度でも思い出す、千鳥様の言葉。でも、もう分かってしまった。もし千鳥様を救えずとも、それで『神』で在ることが出来ずとも、己はもう、半ば以上救われたのだ。希望を頂いた。その希望を持って、歩き出すことが出来るだろう。努力している間は、またあの辛さを感じることはないのだから。
・・・でも、だからこそ在りたいのだと、己のあの時の言葉は正しかったのだと思う。救って頂いたからこそ、救いたい。救える『神』で在りたい。在りたいからこそ、辛い。また、辛い。また、哀しい。この手に力がないことが、この身があまりにも愚かであることが、今、己が『神』として胸を張れる存在でないことが、ただ、苦しい。
見下ろす、醜い手。けれどこの手を、千鳥様は引いてくださった。繋いで、くださった。だから、己は救われた。それだけで、救われている。『私を救ってね』、千鳥様の言葉が、言葉が、言葉が・・・、

「・・・さ、ない」

手摺すら、もう握られてない。爪が食い込むほど握り締められている、両の手。たった、独りで。たった独りの、手で。握られる、理由を己は知らない。でも、あの掌の孤独と痛みは知っている。きっと、知っている。そこから救われる瞬間も、また知っている。
伸ばす手の醜さを、初めて憎らしく思う。哀しみや惨めさではなく、憎らしく、思う。
けれど千鳥様はこの己に、醜い己に、言ったのだ。救ってほしい、と言ってくださったのだ。その理由を探して、救ってと、そう仰ったのだ。まだ、分からない。分からないけれど、分かった。分かった、から。

「・・・醜くて、申し訳ありません」