long5-17

「・・・醜くて、申し訳ありません」

揃えばいっそう醜い手で包んだ千鳥様の両の手は、握られた時よりずっと小さく感じられた。小さく、脆く感じられた。力を込めれば、醜く固い己の手で、傷つけてしまうのではないかと思うほどに。
心の底から、申し訳ないと思う。せめて、手だけでも醜くなければよかったのにと、そうも思う。でも、今はこれしかないから。この手しか、己は持たないから。
そっと、込めた力。畏れながら、不安に思いながら窺い見た千鳥様は・・・俯いていた。結わいていない横髪が、見ようとした顔を隠していて。ただそれでも俯いている千鳥様の視線が、何処を向いているのかだけは分かる。醜い、己の・・・、
「・・・前ね、すぐ隣に立ってたことがあるんだよね」
「千鳥様?」
「神様がね、立ってたの。あっちは私が見えてるなんて、全然気づかなかったんだけど・・・知ってたんだよ、私は。立ってるって。ほんと、すぐ、傍だったんだよ。でもねー・・・」

立ってる、だけなの。

「凄いね、綺麗な神様だった。その綺麗な神様が突っ立ってるだけなんだから、マネキンかってくらいでねー・・・手もね、白くて長くて、超綺麗なの。でもねー、綺麗なだけなんだよねぇ。綺麗なだけで・・・」
小さく洩れる、笑い声。ひび割れそうなほど乾いた、とても痛い、痛い声。「綺麗なだけで、何もしないんだよ」笑い声。

何も、してくれないんだよ。

「あの顔、絶対忘れない。私、絶対に忘れてなんてやらない」
低い声で綴られるそれに、浮かんでくる単語は『呪詛』という不吉で怖ろしいものだった。ただ、怖ろしいというのは単語の印象だけで、実際にそう思ったわけではない。そう、怖ろしくなんてなかった。そうではなくて・・・哀しい、と思っただけだった。苦しいと、また感じただけで。
だから、少しだけ力を込めたのかもしれない。何も考えず、ただ、力を。そしてその力に応えるように・・・千鳥様が急に、顔を上げる。上げて、その顔を真っ直ぐ前に向けると、誰もいない場所に向けて、口を開く。
「カミサマ」私はこちらです、そんな言葉を挟めるような様子ではなく、また、こちらを向かないのは何か意味があるのだろうと、そう察して応えだけを返す。「はい」と、何の捻りもない返事を。でも、捻りがなくとも声は届く。千鳥様は、もうあの瞳をしてはいなかった。代わりに、目につくもの全てに向かいそうな強い攻撃的な光りを宿している。鋭く強い、痛々しいまでの攻撃性を。
「あのね、カミサマ。きっと、あの綺麗な神様も、カミサマを見て、その姿を見て嗤うんだよ。もしかしたらカミサマが生まれた時、その場にいて嗤ってたのかもしれない。でもね、醜い姿を人は嘲笑うけど、醜い姿を嘲笑う神を人は『神様』とは認めない。絶対に、認めない。人って、そういう、生き物なの。だから・・・だからね、あの時の綺麗な神様も、カミサマを嗤った神様も、全部全部、本当は『神様』じゃないんだよ。神様なんかじゃない」

──人間が認めないなら、『神様』なんかじゃない。

「だから、そんな奴等、目指さなくていいんだよ」それだけ言って、千鳥様は開いていた唇を噛み締めて黙った。黙った、けれど告げられた言葉は余韻としてその場に残る。確かに感じるその余韻を千鳥様の横顔に見つめているうちに、圧倒的な強さに何も考えられないでいた思考が急に見つけた答えのようなものに、言葉が出ない。
あの時笑われたこの身を、庇ってくださったのだと。
力は意図せぬまま更に篭る。傷つけてしまうのではと、畏れているのに。けれど強く、強く握り締めていた手、その間をすり抜けるように唐突に抜け出た二本の親指、驚いて緩めかけた己の手の・・・上から、力を与えられて。手を、握っているのだと、繋いでいるのだと、そうしていても良いのだと。
自信が持てたなどと、おこがましいことを思うわけではないけれど。

「こんなことしか出来ませんが・・・こんなことでも、よければ・・・」

何もしなかったという美しい手より、他愛無いことであろうと何かを行おうとするこの醜い手で構わないと、他の誰でもない、千鳥様が仰るのなら。
それ以上、もう、何も必要ないと思えるから。
込めた力、応えるように込められる力、取り合う手の形に、その時ふと、何かに似ていると気づく。四本の手、二対の手が作る形が、知っている何かの形に似ていると。涌き出るように浮かんだ漠然としたその思いを形にすべく、考えた。じっと、じっと考えて、気づいた瞬間と同じように、また、ふいに気づく。

捧げる『祈り』の形に、似ていたのだ。

この身が捧げられない、祈り。その相手がいない、祈り。かつて・・・その事実に、痛むほどの哀しみを感じていた、祈り。
その形を見下ろす、千鳥様。
再び横髪に隠された顔、その表情は見えない。けれど握る手に感じる、冷たい、温かさ。かつて、己も流したもの。ただでさえ醜い顔を、更に醜くしているのではないかと畏れ、水で洗い流したもの。洗い流していて、差し出された白。
あの時の千鳥様と違って、今、己が差し出せるものはない。唯一持っている両の手は、離すわけにはいかないのだから。それに・・・何故か、あの時の己と違い、これは拭う必要がないものだと感じた。手を伝う透明なそれは、とても、とても美しいから。たとえ頬を汚しているのだとしても、そのままで良いのだと、流すだけ流せば良いのだと、そう、思うほどに。ただ、流れているだろう・・・涙を、両の手に触れる涙を見つめて思う。この、祈りの形によく似た二対の手。似てはいるけれど、おそらく決定的なほど異なるもの。

──『私』は、決して祈らない。

それだけは、強く、強く思う。何故なら、祈る相手なんていないから。その、相手を・・・千鳥様が、否定されたから。否定する相手に、祈ることは出来ない。千鳥様が肯定したのは・・・声に出すほどの勇気をまだ出せないけれど、きっと・・・。
この手、だから。
だから、祈ったりはしない。否定する存在に祈るのではなく、己が、いつかきっと、きっと『神』だと胸を張って在ることが出来る存在になるのだ。千鳥様が仰る立派な『神』となり、そして・・・千鳥様に祈りを捧げてもらえるようになるのだと、強く思う。
否定ではなく、肯定を与えてくださった千鳥様に、その肯定が正しいのだという証明を。いつか、必ず。それは千鳥様をお救いすることで叶うのかもしれないし、お救いした後、立派な『神』になれてからかもしれない。どれだけ時間が掛かるかも分からないけれど、必ず、そう、必ず。
己を『神』にしてくれるのは千鳥様以外に有り得ないのだから、己は必ず、千鳥様の『神』となるのだと。握る手に、祈りではなく、もっと別の形の何かを抱く。抱いて、そして・・・その手を、引いた。

ここは、寒く、冷たすぎるから。

「部屋に、戻りましょう」
掛けた声に返事はなく、けれど引く手に拒絶もなく。俯いたまま、千鳥様はゆっくりと立ち上がる。立ち上がり、初めて・・・己を先頭に、歩き出した。

**********

──明けない夜を、何度過ごしただろう?

**********

いつもは独りで座り込んでいる場所に、千鳥様と共に座り込み続けた時間を、己は決して忘れないだろう。やがて訪れたいつもとは違う朝日も、ようやく顔を上げ、その朝日に照らされた千鳥様の横顔も。
横顔に光る、透明な雫も。
笑っては、いなかった。ただ、無表情でもなくて、とても静かな、頬に残る透明な雫と同じ表情をしていらした。透き通っていて、掴めない。でも、とても美しい。
図書館で浮かべていた表情に、似ていた。似ているけれど、違ってもいた。透明な中に滲むあの喜びは見つからないし、満たされた、安堵に似た思いも見つからない。やはり己ではあの時の笑みを差し出すことはまだ無理なのだと、改めて実感しながら・・・また性懲りも無く、思う。それが無理ならば、せめて、笑っていただきたい、と。
哀しいほどの透明な静けさではなく、耳を覆うほどの楽しげな笑い声を。
「千鳥様」訪れた朝日を遮らないように掛けた声は、その音量を抑えてのもので。顔を上げていた千鳥様は、正面へ向けていた顔を、とても懐かしく感じられるほどの時を経て隣に座る己に向けてくださった。真っ直ぐに、表情と同じ、透明な眼差しを。
無言で注がれるその眼差しに、気後れ、というのを感じたけれど、繋いだままの手に力を得て、更に言葉を続ける。「本日は、お休み、でしたよね?」掛けた声に、少しだけ見開かれた瞳。すぐに小さく上下に動いた首が、肯定を示す。示されたそれに、ならばともう一度開いた口は、決めていた言葉を象った。
あの何の哀しみも苦しみもない、笑い声をまた聞く為に。
「千鳥様、それでは・・・また、図書館に参りましょう?」
「図書館?」
「はい。図書館に行けば・・・また、幸せな気分になられるのでは?」
「・・・そう、かもね」
微かに、微笑む気配がした。表情には表れないほど、微かにそんな気配が。それが嬉しくて、もっと、もっと微笑んでいただきたくて、幸せに、楽しげに笑っていただきたくて、その笑いに貢献するために、己が出来ることを、出来ると教わったことを、胸を張って口にした。
きっとそれを成した後は、笑い声が聞けると、そう、信じて。
「それで、図書館に行かれた後は・・・本屋に、参りましょう」
「本屋?」
「はい、本屋で・・・」

また、『ぼーいずらぶ』という本を、供物として貰ってきます。

「お好きなのですよね? また貰ってきますので・・・千鳥様に、お裾分けいたします」
喜んでもらえると、差し出した時、また笑い声を上げてくださると、そう信じての言葉に・・・何故か千鳥様は、目を見開いて沈黙した。それこそ目玉が零れるのではないかと心配するほど、大きく見開いて。
そしてそれから、もう少し先の時間に、お裾分けをした時に聞かせていただけるはずだった笑い声が響き渡った。弾けるような、その声が。
「・・・千鳥様?」
聞きたかった声。朝日の中、何故か地に顔を伏せるようにしながら笑う姿に、喜びより先に困惑が滲む。一体何故、今この時にこんなにも笑っていらっしゃるのかと。しかし千鳥様はよほど楽しいらしく、それから暫くの間、笑い続けて。
見守るしかない己の視線の先、長い笑いの果てにゆっくりとその身を起こされた千鳥様は、満面の笑みを浮かべて輝く瞳を向けてこられる。そしてその瞳から零れる涙で頬を濡らしながら、笑いの余韻に唇を震わせつつ、声にも笑いを滲ませて、告げるのだ。
「あのね、カミサマ、すっごい嬉しい、ありがとう。でもね・・・」

カミサマ、多分、当分、『神様』になれないと思う。

「多分っていうか、絶対、だけど」
「・・・そう、なのですか?」
「そうだよ、もう、絶対!」
とても、気になる言葉だった。気になりすぎて、何も聞けなくなるくらい気になる言葉だった。決意も新たにしていた己にとっては、あまりにも。しかし不思議なことに、気にはなるけれども、あまり落ち込んではいない己にも気づいていた。落ち込まないその理由にも、気づいていた。

──千鳥様が、笑っていらっしゃる。

理由は分からずとも、それでもこうして笑ってくださるのならば・・・少しくらい『神』となる時間が先に伸びたとしても構わなかったから。この笑い声は、それぐらい価値のあるものなのだから。
それに、とも思う。それに、こうして笑ってくださるなら、たった一人でも、人に、笑顔を齎すことが出来るのなら・・・。

醜くとも、愚かしくとも、多少は『神様』であるのかもしれないから。