明るい日の光は、いつもよりずっと遅く落ちていった。
少女が去ってから、少女に対する疑問を抱いてから、暫くの間は水の柱の前で呆然と佇んでいたのだが、近くで新たにやってきた子供たちが遊び始めるのをきっかけに、結局はあの木の下に戻ってそこで今までと同じように立っているしかなくなって。
影の中に戻り、光を眺め、時折、そっと俯いては、何度見ても醜いままの己の姿から目を背ける。そんなことを何度も繰り返していたけれど、何度繰り返しても、時間はいつもの流れを忘れたように緩やかに流れ、世界はいつまで経っても明るさを保ち続けていた。まるで、あの少女がいなくなる際、時間の流れを意図的に緩めてしまったように思えるほどに。
勿論、そんなことはないし、どうしてこうも時間の流れを遅く感じるのか、その理由は分かっている。少女が置いていった『またね』、その『また』というのを待ち侘びているから、時間の流れが遅く感じるだけなのだ。少なくとも、多少の時間が過ぎなければ『また』は訪れないのだから。
・・・本当に、また来てくださる気持ちがあれば、ですが。
口の中だけで呟くそれは、呟く度に足元の影が深くなる気がした。あの少女は、笑って『また』と告げてくれた。楽しげに笑って、そう、告げてくれた。手には白い布が、こんな醜い身には相応しくないほど白く綺麗な布がある。少女が渡してくれた布だ。見つめる先のこの白さが、偽りを告げるとは思えないけれど。
そっと、そっと両の手に載せてある白。握り締めて皺をつけてしまわないように、そっと。濡れた手で持ってしまったから、少しだけ湿っていたけれど、進みの遅い時がようやく流れ、辺りが赤くなる頃には、完全にその水気もなくなっていた。
赤と橙に染まる世界。それでも、手にした白はその白さを失ったりはしない。
目が、痛くなるほどその白を見つめた。見つめて、ただ願った。あの言葉が示した時が、本当に訪れることを。願う気持ちのすぐ傍で、どうして人にこの姿が見えたのだろうかと再び疑問が浮かんできたけれど、浮かぶだけですぐに意味を成さなくなる。
どうして、なんてもういいのだ。どうしても、と思うだけなのだから。
祈りを捧げられる為に生まれた以上、捧げられずとも、捧げることは出来ない。
世界は、やがて影だけに変わる。子供の声も、母の声も、仲睦まじく並ぶ男女の声もなく、微かに鳥と鳥に似た不可解な声が聞こえるだけで、他に音らしき音はない。ただ代わりに、暗闇が満ちたはずの世界の片隅に、幾つも小さな明かりが灯る。少しだけ黄色が混ざった白い明かり。日の光がある間は灯らず、日の光が消えると、灯る。小さな傘のような物の下で、地表に明るさを描く。
人が作った明かりなのだと、備わっている知識が語る。暗闇を好まない人が作った、夜の明かりなのだと。
その明かりが遠ざけた星を空の中に探したのは、他にするべきことがなかったからだった。するべきことがないのに呆然と佇んでいると、また捧げられない祈りを思い出してしまいそうだったから。
思い出さないために、空を見上げて見つけた星を数える。探す方が大変なほど少ない星、月すら見つからない空は、知識の中の空よりぼんやりと明るく、知識の中の星を探すことすらままならない。あまりに見つからないから、少しだけ焦る。これでは、辛うじて持っている知識すら役立たずの可能性が大きいということになってしまう。
もしそうなってしまったら、本当に価値がない。ただでさえ価値がないのに、一欠けらの価値すらもなくなってしまったら、それこそまた疑問が浮かんでしまう。己の奥底に押し込めていたのに、再び浮かんで、消えなくなってしまう。価値がないこの身は、醜いこの身は、一体どうして・・・生まれて、しまったのかと。
何故、生まれたのだろうか、と。
何の為に、始まってしまったのだろうか、と。
・・・いけません。
ふと気がつけば、あれだけ気をつけていたのに握り締めてしまっていた。あの、白を。大切に、大切にするべき白を。この手に唯一在るものを。この身に唯一、そう、唯一、許されているのかもしれないものを。
固く握り締められている手を持ち上げて、胸元へ引き寄せる。力の篭ったそれを開こうとするけれど、何故か指は開かない。十本のうちの一本すら指示に従わず、それどころか精一杯の抵抗を見せて白を握り続ける。醜い手の内に、隠し込んでしまう。
離したくないと、離されたくないと、訴えるように。
「いけま、せんっ」今度は、声が出た。勿論、誰も聞く者のいない声が。そして歯を食い締め、渾身の力を込めて固く閉ざされた指を一つずつ抉じ開けようとする。中に在る、白を助ける為に。けれど白を握る手の抵抗は激しく、不揃いな歯が耳障りな音で辺りの静寂を荒らすばかりで、一向にその成果は出ない。・・・いけません、そう、もう一度だけ耳障りな音の合間に、訴えた。持ち主に抵抗を示す、両の手へ言い聞かす為に。
しかし訴えた相手は応えない。・・・応えなかったのに、思いもがけない方向から、思いもがけない応えは返る。誰もいない、影と闇だけの世界。その影と闇を千切るかのような、鮮明さで。
──木が震えるほどの、鮮やかで朗らかな笑い声が、その場所一杯に広がった。
抵抗する手も、耳障りな音を立てる歯も、その動きを止めた。手と歯だけではない、思考すらも、止まる。けれど思考が止まっていても何故か働く視線と首は、広がった笑い声の元を探して彷徨い、すぐにその場所を見つけ出して凝視する。
ほんの、七、八歩程度の距離だった。しかも、顔を上げればすぐに見つけられる前方。そこが、元。笑い声の、否、動き出した全ての時間の、かもしれない。どちらともつかない。つかない、けれど・・・そこには、そこ、には・・・微笑う、姿が。
「こんばんは」
少女は、日の光の元で笑いかけてくれた少女は、捧げられなかった祈りを聞き届けてくれたかのように、その場所で笑ってくれた。楽しそうに笑って、真っ直ぐに視線を投げ掛けながら「ねぇ、凄い面白いこと、してるよね? でもそれ、私がいなかったら突っ込み役いなくて寂しくない?」と、尋ねてくるのだ。
問いでありながら、答えを必要とすることのない問い。しかも少々意味が分かりかねる問いを置いて、少女は一歩ずつ近づいてくる。向ける視線を逸らすことなく、進める歩の早さも一定に。近づいて、すぐ、目の前に。
「まぁ、いいんだけど。でもとりあえず、あそこに座らない? 立ったままだと、疲れちゃうし」語りかけ、誘いかけ、伸ばされる手には躊躇がなく、指示に従う従順な手が取られて。・・・そう、取られた、のだ。決して強い力ではないけれど、比べるのもおこがましいほど白く、滑らかで細い少女の二つの手は、しっかりとこの手を掴み、大した力ではないけれど、しっかりとこの手を引いていく。
この手を、引いていく。
連れて行かれたのは、連れて行ってもらえたのは、少女が言葉と視線だけで指し示した木の椅子。ただ、本物の木ではない。何か、と問われたらすぐに答えは出てこないけれど、おそらく、人が作り出した木を模した何か、だ。すぐ傍にはやはり人が作った明かりが佇み、その椅子を煌々と照らしている。少しだけ黄色がかった、白い明かりで。その白さの中に足を踏み入れることに感じる、間違いようのない罪悪感。けれど少女は躊躇なく足を踏み入れ、この手を引いて椅子に座る。座った隣に、眼差しと仕種で再び座るよう促して。
光の中、並んで眺める影は思った以上に暗かった。暗くて、深かった。深くて・・・淋しかった。
「ねぇ、さっそくで悪いんだけど・・・ちょっと聞いてもいい? 私ね、何日も、学校行く途中にここで貴方を見かけて、それでずっと気になってたんだけど・・・」
横から感じる、視線。細かく手足が震えだしていたのを知っていた。相変わらず、あの白を汚らしく握り締めていることも。けれど、離せない。否、放せない。
「貴方、神様だよね?」
それはあまりにも簡単に、何の準備も必要としないで形になった問いだった。準備がないので動揺する暇すらなく、受け止めることなんて当然出来るわけもなく。ただ、目の前で弾む問いを呆然と眺めていた。眺めて、いるしかなかった。でもそれなのに、少女は更に問いを重ねる。もう、無理だというくらい重なっているのに。
「でも、ちょっと他の神様と違うみたいだし、それにあんな木のところでぼうっとしてる神様なんて、今まで見たことないけど・・・神様、だよね? 他の神様とは違う種類の神様なの?」
「・・・な、な・・・」
「ん? なーに?」
「・・・な、ぜ・・・何故、神、と? 何故・・・見え、るのです・・・か?」
声が、掠れる。耳の奥で酷く騒々しい音がする。振り払うことは不可能で、聞かない振りをするのも当然不可能。・・・しかし幸いにも、不可能を不可能のままにしておくことが今回は可能だった。少女は、小さく笑って答えてくれたから。
「私ね、昔から見えるの。神様っぽい・・・っていうか貴方達、神様が見えるの。なんでかなんて、私も知らない。誰も教えてくれないから。でも教えてもらえなくたって、見えるものは見えるんだもん。見えるんだけど・・・でも、初めて見た」
「はじ、めて・・・」
「うん。初めて」
泣いている神様って、初めて見た。
「だから結構驚いたんだよね。うん、驚いた。・・・ねぇ? 聞いてもいい? なんで泣いてたの? ずっと、ずっと・・・さっきも、泣いてたよね? ねぇ、なんで?」
少女は小さな頭を横に傾けながら、上目遣いに覗き込んでくる。この、顔を。直視すれば決して気分が良くないだろう、この、醜い顔を。じっと、じっと、下から感じる視線は真っ直ぐにこの顔を見つめているのに、不思議と嫌悪している様子はない。ただ不思議そうな、それよりずっと楽しそうな感情だけを伝えてくる。
弾むような、輝くような、そんな感情だけを。
どうしてと、疑問は胸を塞いで喉を締めつけ、手や足を震わせる。どうして、どうしてと、そればかり。この存在が始まって、他者の存在を認識して以来、常に抱き続けていたそれ。どうして、どうして。そう、どうして・・・『なんで、泣いてたの?』、とても簡単に口にされた問い。でも、多分、そう、ずっと、ずっと・・・。
「・・・わっ、分からない、です。分からないのです。どうして、どうして、この身ばかりが・・・」声は、みっともないほど震えていた。ともすれば、聞き苦しいほどに。けれど必死に耐え続けるのは、ただでさえ醜い身だからこそ、せめて声だけは聞き苦しくないように有りたいから。
それはもしかしたら、なけなしの矜持、だったのかもしれない。
「気が、ついた時には・・・こうして、この形で、生まれ、ついてしまいました」
──初めは、気づきませんでした。愚かにも、気づかなかったのです。しかし、私の誕生に訪れてくださっていた神々の反応で、知りました。いえ、その時はまだ、知りませんでした。知らない・・・というより、思い出していませんでした。
ただ、神々が、皆、笑っていらっしゃいました。私を見て、笑うのです。今、考えれば、当然ですよね。『神』として生まれついたというのに、全く相応しくない姿で、おまけにそのことを忘れていたのですから。こういうことを・・・『滑稽』、そう、滑稽というのですよね? 滑稽、そうです、そう。私は・・・滑稽な、存在でした。
ただ、その時はまだ、思い出していなくて、思い出していなかったのに・・・神々の笑い声を聞き続けることが、どうしても出来ませんでした。きっと、思い出していなくとも、本当の意味で忘れてはいなかったのでしょう。だからこそ、笑い声を聞いて・・・もう駄目でした。あの場には、いられませんでした。元より、相応しくない者が神々の視界にあれ以上納まるわけにはいかなかったのです。それを、私はきっと、知っていました。知っていましたから・・・逃げ出し、ました。振り返らず、ただひたすらに走って、走って、走って──
「この場所に、辿り着いたのです。あの、木の元に。それで・・・見つけてしまいました。木の傍で、我が身を映し出す、水を。見つけて、覗き込んで、初めて思い出したのです」
──この身が、見るに耐え難いほど、『神』を名乗るには相応しくないほど醜いという事実を、です。
思い出したら、今度は動けなくなりました。あの、木の元から。汚らしく顔に汚らしく涙を貼り付けて、それを洗おうと思うまで、一歩も。・・・いえ、たとえ動けたとしても、動く先などないのです。私は、『神』として生まれた『神』に相応しくない者です。神々にすら、神と認めていただけない者です。それは、あの笑い声で分かります。当然だと、この姿を思い出せば納得も致します。・・・ですが、この身が、この、耐え難いほど醜い身が『神』たりえないと、相応しくないと認めたとしてもです、認めることが出来たとしても、出来たと、しても──
「『神』として始まってしまった以上、『神』で在りたいと願うこの心を、どう納得させれば良いのでしょうか? 私は、私は・・・」
声は、詰まる。情けないほど、詰まる。頭の片隅で、胸の内で、この状況を何と表すのかだろうかと誰かが考え、すぐに『無様』だと答えが返る。無様、無様、確かに、それより他に、己を表わすに相応しい言葉はない。醜いだけではない。醜いならどうするべきか、それすら思いつかずただ情けなく泣くだけのこの様は、限りなく『無様』だ。神になど、なれるはずもないほどに。
分かっていた。分からない、わけがなかった。ただ、それでも・・・それ、でも。
「私は、『神』で在りたいのです」