雄大な木は見下ろすばかりで何も語らず、偉大になれなかったこの身は見上げるばかりで何も語れず。それ故に、ただ、立ち尽くした。・・・足元に広がる水にだけは目を向けないように、真剣に気をつけて。
どうしたらいいのでしょうか? どうすれば、いいのでしょうか?
手が届かないほどの雄大さに、同じく手が届かなかった『神々』の姿を見て問いかけてみるけれど、心はあっても意思はない木は何も答えてはくれない。初めから分かっていたこと。分かっていても問わずにはいられなかったこと。
・・・何も、分からないのです。
何をすればいいのかも、これからどうすればいいのかも、どうすべきかも、何も、何も分からない。だからただ立ち尽くし、木を見上げ、何も分からないこの身が唯一知っていることを思い出す。この世でこの存在が始まった、あの瞬間からの時間を。
美しさの中での始まり。喜びだけが全てだった世界。思い出す、あまりにも鮮明すぎて、忘れることが出来ないあの時を。そして、すぐに続く時間も思い出す。あの始まりを囲んでいた、美しく、偉大な『神々』を。伸ばした、己の手を。その先から生まれ、重なっていった・・・あまりにも怖ろしい笑い声と、逃げ出した己を。
何故笑われたのか、今はもう分かっている。忘れていたことを、あの水面に映る姿で思い出したから。笑われて当然。己はこんなにも醜い。見るに耐えないほど、醜い。
差し出す手も、踏み出す足も、向ける顔も、皮膚の所々が赤黒く腫れていて、触れるのが躊躇われるほどの汚さ。顔の造作も目鼻の配置が崩れ美しさとは程遠く、伸びた指先の爪は歪み、不恰好な形で張りついている。同じく伸びた髪は艶がなく、純粋な白でもなければ黒でもない、薄汚い灰色で。なにより、全身が貧弱な造りなのに縦に長い所為で、美丈夫な『神々』とは比べるべくもないほど無様な成りに。
汚らしくてみすぼらしくて醜い。笑われるに、相応しい形。それが、己だ。そういう形に、生まれついてしまった。始まって、しまった。始まって、しまったけれど・・・。
何故、私は・・・『神』として在るはずの私は、こんなにも醜く始まってしまったのでしょうか?
『神』として在るはず・・・否、あるはずだった、なのかもしれない。他の神々から笑われるに相応しいこの身は、『神』として認められる存在ではないのだから。しかし、それでも分からない。分からないことばかり重なる。どうして、こんな姿で・・・? 分からない、分からない。こんなにも醜く愚かな身に分かることは、少なすぎるほど少ない。
己が『神』として存在する為に生まれたこと。
けれど『神』として存在するに足り得ないほど醜いということ。
そうでありながらも『神』で在りたいと、分不相応なほど──願っていること。
──そう、願って、いる。
願わずには、いられない。その為に生まれたのに、その為に始まったのに、神足り得ないのならば、この身には何の価値もなくなってしまう。・・・そう、価値がない。『神』でないのならば、当然、永遠に『神々』から受け入れられず、また、『人間』からも認められないのだろうから。それこそ、一欠けらの価値もなく。一欠けらの、価値もなく。
──笑い声が、響いた。
唐突に響き渡ったそれに驚いて振り向けば、その先には光の下、その光の恩寵を受けるに相応しい笑顔で戯れる人の子たちがいた。互いにじゃれ合い、時に追い駆けあいながら笑い声を上げ続けている。すぐ傍には母と思わしき姿が幾つか、細めた瞳に子への想いを滲ませて、口元にはやはり笑みが浮かんでいる。
『幸せ』そうな、笑みだった。あの笑みが、『幸せ』という形なのだと納得出来るほど、幸せそうだった。
影の中から、全ての考えを放棄して暫しその光景を眺めていた。眺めているうちにやがていなくなっていく人々、けれど代わりに新たな人々が訪れ、前にいた者達とは違う笑みを浮かべる者や、少しだけ難しそうな顔をして、早足に去って行く者もいる。生まれてより初めてまともに見る人間達は、神々以上に様々な違いを纏っている。ただ、共通することが三つ。
この醜い姿を、その瞳に映したりしないこと。
誰も彼もが、己よりはるかに美しいこと。
そして・・・例外なく、皆、ただ通り過ぎるだけだということ。
当たり前だ。この身は、人には見えない。ましてやここは『神』を祭る場所でもないのだから、何もしないで通り過ぎるに決まっている。それに、たとえここが『神』を祭る場所だったとしても、自身より美しくない者を『神』だなんて認めてはくれないだろう。
つまり、私は永遠に通り過ぎられるだけの存在。価値無き存在、ということですかね・・・?
──笑い声が、響いた。
いつの間にか逸れていた視線を再び向ければ、今度は仲睦まじい男女が並んで笑いながら談笑していた。寄り添って歩く姿は、互い以外の何者も必要としていないその気持ちが感じられる。視界にすら、他の一切が入らないと。輝く笑みは、命の価値を謳っている。高らかと、空に響くほどに。
本来なら、その空にこの身は在るはずだったのに。そう、思わずにはいられない。そう、本来なら彼らに見上げられ、見上げる彼らを見守る資格があったはずなのに、と。今の、この身には勿論、ない。この、醜い身には。
胸が、真っ黒な何かで一杯になる気配。隙間なくぎっしりと詰まるそれが苦しくて、絶対に向かないと決めていたのについ俯いてしまった途端、見えてしまう水。水面に浮かぶ、醜い姿。その醜さの元で散らばる・・・少しだけ汚れた、花弁。頭上の木から零れ落ちたのか、元は鮮やかだっただろうに、土に汚れ、誰か、おそらく通りすがりの人に踏み潰され、振り返ってもらうことも出来なくなった、その姿。
まるで、今の己の姿のようだった。尤も、この身は鮮やかだったことなんて一瞬たりともないのだから、同じだと断じれば失礼だと、花弁たちも怒り震えるかもしれないけれど。でも、振り返ってはもらえない。二度と、そう、二度と。
・・・でも、それならどうして生まれてきたのでしょうか?
生まれる疑問は、一体誰に向ければいいのだろう? 神の成り損ないだとしても、神として存在するはずだったこの身には、問いを向ける相手もいない。ましてや──祈りを、捧げることすら出来ないのに。
祈れないのならば、どうか、と願うことすら出来ないのに。
見つめる水面は、風もないのに何故か歪む。しかもその歪みは一瞬ごとに強まり、やがて形自体が保てなくなって。何が起きているのだろう、そう思った次の瞬間、頬を生温い何かが伝う。頬から顎へ、顎から離れ、何処かへ。
その生温い何かは、後から後から、続いて零れた。頬を伝うそれが何処から生まれているのだろうと考えれば、己の瞳から溢れていることを知り、知った途端に流れているものが何と呼ばれるものか脳裏に浮かぶ。『涙』だ。目から溢れる水。感情の昂ぶりから生まれる、水。それが今、溢れている。溢れて、止まらないでいる。
「おかぁーさん! おかぁーさんってばぁ!」止まらない涙の向こうから聞こえてきた、幼い子供の怒鳴り声。母を呼ぶその声は、感情的に震えている。何か予感のようなものを感じ、瞬きを繰り返して少しだけ見えるようになった視界。探した声の主は、予感どおり泣いていた。今のこの身と同じように、泣いていた。ただ、違うのは・・・その子には、駆け寄る相手がいるという事実。駆け寄り、膝をついて視線を合わせてくれる相手が、流れる涙を拭ってくれる相手がいるというだけの違い。
誰もいないこの身にとっては、決定的な違い。
「もうっ、こんなところでそんなに泣かないの! みっともないでしょう?」
「だって! だってぇ・・・!」
「分かったから! 帰ったら、探してあげるから! ほら、顔を拭いて、汚いでしょ?」
はっきりしない視界の先で、膝をついた母は、子供の顔を白い布で拭っていた。「お家に帰ったら、顔を洗うのよ?」と、言いながら。丁寧に、丁寧に拭いていた。涙を流していた顔を汚いと、そう告げて。汚い顔のままではいけないと、そう告げて。
そっと持ち上げた手、頬に当てれば濡れた感触があって、頬はがさがさした無骨な指先の感触を受け取る。きっと、どちらも汚らしくなっているだろう。ただでさえ汚い頬を、指を、更に汚しているだろう。拭う、白い布すら持たないで、拭ってくれる相手さえいないで、汚く汚し続けているのだろう。
・・・それは、駄目です。これ、以上は。
思う。そう、思う。強く、強く、思う。確かにこの身は救いようがないほど醜く汚らしいが、だからといって更に汚れていくのを仕方がないとは思えない。拭わなくては、それだけを思い、巡らせた視線。手に何も持たないなら、代わりにこの涙を拭う術をと、探して。
霞む視界、何度も瞬きを繰り返し、何度も辺りを見渡して、何度目かの往復の果てにやがて見つけたのは、少しだけ離れた場所、光の下に在る、水の柱。光を弾いて水が吹き上がり、弾いた光を振り撒きながら落ちていく。輝くそれに、近づくことは憚られたけれど・・・他に術は見つからない。
恐ろしさに竦む足を叱咤して、踏み出した一歩。逃げ込んだ影から光の下へ。再び笑う声が聞こえないか、それだけを畏れて俯き、早足に水の柱の元へ急ぐ。すぐに辿り着いた柱は、近くで見ると益々眩しく、輝かしさに逃げ出した場所を思い出し、目から新たな涙が溢れてくる。汚れた頬を、もっと汚してしまう。
拭わなくては、もう一度、そう思い、吹き上がる水に汚い手で触れることを小さく詫びてから、両の手を吹き上がった水が落ちた先へ差し込み、掌に掬って顔を洗う。汚く張りついているだろう涙を拭う為に、そして、出来ることなら少しでもこの顔が元から有している汚さが、少しでも良いから拭われるように、と。何度も、何度も洗う。掌で、皮膚を擦って、ついているに違いない汚れを剥がそうと。何度も、何度も、何度でも。
やがて手は水の冷たさに顔の皮膚の汚さを感じなくなり、聞こえてくるのは水音ばかりになる。偶に耳に入ってくる人の声は、何度も顔を拭い続ける無様な姿を認識することなく通り過ぎ、すぐにまた、水音だけが戻ってくる。そんな、繰り返しが繰り返される。ただ、それだけ。それだけを、際限なく繰り返す。止める理由はなく、止めたくない理由があるのだから、それだけが際限なく繰り返される・・・その、はずだったのに。
唐突に、手はその動きを止める。否、手だけではない。全ての動きが止まった。水の音すら、耳に入らない。全てを押し退け、全てを止めたそれが聞こえたから。どうしてなのかは、分からない。でも、それが通り過ぎるだけのものではなく、この身に向けられているものだと何故かはっきり分かった。背を向けた先から聞こえたものなのに、そんなことは無関係なほど、はっきりと。
──嬉しそうな、軽やかな笑い声だった。
水で濡れた顔を、拭うことすら出来なかった。そもそも、動くこと自体が出来ない。中途半端に上げた手はそのままに、顔からは水が滴り落ちて、でも振り向くことなんて出来るわけもなく。
初めは、聞こえた笑い声にあの笑い声を、神々から齎された笑い声を思い出したから。でもすぐに気づく。そういう、笑い声ではない、と。でも気づいても、振り向けない。動けない。だって、どうして、この醜く無様な己の背に、笑い声が向けられているのか? そんな理由が、何処にあるのか?
恐怖が、背を向けている先に在った。理解出来ないものに対する、恐怖が。だから動けずにいたのに・・・恐怖は、動く。軽やかな笑い声は、その軽やかさに相応しい動きで近づいて、すぐ真後ろへ。そして更に動き、やがて左側へ回って・・・頬に感じる、視線。醜い上に、濡れたままの頬を見つめられている、その事実が、言葉にならないほど恐ろしくて堪らなかった。どうか見ないでくださいと、そう懇願せずにはいられないほどに。
・・・見ないで、ください?
引っ掛かりは、一度感じれば決して外すことは出来ない。だって、視線を感じるということは、見ないでくれと懇願したくなるということは、つまり見られているということで。でも、今、隣で見つめてくる存在は『神』ではない。それは、視線を向けずとも感じる。あの偉大な存在感を、感じないのだから。ただ、それならば、神ではないならば・・・一体、隣に佇んでいる存在は何なのだろう?
『神』以外では見つけることが出来ないはずのこの身を見つめる、その存在は?
・・・耳の奥で、何か、音が聞こえた。何も聞こえないはずだったのに、何かの、音が。目は水を見つめ、動きは止まったまま。疑問だけが重なって、今にも崩れ落ちそうで。もう、あと少し、それを感じたのと同時に、止まっていたはずの何かが動く、気配。
「これ、良かったらどうぞ」
水だけが映っていた視界に現れた、白。僅かの汚れもない白は、あの時、人の子に差し出されたのと同じ白だった。それが今、目の前に在る。あの母より小さな白い手によって、差し出されている。
誰もが通り過ぎるだけの、この身に。
驚きという感情は、己の中の全てを奪う。「使って」軽やかなそんな声だけが、力を持つ。不自然な形で動きを止めていた手が動いて、水を掬う時と同じ形で差し出すと、所々が赤黒い掌に、その白が載せられる。載せられて・・・載って、しまう。
物質を、掴むことは出来る。水だって、掬える。しかし自主的な意志ではなく、他者の意志によって物質をこの身に接触させることは、この身を認識していなければ出来ない。出来ない、のに。
白を載せた掌が、微かに震える。感じていた恐怖と、もう一つ、何か、言葉に還元出来ない感情によって。ただ、その還元出来ない感情は震える掌からやがて全身に伝わり、全てに行き渡った時、震えに促されて首が動いた。左へ、向けて。
──『少女』は、この醜き身に笑いかけてくれていた。
日の光の下、その瞳にこの姿を映して尚、笑いかけてくれていた。
この姿を、見つけてくれた。
通り過ぎないで、くれた。
その瞳に、嫌悪を、侮蔑を、浮かべないでくれた。
ただ、笑いかけてくれた。笑って、くれた。
・・・嗤わないで、いてくれた。
──この想いを、何と表せば良いのだろう?
目が、熱さで痛みを訴え、頬をその熱が零れ落ちる。あぁ、また汚れてしまう、そう思ったけれど、拭うことは出来ない。手にした白は、汚せない。汚したくない。そして、どれだけの痛みがあったとしても、目を瞑りたくはない。瞑れない。
だって、少女はまだ、笑いかけたままだから。
「ねぇ、貴方さ、最近ずっとあの木のところにいるでしょう? もしかして、今日もずっといる?」少女は、笑みを浮かべたまま尋ねてくる。ずっといるでしょうと、ずっとあの場所で立ち尽くしていたことを知っていてくれたのだと理解した時には、既に何度も首を縦に振っていた。何度も、何度も。
すると少女はいっそう笑って、その笑いと混じり合った声で「なら、良かった」と、朗らかに謳い、弾む足取りで身を翻す。翻して、しまう。少しずつ、開く距離。頬を伝う熱は冷たさに変わり、痛みの意味もまた、変わり始め。・・・ただ、その痛みが頬から零れ落ちる直前、少女は足を止め、振り返る。
真っ直ぐに向けられた眼差し、楽しげな笑み。上げられた片方の手は、五本の指を伸ばし、限界まで広げられ、顔の横で左右に数回、振られる。その手の意味を探すより先に、少女は小さな唇を開く。柔らかく、柔らかく開く。左右に振られた、手の動きと同じくらい滑らかに。
「またね」と。たった、一言だけ。
そうして、少女は走り去る。今度は、振り向くことなく、走り去ってしまう。去って行くその後姿が視界に映る間は、何も考えなかった。目にその姿を映すことだけに必死で、他のことをする余裕は何もなかったから。
しかしやがて見えなくなった、後姿。戻ってしまった風景に、まず、最初に為したのは、少女が残した言葉の意味を己の中に探すこと。初めから備わっている、己の中の知識の中から探して・・・すぐに見つかる意味に、頬に残った冷たさにまた、熱が灯るのを感じる。『またね』と、そう、あの少女は言った。またね、またね、と。
また、会いに来てくださるのですか? この、私に?
声にならない問いに、返事はない。声にしたとしても、答える相手がいないのだから返事はない。けれど、返らないからこそ抱ける思いがある。抱いてしまう、思いがある。それはおそらく──『希望』、もしくは『期待』と、評される淡い形。
儚いほど淡い。微かな風にすら浚われてしまいそうなほど、儚い。・・・それでも、その淡い形に浮かされて、浮かされて、浮かされて、ただ、どうしようもないほどの喜びが浮かび始めているのが、見えた。この、心に。
消えてしまった姿を、消えた先に思う。思い、描く。描き、思う。そんな、繰り返しを何度も重ねて・・・いるうちに、ふと戻る。失われていた疑問に、立ち戻る。去って行ったあの少女は、声をかけてくれた、笑いかけてくれた少女は、鮮明な記憶の中、確かに『人間』だった。間違いなく『人間』だった。
何故、あの少女は通り過ぎなかったのでしょうか?
視線は、自然と手の先に向かう。変わることなく、醜い手。でも、その手には・・・この手には相応しくないほど白い布が、残されていた。