──はじまりは、うつくしさのなかにあった。
うつくしい、です。
うつくしい、それが『美しい』なのだと『彼』が知ったのは、形になったその言葉が大地の上に柔らかく降り立った後だった。それまでは自然と零れる言葉の意味すら曖昧だったのに、途端に色さえもって鮮やかな意味となる。美しい、そう、美しい、と。
──始まりは、美しさの中に在った。
青い空は果てなく広がり、
白は広がる青に柔らかな曲線を描いて、
緑が萌えて命を謡えば、
花は美しくも単調な世界に華やぎを創り、
そして、その美しい世界に並ぶに相応しい美しさを有し、立ち並ぶ──偉大なる『神』
たった今、そう、まさにこの瞬間に新たに生まれた『彼』の周りを囲うように立ち並ぶ神々は、神という存在にあって当然の美しさを有し、その美しさの中で始められた『生』に『彼』の中には喜びだけが満ちて・・・溢れ落ちる直前、喜びに押されて伸ばしかけた手とともに、その動きを止める。聞こえてきた、笑い声によって。
・・・そう、笑い声、だった。まるで予定調和の如く一斉に響き始めた、その音は。一つ響けば、二つ響き、二つ響けば追いかけるように三つめが重なる。重なり、震え、また重なって、重なるごとに響きを強める。
美しく、偉大な神々。
彼らは、その美しさで笑っていた。目を伏せ、口元を押さえ、肩を震わせて笑っていた。耐え切れないと言いたげに、笑っていた。笑っていた。笑っていた。理由は、分からない。『彼』には、分からない。分からないと、思った。思ったけれど、分からないと、思ったのに、それ、なのに・・・。
胸の奥底から、どうしようもない何かが突き上げてきて。
気がつけば、走り出していた。背に覆い被さってくる笑い声、途切れることのないその声に、走る足すら震わせながらも、決して後ろを振り返ることなく、立ち止まることなく、走り続ける。
走って、走って、走って・・・その間にふと浮かぶ、単語。初めて浮かんだそれは『恐怖』という形を作り、その意味を『彼』に伝えてくる。『恐怖』『恐怖』『恐怖』、つまり、そう・・・怖かったのだ。怖かったから、堪らないほど怖ろしかったから走り出した。
──でも、何が?
分からなかった。『彼』には分からなかった。何も、分からなかった。走り続ける足が何処へ向かっているのかすら分からず、それなのに足を止めることも出来ずに走り続けて。
何処までも走り続けそうな『彼』の足が勝手に止まったのは、突然、目の前に巨木が現れたからだった。大地に大きな影を落とす雄大な姿。見つめずにはいられない強さを、走り続けていた足を止めさせるだけの力を持つ、巨木。
太く強い幹を伸ばし、空を覆い、影で緑を黒く染めた巨木の膝元は、大地に落ちた影と相俟って、光の世界が遠退いたかのよう。そしてその影の中、広がる影の大きさを見届けるように落とした『彼』の視線は、すぐ足元に広がっていた水を見つける。水の、塊。
・・・水溜り、を。
浅く広がる水溜りは、影に埋まって薄暗かった。しかしどれほど薄暗くとも、覗き込めば見えてしまう。水の面を。水の面に映った、水を覗き込む者の姿を。見えてしまう。見えて、しまった。
どうして覗き込んでしまったのか? そんな疑問がすぐに浮かび、浮かんだ途端に壊れていく。何故なら気づいてしまったから。『彼』は、気づいてしまった。もう、浮かべても手遅れだと・・・気づかされて、しまったから。そう、無駄だった。手遅れだった。水溜りに映る、その、姿。
ようやく、『彼』は全てを理解する。したかったわけではない、理解を。
・・・あぁ、そうでした。
影が、濃くなる。光が、遠ざかる。緑が、翳る。
それは望ましいことではないけれど、止める手立てなんて初めから存在していなかった。少なくとも、その身には。何故なら『彼』の身は・・・。
映り込む、地を見下ろす姿。暗い世界で、暗く佇む姿。初めて見る姿。でも、本当は初めから知っていた姿。なかったことになんて出来ない、己が身の形。納得しないわけにはいかない。
そうでした、私は・・・。
──私は、醜く生まれついていたのでした。