long4-4

目覚めの瞬間に似たその時、立っていたのは始まりの場所だった。あの、大勢の花々が立ち並んでいた場所。桜に、出逢った場所。出逢った桜に名乗って、名乗られて、手を引かれた場所。そして、引かれるままに歩き出した場所。歩いて、やがて・・・再会した、花。
「・・・え?」
目の前に、いた花。手を繋いでいた花。それなのに、いない。いない。手も、独り。独り。誰もいない道が、ただ真っ直ぐに目の前に続いていて。驚いて上げた声は、放り出されて転がった。ころころと、何もない地面を今歩いてきたばかりの方向へ。見えないその形を、自然と目で追った。足元を通り過ぎ、足跡を辿って後ろへ。振り返る、道。その、先に。

真っ直ぐにこちらを見つめ、凛として佇む『花』の姿が。

いつのまにそこにいたのか、分からなかった。ただ、目が合った途端に綻ぶような微笑みが浮かんで、その微笑みに、認めないわけにはいかなくて。咲く、花を。花が、咲くことを。そして思考は意味を成さなくなり、足は動かなくなり、口は開かなくなる。ついたった今、どうしようもない疑問が浮かんだはずなのに、それすら見失う。眩暈が、する。眩暈だけに囲まれる。でも、囲われた中心に佇む俺のすぐ傍で、花弁だけが降り積もる。

ひらり、
ひらり、ひらり、
ひらり、ひらり、ひらり、

降り積もる、降り積もる──積もる、けれど、永遠に降るわけじゃない。

ひらり、
ひらり、ひらり、
ひらり、ひらり、ひらり、

そのことを、知っていたはずなのに。降り積もり、積もりきって、花は・・・、

ひらり、
ひらり、ひらり、
ひらり、ひらり、ひらり、

「咲き終ったから、皆、もういないの」

・・・それは、見失った問いの答えだった。見渡す限り誰もいないこの場所の、答えだった。答えを聞いてようやく思い出した問いに、足が竦む。でも、目は逸らせない。まだ、逸らせない。逸らせないまま、答えは続く。もう、問いたいなんて思っていないのに。それなのに、花は微笑みを浮かべたまま答える。「私は、まだ咲き終わってないから」と。
咲き終わっていないから、でも、花は今、咲いている。目の前で、咲いている。佇む姿は俺と同じくらいの女の子で、だけど、もう子供じゃない。他の花と同じ、ひとつの、花だ。つまり・・・終わりに、近づいている。近づいているんだ。
突きつけられる、自分自身に。突き飛ばされる、今という全てに。地面を踏み締めているはずの足から力が抜けていくのに、座り込むことも出来ない。身体の横に置いてけぼりになっている手だけが、何かの信号みたいに震えている。持ち主に、何かを伝える為に。伝えてきているものは何だろう? 考えるまでもない、本当は、震える前から分かっていた。
震える原因は恐怖で、恐怖の理由は不安。そして不安の意味は・・・どうして、なのだろう? 一日も経ってない、多分、たった数時間のことなのに。それなのに、微笑む花が、咲いている花が、今はひとりしかいない花が。どうしてだろう? どうして、気づかなかったのだろう? 気づいていたら、最初からこんなことにならないように気をつけていたのに。
後悔は、一度生まれれば際限なく生まれ、積み重なっていく。倒れることを知らずに、どこまでも、どこまでも。止めることが出来ないそれに、押し潰されそうになる。でも、もういっそ押し潰されてしまいたい。そう思わずにはいられないほど、苦しい、悔しい、哀しい。
咲く、ということは・・・『花』が『咲く』ということは・・・。
「違うの」自分の中の結論が、自分の中だけで形になる直前。ふいに聞こえてきた声は、俺を囲んでいた眩暈という霧を吹き飛ばすほど、力強かった。その声以外の全てを薙ぎ払い、貫く。それは暴力的な力強さとは違う、優雅で美しい、否、優雅で美しいからこそ生まれる強さ。美しさから生まれる、自信、自負という名の、強さ。
出逢ったばかりの、あの一欠けらの自信もない弱々しさなんて微塵も感じさせないで、花は一歩、近づく。その一瞬ですら、いっそう鮮やかに咲きながら。
「あのね、咲く、ということは、終わるという意味ではないの。そうではなくて、その逆なのよ」


──永遠に在る、という意味なの。


「来年も、次の子がまた咲くの。きっと、咲くの。でも──私の方が、次の子より、その次の子より、そのまた次の子よりずっとずっと綺麗に咲くわ。一番、綺麗に咲くわ。そうしたら、次の子が咲いても、それは私の姿になるの。私の姿が重なって、私が永遠に咲いているのと同じになるの。少なくとも、貴方にとってはそうなるの。だって、私は・・・」
もう一歩、近づく花。伸びてくる両手。その先を彩る薄く、綺麗な形の爪は、知らぬ間に色がついていた。瞳と同じ、鮮やかな赤。だけど、マネキュアみたいな人工的で品がない色ではなくて・・・人が、再現出来ない、赤。頬に触れる、その赤を、触れられることで見えなくなるのが残念で。
でも「私はね」と続ける花、その瞳の赤から目を離すことなんて出来るわけがない。目を奪われる、という言葉の意味を初めて知った。奪われるのは、目ではなくて意識と意思。奪われて、もう、取り返せない。


「私はね、貴方が咲かせてくれた花なのよ・・・メグム」


名を呼ばれたのは、初めてだった。メグム、芽、何度も呼ばれたことがあるのに、今、初めてその名の響きを美しいと思える。メグム、芽、小さな芽はやがて期待に膨らみ、限界まで膨らんだ後、一斉に開くのだ。膨らみの中に隠していた、美しい花弁を一枚一枚、飾って。
更に一歩、近づく花との距離は今まで知らなかった距離。風がもし吹いたなら、前髪が互いに触れるかもしれないその距離で、花の赤い瞳に俺の姿が映り込む。馬鹿みたいに、見蕩れている顔。こんな馬鹿丸出しの俺が、こんなに美しい花を咲かせることが出来たなんて信じがたいけど。「メグム」花の唇が象る名は、俺の名だから。
「見ていてね? 必ず、見ていて」
念押しをされる。不要な、念押しを。目を逸らすことが叶わない俺に、見ていて、なんて言う必要はないのに。それでも、どうしても必要なんだと言わんばかりに何度でも、念押しされる。頷くことさえ、出来ない俺に。
そして何度もされた念押しの後、花は、俺の、花は、


「誰よりも美しく咲くから、貴方だけが、見ていて」


花は、出逢いから今までで尤も美しく微笑って──満開の、時を迎えた。
触れる指先の感触が薄れたかと思うと、その輪郭が薄れ、人の形が一瞬だけ揺らいで・・・次の瞬間、一斉に、花開く。
俺の、すぐ目の前で。
少しだけ上向く先。小さな、白い花々。桜のように密集して咲いているわけではなく、一つ一つ、細い枝先に凛として花弁を開いている様は、圧倒的な存在感はなくとも、決して折れることのない芯の強さを滲ませて。花の根元にはあの赤が。白を際立たせて白に際立たせられて、鮮やかに色づく。
どこからともなく吹いてきた風に揺れ、揺らされながらも決してその姿を荒らすことなく、揺らぐことのない自信を咲かせている花。俺が咲かせて、俺の為に咲いた──俺の、花。『貴方だけが、見ていて』と、告げて咲いた、花。

・・・あぁ、そうか。

堕ちるように、唐突に理解した。割れた地面に吸い込まれ、そこから見上げた空に、その青さを、美しさを教えられるように。素直に、その理解を受け入れた。花は、ただ咲くのではない、と。
そう、ではなくて──咲き誇るのだ、きっと。誇りをもって咲いて、だからこそ散ってゆく。咲かせた誇りまで散ることはないと知っているからこそ・・・、

ひらり、
ひらり、ひらり、
ひらり、ひらり、ひらり、

散る、のだ。
今、ようやく分かって見上げる花は、まだ散ることなく咲いている。白い花。結局、名前をもう一度尋ねることすら出来ないでいるけれど。ただ、花、としか語り掛けられないけれど。

『見ていてね』

花の、笑い声混じりの囁きが降ってきた気がした。自信に満ちた、その声が。だから・・・もう、いいのだとそう確信する。名なんて、知る必要はないのだと。だって、ここで咲いている。俺の花が、今、ここに。
俺にとっての『花』がこの『花』を指し示すなら、他の名なんて必要ないから。この世でただひとつ、『花』と言われて俺が指し示すのが、キミ、だけならば。
キミだけ、だから。

ひらり、
ひらり、ひらり、
ひらり、ひらり、ひらり、

立ち尽くす、花の下。もし今、この花の下に花弁で埋めてもらえるならば、死んでもいいと半ば本気で思いながら、身動き一つ、取ることなく。
立ち尽くす、見蕩れ続けて、立ち尽くす。
恋焦がれるなんて陳腐な表現では表わせないほどに、焦がれて。吹く風に一枚、宙を舞うその様すら目を離せずに。許される限りの時間を、許されるだけ留まる為に、見つめ続けて・・・おかしそうに、嬉しそうに笑う花の声が、また微かに聞こえる。花の、囁き。

ひらり、
ひらり、ひらり、
ひらり、ひらり、ひらり、


──あのね、俺の中では、誰よりも綺麗だよ。


花が憧れていたあの大輪の花を思い浮かべながら、目の前の花に囁く。キミの方が綺麗だよ、なんて、今時、誰も言わないくらい陳腐な台詞。でも、時代遅れだとか恥かしいとかは思わない。本音が伴うならば、言葉は、言葉通りの意味しか持たない。
だから、花はただ微笑む。分かっていると言いたげに微笑んで、永遠の為に咲き誇る。

ひらり、
ひらり、ひらり、
ひらり、ひらり、ひらり、
ひらり、ひらり、ひらり、
ひらり、ひらり、
ひらり、

唐突に、強い風がひと吹き。
揺らされて、また一枚、目の前に舞い落ちてくる。広げた掌の上に、ゆっくりと降り立つ。優雅に、上品に、これ以上ないほど美しく。音もなく、気配もなく、静かな、舞。



『ひらり』



──だけど、こんなにも軽やかな重みを、他に知らない。