long4-3

曲がるべき道を曲がり損ねたりしながらも、どうにか到着した場所は、懐かしくて、同じだけ懐かしくない場所だった。水は流れているし、ベンチはあるけれど、そこにセットで存在している緑や人の姿がない。代わりに、所々に佇む鮮やかな人・・・の形をした花たちの姿が見えた。何の花なのかは分からないけれど、水のせせらぎに耳を傾けているかのようなその姿は、一つとして同じ姿はなく、鮮やかで艶やかだった。目を奪われる、という言葉の意味を形にしたくらいに。
・・・でも、今は奪われる、というほどでもない。繋いだ小さな手の存在が、流れる水に向かって強請るように引くその力が、実際より強く、強くその意味を持ってしまったから。「早く」と、そう強請る声が。
「綺麗ね、でも、思ってたより浅いのね。下の、石が見える。でも、石も綺麗。とても綺麗。これ、人間が作ったのよね」弾むように、花は尋ねる。笑みを浮かべて、見上げてくる。「そうだよ。人間が作ったんだよ。もっと深い流れも作れるけど、ここは小さな子供が遊んでも大丈夫なように、態と浅く作ってあるんだ」人間が作った。でも、勿論それは全然知らない大人が作ったわけで、俺じゃない。・・・俺じゃない、けど、見上げてくる瞳が敬意を浮かべていたから、何だか嬉しくなって自慢気に答えてしまう。その滑稽さを、けれど花は知らないまま、もっと嬉しそうに微笑んで。
裸足の足。白くて細い、綺麗な足。その爪先を、そっと、水面を揺らさないように慎重に差し入れた。「冷たい」そんな呟きが聞こえる。はしゃぐ子供の声に似た、それなのに何かが決定的に違う声が。
「ねぇ、少し、歩いていい?」
両足を水に浸して、手は繋いだままの花は俺を見上げてそう、尋ねてくる。勿論、俺は頷いた。拒否する理由なんてないし、拒否したいと思う心もないから。すると花も一度頷いて、それから水に浸した足を一歩、前に進める。引き抜くことなく、水の中で踏み出す一歩。透明な爪先が緩やかに水の中を動く様は、真っ白で優美な小魚が身を躍らせる姿を連想させる。一歩目を皮切りに、二歩目、三歩目と動くその様さえも。
優雅な動きを目で追ってしまうのは、とても自然な行動だった。その動きに合わせて、人工的に敷き詰められた石の上を歩くのも。踏み締める場所は違っても、並んで歩く花と俺。理由さえ知らない穏やかで静かな時間の中から、先に足を抜いたのは花の方だった。流れに沿うように、簡単に。
「綺麗、でしょう?」
「え?」
「あそこ、反対側にいらっしゃる、白いお花」
最初の頃とは違う、哀しそうでも辛そうでも淋しそうでもない、純粋な賞賛の声。その声が指した方向、対岸へ顔を向ければ、反対側に敷き詰められた石、その更に向こう側に佇む真っ白なドレスを着た花が見えた。上品な焦げ茶色の髪を結い上げ、肩を出した真っ白のドレスは長く、足を覆って土の上に完璧な形で広がっている。俺では近寄れないくらい華やかで豪華な『女の人』で、茶色が濃い大きな瞳は水を張ったように潤み、ふっくらした唇は薄いピンクに染まってほんの僅かに微笑みの形を刻んでいる。
上品で華やかで鮮やかな艶やかさ。まさに『花』。大輪の、圧倒的な存在感を持つ『花』。
「綺麗でしょう?」もう一度、独り言のように花が呟く。同意を確信して、呟く。それから大輪の花に向けている視線はそのままに、足も止めてまた呟いた。
「私もね、白いの。咲いたら、白いのよ。全然、違うんだけど、でも・・・」

あんな風に、咲きたいなぁ。

「咲きたい、けど・・・でも、私は小さい花みたいだから、無理だけど」
「小さい花、みたい? みたいって?」
「だって、まだ咲いてないもの」
零れた呟きは憧れという光に変わり、水面に反射した。そしてその光に当てられた目には、世界は白一色に染まって見える。その真っ白な世界の中心から聞こえてきた言葉に感じた小さな引っ掛かりに、無邪気な幼さを感じさせる声が、酷く納得出来る答えを返してきて。あぁ、なるほど、と呆気ないほど簡単に納得する。そうだ、まだ、この子は咲いていない。
咲いて、ない。
じっと、対岸の花を見つめ続ける小さな花。その注意を引く為に、小さな手を再び、痛みを生まない程度に強く握り締める。するとすぐさま向けられた瞳は、驚きを宿していて。真っ白で、まだ小さくて、でもあの花にはない、鮮やかな赤を持つ花。他の誰かが通りかかる場所ではなく、あの、俺の家の脇にずっといてくれていた花。
今、この手で繋がっている、花。
「咲いてないんだから、咲いてみるまで分からないよ。それに、もし小さい花だったとしても・・・小さい花が綺麗じゃないなんて、そんなの決まってない。小さくて鮮やかな花も、沢山あるよ」
「・・・『桜』みたいに?」
「うん」
「でも、あんなに沢山は咲けないみたいなの」
「だから、咲いてみるまで分からないよ。それに沢山咲かなきゃ綺麗じゃないなんてのも決まってないし。だから、とにかく、まずは・・・咲かないと」
「咲かないと?」
「うん。咲かないと。だって、咲かないと・・・」
咲かないと何なのか、そんな疑問がふと頭の端に浮かぶ。意味がないのか、価値がないのか、それとも、全ては疑問を抱くことすら許されないほど頑なな義務なのか。でも、どれも違う気がした。いや、絶対違うと確信した。確信、させられた。
咲かないと、そう、咲かないと。咲いて、くれないと。だって、そう、だって、今、こんなにも、こんなにも・・・。

咲かないと、見られないよ。見て、みたいよ。

声は、形になったのか。それとも、空気を震わさず、唇だけで形を作ったのか。どちらでも、いい。追求することに意味はない。何故なら追求しなくても、答えはもう、そこに在ったから。花が、花が、花が、

「──本当、ね?」

ひらり、
ひらり、ひらり、
ひらり、ひらり、ひらり、

「私、咲くわ。きっと、咲くわ。きっとよ、きっと」

花の、咲く音がした。咲いて、花弁が舞う音が。目の前で、鼓膜の中で、繋がれた手の中で、そのどれでもない、全ての中で。ひらり、と音がした。五感の全てを覆うほど圧倒的な鮮やかさで、埋め尽くされる。
逆らう、術などない。何処にも、何処までも、何処からも。
「ねぇ、あっちも見たいわ。行きましょう?」行きましょう、もう一度、丁寧に重ねられる言葉。同時に引かれる、手。この世の何処に、この手を振り払う術があるというのか。在るわけがない。在るわけがない。だから・・・引かれるまま、歩き出す。立ち止まる前と、同じように。
俺の手を引いて、水の中を少しだけ先に進む花。手を繋いでいるのに、本当についてきているのかを確かめるように、振り返って。目があって、視線が絡んで、その途端に、唇の両端を柔らかく上げる笑み。咲く為に膨らみ、その膨らみの中に美しい花弁を隠してもったいぶっている、そんな悪戯な蕾めいた、笑み。初めて見た、笑みだった。そしてそんな初めての笑みを見せたかと思うと、すぐにまた前を向いて、歩く。水の中を、泳いで、歩く。でも、その歩き方も、背中も髪も、スカートも・・・笑みもまた、少しだけ違う気がした。一瞬前までの花とは、違う気が。

──それが気の所為でもなんでもないと分かったのは、花の水遊びを見守ってどのくらい経った頃だろうか?

水の中を歩き、時に片足でその水を跳ね上げ、時に水に埋もれた小石を拾い、時として拾った小石を水面に投げる。そんな他愛無い遊びの最中、いつの間にか結ばれていた手は離れていた。それはごく自然な仕種で、水の中央まで足を向けてしまった花と、その花を水の外から見守る俺とで少しだけ距離が出来たに過ぎなかった。
緩やかな水の流れの中を、光を跳ね上げて戯れる、花。そんな花を瞬きすら惜しんで見つめていた俺は、だからこそ数回感じた違和感めいた感情を最初は気づかずに。でも、見つめすぎるほど見つめていたから・・・だから、やがて気づく。時折、感じるようになった錯覚めいた違和感の理由。気の所為で済まそうと思えば済ませられるけれど、一瞬ごとに済ませられなくなる、それ。
水を跳ね上げる足のしなやかさも白さも細さも同じ。同じだけど、気がつけばその足から幼さを象徴する丸みが失せ始め、代わりに宿る、滑らかな艶のようなもの。透明なのに、透き通ることは出来ず、透き通らないのに濁ることは有り得ない。それは水を跳ね上げる足だけに言えることではなく、飛び散った飛沫を追う手、腕、瞳、その頬の丸み、そして花、そのものにも言えて。
一瞬ごとに、艶やかに。愛らしさを保ったまま、また一枚、美しい衣を重ねていくように。重ねるごとに、下の色と混ざり合って鮮やかに染まるように。緩やかに、確実に、徐々に、徐々に、見つめれば、見つめるほどに。
花は幼さを失い、少女の姿を女性に変えていく。
「なん、で・・・?」
「どうしたの?」
無意識に洩らした問いに返事をしてくれたのは、見つめる先の花ではなく、今まで気づかずにいた、すぐ傍に立っていた別の花だった。黄色くて丈の短いワンピースみたいな服に、濃い緑のパンツを合わせている、どことなくカジュアルな花。カジュアルだけど、その美しさと気品は決して損なわれていない花。
「ねぇ、どうかしたの?」と、その花は重ねて問いかけてくれる。少しだけ心配そうな顔をして。親切な花なのかもしれない、そんな可能性を小さく抱いて、抱いたからこそ、問いかけに素直に答えた。他に答えをもらえそうな相手もいなかったから。「気の所為、かもしれないけど・・・花が、なんだか大人に・・・っていうか、うん、成長してる、ような気がして・・・」気の所為じゃない、そうも思ったけど、その時、思考の半分は突然違う方向へ流れてしまっていた。花、花、花。目の前の彼女も花なのに、『花が』って言うのはおかしいな、とか、結局あの花の名前は聞き取れないままだ、とか。
そうして思考が分散している間に、滑り込んできたのは軽やかな笑い声。決して大きくはない。けれど近くにいるものには良く聞こえる、そんな声。
「そんなの、当たり前でしょう?」

だって、貴方が愛でているわ。

「聞かなかった? 私たち花は・・・愛でられる為に、在るのよ。愛でられるからこそ、咲くことが出来る。貴方が愛でているから、あの子も咲き始めているのよ」
笑いながら告げられた言葉に、今更ながら、そうか、と思う。成長している・・・つまり、咲き始めているのか、と。酷く納得して再び視線を向けた先では、視線を向けていなかった間にも成長していたのか、ついさっきまでより大人びた花がいた。視線を感じて笑いかけるその笑みすらも、大人びて。
喜ぶべきこと、嬉しいこと。花が望んだとおりに咲くならば、その手助けが出来ているのならば、それは本当に嬉しい。相変わらず水を跳ね上げ、その度に水の中を進んでいく花を追うようにして歩きながら、ただ純粋にそう思う。あの大輪の花とは違っても、花は花なりに、美しく咲けばいいと。
歩く花を、それだけを思って追った。追う、というほど離れていたわけじゃないけど、斜め後ろ辺りの位置を保って、進む先へ続く。何処までも続きそうで、その実、確実に終わりに近づく水の流れ。見えるのは、水と、その水と戯れる花と、両サイドに敷き詰められた小石と、小石を眺めるように時折佇む、他の花。どの花も満開の美しさで佇み、笑みを浮かべて水面を、花を眺めて。そのあまりに優しい笑みになんだか嬉しくなったのは、まだ咲ききっていない花を俺と同じように、他の花々が好きでいてくれているように見えたから。だからそれが嬉しくて、花を見守りながら他の花々も眺めて・・・。
だから、視界に入ってしまった。
水に流れる、花弁。初めて、見かけた花弁。一枚、二枚、もう一枚。流れてくる花弁を自然と追った目は、やがて対岸へ向かい、そこで水辺に佇む薄紫の和服を纏った花を見つける。伏せた瞳を空に向け、静かに佇むその花は、やがてゆっくりと閉ざしていた瞳を開くと、穏やかに笑む。満足そうな、満ち足りた笑み。そしてその笑みだけを残して膝を折り、緩やかに、傾いて。
天を仰いでいた顔が、水面に触れる直前までは、確かに見ていた。それ以降も目を閉ざした覚えもなければ、瞬きした覚えすらないのに・・・何故かそこから先が分からない。ただ、記憶の隙間に入り込んだように、その薄紫の花の姿は消えていた。水に沈むわけでもなく、敷き詰められた小石に伏せるわけでもなく、傾いだまま、消えて。
残されたのは、傾いだ花の記憶。──それと、水面に流れる、薄紫の花弁。
花弁、だけ。

ひらり、
ひらり、ひらり、
ひらり、ひらり、ひらり、

「どうしたの?」

柔らかな冷たさが手に触れるのと同時に聞こえた、甘えを含んだ囁き。驚きで声も出せないまま視線を向ければ、いつの間に水から上がったのか、すぐ傍に花の姿があった。じっと俺を見つめて、俺の手を両手で包んでいる。僅かに、見上げているその瞳。
・・・そう、僅かに、だ。
ほんの少し前までは、もっと、一生懸命と表現しても良いくらい見上げてもらわなくては、花と視線が絡むことはなかった。それなのに今は、ほんの僅かに見上げられただけで視線が絡む。花は、もう綻び始めていたのだ。通り過ぎる時は気づかないのに、振り返った瞬間に気づかされる、そんな、開花の始まり。
喜ばしいこと。喜ぶべきこと。・・・それなのに、それ、なのに・・・今、笑い出しそうなほどに恐ろしくなってしまった。漠然としているのに、決定的になる瞬間を予感させられているかのように、怖ろしい。倒れていった花。消えてしまった花。初めて見る花弁。あの花は、何処に行ったのだろう?
「ねぇ、もう、お水はいいから・・・どこか、他の所に行こう?」花は、囁く。無邪気に、囁く。そして俺の手を引いて歩き出す。明らかに、目的地がない、歩くことだけを目的とした歩き方で。引かれるまま、何の抵抗も持たずに歩き出す。歩き出して・・・数歩目で振り返ったのは、不自然なほど自然な行動だった。歩く足は止めないで、首だけを背後へ。流れる水。敷き詰められた小石。
でも、それだけ。否、それだけではなく・・・水に浮かび、踊る花弁。無数の、色とりどりの花弁。そして、代わりに消えた花々。ピンクも、白も、黄色も、いない。誰も、いない。いない、いない、何処へ、何故、いない?
混乱は一歩ごとに強まり、恐怖は一歩ごとに深まる。でも、まだ形にはならない。なって、いない。いなかった・・・のに、目的ない歩行の末に辿り着いた場所で、それは決定的なまでに鮮明な形を取り始める。

──誰も、いなかった。