・・・実は、今でも思い出せない。
多分、それは阿倍もだろうけど。
結局あの後・・・俺達が黒河に何かを言ったのかどうかとか。
どういう顔をしていたのかとか。
あとは・・・校門を出た俺達が、行き先も決めずに踏み出した一歩。
その最初の一歩目を踏み出したのが、どちらからだったのかとか。
踏み出した足の行方さえ知らない俺達がその時、はっきりと自覚していたのは唯一つ。
・・・行き先が、家ではない事だけだった。
※※※※※※※※※※
「結局さ、あれってどっちから言い出したんだろうな?」
「うーん、それがいまだに思い出せねぇ」
独り言のような阿倍の言葉。
それに同意を返しながら、どれだけ努力しても思い出せない過去を思う。
「ってか、あの時俺ら、黒河に何か言ったっけ?」
「・・・それも不明だよな」
同時にもう一つ、いまだに思い出せない事を口にすれば、先とは逆に、今度は阿倍が同意を返してくる。
そうして二人、顔を見合わせて二人いても何一つ思い出せない事実に、小さく笑うしかない。
笑って、つい出る手で叩き合って、そして・・・語り合う。
「でもホント、煩かったよな。クラスのヤツ等。圭なんてマジ切れ寸前だったろ?」
「まぁな。でもそれは阿倍もだろ?お前、珍しく顔に出てたぞ?」
「そりゃ、顔くらいには出るって。むしろ手が出なかったことを褒めてほしいくらいだ」
「うわぁー、物騒」
「どっちが」
互いに語る、その声は常に笑いを含んで。
でもそれも今だからこそ笑いながら、穏やかに語れる事。
当事だったら、どう頑張っても無理だった。
こうして、笑い合う事なんて。
だってあの頃は・・・冗談ではなく、煩くて、腹立たしくて、ムカついて、イライラして仕方がなかった。
周りという周りに、聞こえる全ての言葉に。
だけどそれ以上に、多分・・・不安だったのだ。
そう、不安になってしまうほど。
──きっとあの頃の俺達は、酷く弱くて臆病だった。
自分の事は自分しか分からないはずなのに、俺達の関係は俺達しか分からないはずなのに、周りが好き勝手に言う言葉に腹を立てながら馬鹿らしいと言いながら、それでも・・・不安になってしまっていた。
他人の言葉に、他人の関係に、自分達の姿を重ね合わせて。
・・・他人なんて関係ないのに。
自分達が自分達なら、それでいいはずなのに。
それなのに、それでも。
もしかしたらいつかは、と。
本当は当時、一番馬鹿だったのは俺達だったのかもしれない。
周りの言葉に、自分達がそうなってしまうんじゃないかと、その言葉通りになってしまうんじゃないかと、そればかりが不安になってきてしまって。
不安で、不安で、不安で・・・。
「不安、だったんだよな」
ふいに隣から零れた言葉。
・・・いや、もしかしたら俺の口から零れた言葉だったのかもしれない。
どちらからか分からない、でもどちらからだとしてもおかしくない言葉に、ただ一つ、頷く。
頷いて、そして・・・今度こそ間違いなく、自分の口から言葉を発する。
「不安だった。不安で不安で仕方なかった。だってさ、恋なんて一瞬じゃん」
そう、少なくとも、俺は、俺達はそう思っていた。
いや、それが正しいと信じていたし、知っていた。
その代わりに、俺達は、俺達の友情は永遠に等しいと・・・そう、確信していて。
だからこそ、だからこそ・・・。
ふいに、小さな音がした。
乾いた、軽い音。
その音の方へ目をやれば、相変わらず阿倍の手の中に収まっている、俺達の証がある。
無意識の意識で手を伸ばし、それを取り上げると・・・手の中に握り込む。
小さく軽いそれは、けれど決してなくなったりはしない。
なくなったりは、しないのだ。
「あの時はあんまり深く考えない衝動的な行動ってヤツだったけどさ、今思えば・・・多分、誰の言葉もない所に行きたかったんだよな。そんな場所、在るわけないのにさ」
小さく軽いのに固い感触。
それを実感しながら当時を振り返ると、自然と出るのはその結論。
誰もいない所に行きたかった・・・否、逃げ出してしまいたかった。
たかが小学四年生に、出来るわけなんてないのに。
そんな事、冷静に考えれば分かりきっていた事だったのに。
それでも・・・。
「だって、出来るって思ったし」
一人じゃない、二人なら・・・何処までも行けるはずだって。
それにそんな場所なかったけど、それでも。
「・・・行けただろ。ここに」
「そうだな。これ、持って帰れたもんな」
握り締めていた手を上から握って力強く言い切る阿倍に、笑って同意を返す。
その通りだと、思って。
何処にも行けない俺達は、それでも確かに望む場所に行きついて、そして、多分、否、間違いなく。
伸ばした手の先は、望んだ未来に届いていた。
※※※※※※※※※※
あれは校門から出て当てもなくふらついていた時の事。
曖昧な記憶が続く中で、一番最初に思い出がはっきりと像を結び始めるのは、遠ざかったはずの桜が再び視界一杯に広がった所から。
──思うんだけどさ。
握った手だけが確かだった。
隣から聞こえてくる吐息と、足音だけが現実だった。
だけど逆にそれ以外の全てが遠く感じる時間の中で、ふいに鮮明に目の前に広がった現実は先ほども見たはずの一面の桜。
それでようやく周りを見渡せば、そこはいつの間にか町外れに流れる川岸で。
対岸を埋め尽くすように並ぶ桜が、川に沿ってどこまでも、どこまでも・・・見渡す限り先までずっと続いていた。
この町の名所、とまで言われているそこは、それなのに今日は花見客の一人も居らず、酷く閑散としていて。
桜の花弁が舞う音すら聞こえてきそうな景色の中で、久しぶりに聞いた声は当然のように隣からのものだった。
「思うんだけどさ」
「・・・何?」
「この桜って、何処まで続いてるのかと思って」
「何だそりゃ?」
「だってさ、ちょっと疑問じゃねぇ?見える限りずっと川に沿ってあるけどさ、これ、一体何処まで続いているのかなって。圭は知ってるのかよ?」
「いや、知らないけどさ。大体常識的に考えて、川の終わりまでじゃねぇの?・・・って、川の終わりって何処だよ?」
「知るかよ。ってか、自分で自分に突っ込み入れてんなよ」
唐突にもたらされた阿倍の問いに、当たり前の答えを返そうとして・・・無理だった。
何故なら言われてみるまで考えもしなかったが、考えても分からなかったから。
川は別に唐突に途切れるものではないし、いつかは海に繋がるものだ。
それならそのギリギリまで続いているのかとも思うが、それこそ常識的にいってそこまで長い距離を延々と桜が続いているとは考え難い。
でもそれなら・・・。
一体何処まで続いているのだろう?
考えてみれば、それは確かに不思議だった。
不思議だと、思えた。
思う事が、出来た。
「・・・確かめりゃ、いいじゃん」
「・・・だよな」
手を握り締めたまま交わした瞳は、互いを映していただろう。
阿倍の瞳に映った俺。
俺の瞳に映っている阿倍。
阿倍に映った俺は笑っていて、目の前の阿倍も笑っていた。
でもそれが、どこか強がっているように見えたから。
せめて阿倍が見ている俺の瞳に映った阿倍だけは、いつも通りに笑っていればいいと願って。
そうして二人、今度は曖昧だけど目指す場所を見つけて歩き出す。
土手は降りずに、川沿いの道を二人並んでゆっくりと歩く。
繋いだ手だけは決して離さず、風がなくても降り注ぐ桜の下を、時に振り仰ぎながら、俯きながら。
上を向く度に空が夜に染まり、下を向く度に影が闇に呑まれていくのに気づきながら、だけど決してその事には触れずに。
次第に辺りから隣の存在以外が失われていくのを承知の上で、それこそを望んで。
帰る道が閉ざされて、
向かう先が失われて、
立ち止まる場所すら奪われて、
多分、それだけを願っていた。
振り返ったら急かされそうだったから。
進んだら追いつきそうだったから。
立ち止まったら捕まりそうだったから。
進みたくなんてなかったし、戻りたくなんてなかったし、立ち止まるなんてそれこそ冗談じゃなかった。
そんな事・・・。
怖くて、出来なかった。