あの日、あんな会話に加わらなければ、あんな瞬間訪れないですんだのに。
でもあの日、あの会話に加わらなければ、今、この瞬間は訪れなかったかもしれない。
毎日繰り返されていると言ってもいいくらい頻繁にされる会話が、またもや繰り返されたのは、放課後、男の子が全員帰って数人の女子だけが残されている教室でだった。いつもの会話と同じそれに、もしいつもと違う部分を見つけるとしたら、それは私がそのメンバーに加わっていた、その一点のみの違い。
いつもは苦手なその類の会話が始まる気配を察知したら、すぐにさり気なく逃げ出すようにしていたのに。
その日はどうして逃げそびれてしまったのか?多分もたもたしていたとか、そういう理由にならない理由だったのだと思う。漠然とした記憶、でも漠然としているのはそれだけで、他の部分はあまりにも鮮明に覚えていた。
クラスで一番格好良い子は誰とか、可愛い子は誰とか、誰が誰を好きで、誰が誰に嫌われているとか、そういう話題から始まった。悪夢の、時間。次第に移行していく話題は、やがて必然に近い力でそれぞれのタイプを聞き始める。
しかも、クラスの誰かを名指しする形で。
盛り上がりを見せる女子内で、私だけはある意味客観的に、クラスの中に好きな人がいなかったり、タイプの男の子がいない場合はどうするんだろうと疑問に思っていた。
でも私以外は当然のその疑問を抱かなかったらしく、馬鹿のように集まった女子が一人、また一人と同じクラスの男の子の名前を口にしていた。だれだれ君、だって格好良いから、スポーツが得意だから、優しいから、等々。
バッカみたい、正直なその一言が、どうしても口に出来なかった。それどころか、そう思っていることすら気づかれるわけにいかなくて、少しだけ伏し目がちになって心ごと隠した。周りを囲む女子達の、誰にも気づかれないように。必死に押し隠して、隠しながら何度も何度も思う。
格好良いとかスポーツが出来るとか優しいとかに、何か意味があるのって。
何度も思って・・・その所為、だった。いつもならどんな時でも、気をつけていた。周りの会話に置いていかれないように、浮かないように。攻撃される前に防御を、防御を張っていることすら気づかれないように。だけどその時、私は。
多分、呪いを掛けていた。自分を含めた女子に。届かない空に唾を吐くのに似た、呪い。
・・・でも、跳ね返って、しまう。堕ちて、きてしまう。空から堕とすわけじゃなく、空に向かって吐いた唾が、重力に従って堕ちてくるように。
「ねぇ、佐藤さんは誰が好き?」それは無邪気な悪意。
悪意だと知らないからこそ、悪意だと捉えた方を非難する言葉。いつもだったら防御して、決して届かないようにしていたのに。逸らしていた注意の隙を縫って、するりと入ってきてしまって。言葉という形にされたら、もう終り。今更なかったことになんて出来ない。
興味津々という単語を浮かべた瞳が何対も向けられて、正直な答えなんて欠片も望んでない眼差しが、期待している答えを強要していた。自覚すら、なく。
向けられる意志に、声が詰まって。だけど詰めた息の代わりに脳が全力で回転しているのが、はっきりと感じられた。手に取るように分かったその感覚を、今でも忘れられないくらいに。
でも回る脳が、答えを出したくないと訴えているのに気づいていた。だって、答えは・・・。
答え、は。
・・・特に、ないとか、当たり障りのない男の子の名前とかを答えてしまえばよかったのだと、今になってみれば思う。でもその時は、言えなかった。出したくない答えを知っていたから、気づいていたから、どうしても口に出来なくて。
多分、よくも悪くも正直だった、あの頃の私は。
そしてその正直さが、一番悪い形で効果を齎す。拒否すら赦されず答えを求めて黙る私の姿は、他の女子から見て・・・明確な答えがあるから答えられないのだと見えたらしくて。気づいた時には、私以外の女子が無言で、意味ありげな視線を交し合っていた。含み笑いを、滲ませた視線を。
拙いと思った時には、もう遅いのだ。リーダー格の子が、疑問の形を取った断定を下す。反論なんて、一切聞き入れる気もなく。
「分かった!コジマでしょ?最近、よく話してるもんね!」
「え?コジマって・・・」
「勿論、シュンスケの方に決まってるじゃん!コジマ君の方とは全然話してないし・・・ってか、コジマ君と話す女子、いないでしょ!」
ダサくて、暗いもん!勉強以外何にも出来ないし!
『ぎゃははは!』と続いた、品性の欠片もない笑い声。全てを掻き消す大声の所為だと言う気はない。いくら臆病で、周りに埋没して隠れる生き方を好む卑怯者の私でも、こんなにも自分の中ではっきりしていることを否定するまで卑怯ではないから。
だからその時、決定事項となった言葉に反論せずに、曖昧に笑うだけだったのは私自身の決断で、私にだけ責任があることで。上がった声があまりに大きくて、私の声が掻き消されそうだから諦めたとか、そういう理由じゃない。私は、ただ。
自由に空を飛ぶ為の対価を払うのが、怖かっただけ。
響く、嗤い声。そこにいない『真面目で勉強が出来るのだけが取り柄のコジマ君』を嘲笑する、醜くて、愚かで、不自由な。
その間違いを承知の上で正さなかった。否定しなかった。そこにいない『コジマ君』が、もう帰った『コジマ君』が、こんな醜い地上にいるはずじゃない『コジマ君』が。
廊下から、目を見開いてこちらを見ていたのに。
気づいたけど、否定出来なくて。見開いた瞳に浮かんだ傷ついた色が見えなかったわけじゃなかったのに、横殴りの風が吹いていたわけでもないのに、私は。
「コジマ!オイ!女子、お前等、いい加減にしろよ!」
身を翻したコジマ君と一緒にいたのは何故かシュンスケ君で、私達の方を見て、顔を真っ赤にして怒鳴ると、すぐに走り去ったコジマ君を追い駆けて行った。固まる私達女子を余所に、軽やかに、その身を縛るモノなんてこの世のどこにもないみたいに。
翻った二つの背、それを見て強く、強く抱いた思いは今でも鮮明だ。あの青と、同じくらい。
あぁ・・・遠い、私には、無理だ、と。
出したくなかった、答えはこれだったんだ、と。
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「・・・つまり、他の女子の目があったから言えなかったけど、実は『コジマ君』が好きだってのが答えだったのに、ってこと?」
「あー・・・そういうんでもないけど」
「・・・オイ!」
「ってかね、私、確かにコジマ君が好きだったって言ったけど、そういう意味で好きだったとは言ってないよ?」
「・・・は?」
間の抜けた顔で絶句している人の、素直な表情が好きだと思う。それはあの頃、分かることが出来なかった気持ち。幼い頃の方が、不思議なほど複雑だった。どうしてなのだろう?今でも、よく分からない。
でも、今だから分かることもある。
「あのね、多分、こうっ、人として好きだったんだと思う。異性って言うより、少年って存在が凄く綺麗な気がしてて・・・って、上手く言えないね」
「じゃあ、『答え』は?」
「うーん・・・あのね、内緒」
笑って答えると、少しだけ不服そうな顔をされて、その顔が見られなかった幼さみたいな気がして、つい噴出してしまった。眉間によった皺、不機嫌を絵に描いた顔をされて、すぐにしたフォローが精一杯の説明。
あの頃、私が『コジマ君』に抱いたのは、酷く強い、強い憧憬、つまり憧れだったのだと思う。一人の異性として意識するのではなくて、一人の人間として向き合って、喩えて言うなら・・・そう。
あの飛行機を見上げる時と、同じ気持ち。
届かないモノを届かないと承知の上で見上げるような、届かないと決めつけて愛するような、そんな気持ち。純粋な、全然手が届かない無意味な。
勿論、それが悪いなんて思わないけど、でも・・・そのままだったら、ただそれだけだった。確信している。駆けていく背を見送るだけの、私には。
瞼に焼き付いているあの背を思い出して、すぐ傍にいる人の目をじっと見つめると、少しだけ照れた顔をして視線を逸らされてしまう。
何の努力も出来ないで、事なかれ主義で生きてきた私には真似出来ないほどの努力を重ねて、あの頃よりずっと自信を持って、それでも尚、照れたように目を逸らす、その仕種は変わらない。
変わらない事実を確かめて、ふと上げた目は窓越しの空を見つける。きっかけという存在の宿命のように、忘れ去られた青。もうどこにも、白い飛行機はいない、空。空以外の存在にはなれない場所。
一瞬、その青を切り裂く白を再び見つけた気がして。
顔を戻すと、困惑に近い表情を浮かべている人がいる。大好きな、人。勇気ある、人。酷くて矮小な私とは違って、沢山の努力をした人。飛べないから空を諦めるのではなくて、飛ぶ努力をする人。努力して・・・あの時と同じように、声を。
「どうした?」心配を滲ませた声。心配させるのが心地好いとは絶対に教えられない。
じっと動く唇を見ていて、その時思い出したのはいつかの光景。口に出せなかった疑問。不思議に思っていた事も、尋ねられなかった問いも、幾つもある。たとえば、どうして私なんて好きになってくれたのかとか、いつからなのか・・・は、何となく今、分かった気がしないでもないけど。他にも今のようになるまでどのくらいの努力を重ねたのかとか。
でもそれらの疑問は、形にしない方がいいような気がしたから、唯一口に出しても良さそうな疑問だけを尋ねてみた。答えなんて、期待せずに。
「ねぇ、そういえば・・・何て言ってたの?あの時」
飛んで行った、飛行機に。
見開かれた瞳が、とても綺麗で、純粋で、あの頃の少年を閉じ込めているようで、留めているようで。懐かしくて好きだと思ったし、同じだけ、あの頃の少年が努力した、今ここにいる人が好きだとも思う。
少しだけ照れた顔で逸らされた瞳、彷徨う視線が、聞こえなかった言葉が彼にとって恥ずかしい類だと知らせて、それだけでもう十分だった。十分すぎるほどに。だから私は、もう何も夢見ることなく・・・。
今度はゆっくりと開かれる唇だけを、見つめていた。